閣下と彼と小さな甥



閣下と彼と小さな甥 〜ベルゲングリューンの幸福な一日〜


土曜日の昼下がり、ベルゲングリューンは仕上がったばかりの報告書を確認していた。間違いがないことを確認し、ロイエンタールに差し出すと、スラスラとサインをし、厚い紙の束をファイルに閉じた。
「やれやれ、やっと終わりましたな」
達成感とともに小さな溜め息を吐き出せば、いつも端然としている彼の上官が、首を回してぽつりと呟いた。
「この後、どうする?」
ベルゲングリューンの心がピクンと跳ねた。

昨晩遅くに、ロイエンタールから「サーバーの調子が悪いようで、月曜日に提出しなければならない報告書に関するメールが今届いた。明日出てきてくれ」と連絡があった。休日を返上することになるわけだが、そんなことより、ロイエンタールが自分を選んでくれたことに喜びを覚えた。例え肩の凝る仕事があるとしても、ロイエンタールと共にいることができる時間は、ベルゲングリューンにとって何よりも変えがたい。
それに・・・・・・。

ロイエンタールの言葉が、誘いであることは明らかだった。しかし、気をよくしてすぐにそれに乗ってしまえば、天の邪鬼なこの上官がどう反応するか、想像に難くない。
ベルゲングリューンは、返事を保留したまま、ロイエンタールの背後に回った。
「肩が凝っていらっしゃるのですか?」
「ああ、ここのところデスクワークが続いているからな」
手を掛けた両肩は、軍服の生地越しでもわかるほどに強張っていた。筋をほぐすように揉んでいけば、血行が良くなったのか耳朶がほんのりと赤くなったような気がする。身を屈めて形のよいそれに口づけた。耳朶を甘噛みし、耳殻に舌を這わせると、掴んでいる体に力が入るのが掌から伝わってきた。穴に舌を出し入れするように動かすと、ベルゲングリューンの耳に、小さな吐息が聞こえた。
「閣下・・・」
今まで弄っていた耳から顔を離し、向こうを向いたままの顎に手を掛け、捻るようにこちらを向かせた。こちらに半分だけ顔を向けたロイエンタールは、誘うようにうっすらと唇に笑みを浮かべている。ベルゲングリューンが噛みつくように口づけると、巧みに彼の舌を絡めとられた。気づけば、ベルゲングリューンの後頭部をロイエンタールが押さえ込んでいた。その腕が解かれるまで、口づけは続いた。
「今晩・・・、いえ、夕刻に、お伺いしても宜しいですか?」
濡れて赤く色づいた唇に例えようもない色気を湛えながら、彼の上官は意地悪く微笑んだ。
「仕事なら、もう終わった。『お伺い』して何をするつもりだ?」
甘く掠れたロイエンタールの声は、堪らなく腰にくる。ベルゲングリューンは、暴れだしそうな男心を抑え込んで、もう一度耳に口を寄せた。
「お情けを、頂戴いたしたく・・・」
言葉が終わらないうちにロイエンタールは立ち上がった。
「好きにするがいい」
それだけ言い残し、振り返りもせず執務室を出ていった。
ベルゲングリューンは、その後ろ姿を追いかけ、今すぐ、この場で押し倒したい衝動を、ぐっと堪えた。そして、扉の向こうに隠れた愛しい人の姿を追うように見つけながら、忌々しげにポケットから携帯端末を取り出した。
――クソッ。これさえなければ……。


もうすっかり日が暮れてしまった町を見下ろし、ロイエンタールは考えていた。「夕刻に」と言ったあの男がまだ現れない。殊自分に対しては約束を違えることなどなかった男が、である。何か問題でもあったのかと、ロイエンタールは自分でも珍しく感じるほどに、相手を案じる方向に心が動いている。こんなこと、レッケンドルフなどが知れば、「提督の不断の努力が実を結んだ」などとほざくに違いない。それでも、シャワーを浴びても消えなかった情欲の火をもてあまし、甘いなと思いつつも電話を手にした。
長い呼び出し音の末に、ベルゲングリューンが電話に出た。
「俺だ」
『ああ、閣下! 申し訳ございません。夕刻にとお約束しておりましたのに』
「いや、何かあったのか?」
もし、聞こえていれば、どんなにかベルゲングリューンを喜ばせたかもしれないロイエンタールの彼を案じる言葉が、彼の耳に届かなかった。
「・・・・・・?」
いつまでも返事がない。代わりに微かにベルゲングリューンの怒声と、それに混じって女の甲高い声が聞こえる。じっと耳を澄ましていると、なんとか意味のある言葉が聞き取れた。
――馬鹿! それを寄越せ!なーー
――あたしの話を聞いてよ!
――わかったから、まず携帯を返してくれ。
――嫌よ! あたしよりこの女の方が大事なのね!
――馬鹿を言うな・・・・・・
ロイエンタールは静かに終話ボタンを押した。
「これは…修羅場だな」
気の弱い者が見れば、二三日は夢に魘されそうなゾッとする冷たい笑みを口許に浮かべた。そして、薄手のコートを手に取ってロイエンタールは官舎を後にした。


ベルゲングリューンは玄関の扉をあけ、そこに彼の人の姿を認めて呆然とした。
「ほほう。俺は卿を見くびっていたようだ。卿がこれほどまでに甲斐性のある男だったとはな」
ロイエンタールの冷たい視線の先をたどり、ベルゲングリューンははっとした。
「これは…」
「・・・・・・」
くるりと背を向けて立ち去ろうとするロイエンタールの腕を、空いている方の腕で捕らえた。
「違うのです、閣下!」
単身者用の集合住宅である。玄関先で騒ぎを起こせば周りに筒抜けになる。まして、その騒ぎの相手があのロイエンタール閣下などとは、絶対に知られてはならない。ベルゲングリューンは力づくでロイエンタールを部屋の中に引き入れた。
「閣下、これは妹の子供です」
リビングのソファーにどっかりと腰を下ろし、ロイエンタールは慣れない手つきで子供を抱く、生真面目な部下を睨み付けた。
「別に卿の子であっても、俺には関係ない」
突き放すような冷ややかな言葉より、怒りとも哀しみとも判別できない色を浮かべるヘテロクロミアが、ベルゲングリューンの心を掻き乱した。
「本当に、小官の子ではないのです。閣下、どうかお聞きください」
今すぐにこの誤解を解かなければ、永久にその機会は失われる。そしてそれは、機会と共にこの愛しいひとをも喪うことを意味する。ベルゲングリューンは決死の覚悟で、つい先ほどまでこの場所で繰り広げられていた、馬鹿馬鹿しい事の顛末を語った。

「なるほど・・・。では、育児ノイローゼになった卿の妹の子供の世話を押し付けられたということか」
先程までとはうって変わって、ロイエンタールの目には揶揄するような色が浮かんでいる。
「はい。自分がこんなに大変なのに、兄さんはのうのうと好き勝手に暮らしていてズルい、一晩ぐらい息抜きさせろと・・・。いつまでも結婚しない小官に代わって、苦労を引き受けているのだと言われると、どうにも分が悪く・・・」
情けなく眉を下げるベルゲングリューンに、ロイエンタールはクスッと笑った。その表情に胸を撫で下ろしたベルゲングリューンは、小さな甥を抱えたまま、ソファーに座るロイエンタールに詰め寄った。
「小官が結婚して両親を安心させていれば、妹は育児ノイローゼになどならなかったとも申しまして・・・・・」
「なんだ、その責任の一端が俺にあると言いたいのか?」
「違いますか? 」
身を屈めて意地悪く左の口角を上げている唇に、口づけしようとした。
「あう、あー」
傍らから小さな手が延びてきて、ロイエンタールのシャツの衿元を握り締めた。
「こら、放すんだ」
申し訳ありませんと謝りながら、小さな手を引き離そうとした。しかし、乳児の握り締める力は侮れず、また、無茶をすれば壊れてしまうかもしれないという虞から、なかなかその手をはがせない。
「アヒム! 放しなさい!」
鋭く叱るベルゲングリューンに驚いたのか、小さな手がパッと放れた。と同時にアヒムは火がついたように泣き出した。鼓膜に響く不愉快な泣き声に、ロイエンタールは眉をひそめる。ベルゲングリューンは慣れない手つきで泣く子をあやすが、アヒムは一向に泣き止まない。
「耳が馬鹿になりそうだ。早く何とかしろ」
「は、只今」
泣き止まそうと焦れば焦るほど、泣き止まないのが子供である。小さい体の何処からと思う大音量が広くはない部屋に響き渡る。
「ああ、そうだ。腹が減っているのやも知れません。閣下、ちょっとお願いできますか?」
「えっ?」

アヒムにミルクを飲ませ、自分達も妹が持参した母の手料理を温めて食べ終えた。食後のコーヒーを捧げるように持って、ベルゲングリューンはロイエンタールのいるリビングへ向かった。そこに彼の人がいるだけで、この素っ気ない独り身の住まいがなんと豪奢に見えることか。うっとりとその光景に見とれながら、彼はとんでもない状況の中で気がついたいくつかのことを整理した。
まず、アヒムが閣下といると大人しい。自分が抱くと泣きじゃくるアヒムが、閣下の声が聞こえると泣きやみ、抱っこしてもらえばじっとその美貌に見いっている。さすがにこれには閣下もお気付きになったらしく、
「さすがに卿の甥御だな。俺の顔が好きなようだ」
などとおっしゃっていた。しかし、それは誤解だ。自分が愛してやまないのはオスカー・フォン・ロイエンタールという存在すべてであって、決してお顔だけではない。
次に、閣下がこのとんでもない状況に流されていらっしゃるということだ。普段の閣下なら子供を抱えておろおろする自分に、冷たい一瞥を加えるや、すぐにこの面倒に関わらぬように立ち去っていらっしゃっただろうに。想像を遥かに越えたこの現状が、閣下の判断力を鈍らせているのだろう。
そして、ここが一番重要なのだが、なぜ閣下がここにいらっしゃったかということだ。約束の時間になっても現れない自分に掛けた電話からは、ヒステリックに叫ぶ妹の声が聞こえたはずだ。これは、嫉妬だろうか。閣下は私に嫉妬してくださったのだろうか。

ロイエンタールの膝の上で寝息をたて始めたアヒムをそっと受け取り、ゆりかごに寝かせた。ベルゲングリューンは、この馬鹿馬鹿しい慌ただしさの中にいて、名状しがたい暖かな満足感を味わっていた。
閣下にお仕えすると、すべてを捧げると決めたとき、普通の家庭を持つことは諦めた。それは決して悲壮な覚悟などではなく、彼にとってはごく自然な決断だった。しかし、友人の家庭を覗くたびに、幸せそうな友人を見るたびに、ある種の羨望に似た気持ちを持つことがなかったとは言い切れない。それが今、閣下がいて自分がいて子供がいる。これはまるで、自分にとって理想の「家庭」そのものではないか。
ベルゲングリューンは昼間にまして疲労の色を濃く滲ませているロイエンタールの手をとった。
「お疲れですか?」
「ああ、肩が凝った」
首筋を揉む白い手を取って口づけて、ベルゲングリューンはロイエンタールに『お伺い』をたてた。
「子供は寝ました。あとは我々大人の時間ですが・・・・・・」
 上目遣いに見ると、ヘテロクロミアがふっと細められた。昼間に点した情欲の焔はまだ消えていなかったようだった。

 ベルゲングリューンはロイエンタールをベッドの上にいざなった。
すっかり裸にされたロイエンタールは、上半身を少し上げてベッドに横たわっている。ベルゲングリューンはそっと足を手に取り、ロイエンタールが唯一身につけている靴下を丁寧に脱がせた。そして、形の良い足の甲に口づけし、そのまま指一本ずつを咥えて愛撫を加え、最後に足の裏をぺろり舐め上げた。くすぐったいのか逃げようとする足首を掴んで捕らえ、徐々に内踝から上に向かって唇と舌を這わせていった。内太腿の滑らかな感触を十分味わったあと、形を成し始めたロイエンタールの中心を根元から先に向かって裏筋をちろちろと舌を這わした。そのまま感じるところに触れるだけのキスを繰り返すと、ロイエンタールの上半身が倒れベッドに沈み込んだ。薄らと開いたヘテロクロミアは濡れていて、妖艶な光を放っている。ベルゲングリューンは誘われるようにロイエンタールの下肢を押し広げ、息づき始めた蕾を解きほぐすべく顔を近づけた。

「んっ・・・」
 胎内でベルゲングリューンが動いている。探るように角度を変えて突き上げていたものが、今は執拗にロイエンタールの弱いところばかりを責め立ててくる。下腹から痺れるような快感が膨らんできて、ロイエンタールの吐息を切ないものにしていく。
「はっ、んんっ」
 吐精せずに迎えた絶頂は全身に行き渡り、この快感にすべてを委ねてしまおうとロイエンタールはベルゲングリューンの背に腕を回し目を閉じた。これからくるはずの激しい行為を期待して。
 しかし、何を思ったのか、ベルゲングリューンは深く貫いたままピタリと動きを止めてしまった。さらなる快楽を求めて蠢く内部をもてあまし、ロイエンタールは目を開き自分にのし掛かっている男の顔を見た。
 視線を感じたのか、それまで扉の方を見ていた目をゆっくりとロイエンタールの顔に振り向けて、ベルゲングリューンは言った。
「何か聞こえませんでしたか?」
先程までの粘膜が擦り合う湿った音とスプリングの軋む音が止み、暗い寝室には二人の弾む息遣いだけが聞こえていた。
「さあ、何も聞こえないが・・・」
行為の先を促すように締め付けられ、ベルゲングリューンが小さく唸った。その時――
『ワァーーン!』
隣室から聞こえる泣きじゃくる声に、ロイエンタールは脱力し、ベルゲングリューンは身を強張らせた。
「・・・・・・いかがいたしましょうか?」
「・・・どうにも、仕様はあるまい」
申し訳ございませんと小さく謝罪し、ベルゲングリューンはロイエンタールの胎内から退いた。
「んんっ」
排出される感覚に身を仰け反らした愛しい人に名残惜しげに口づけして、ベルゲングリューンは寝室を出ていった。
しばらくして戻ってきたベルゲングリューンの腕には、招かれざる小さな客が抱かれていた。熱い体に冷えた上掛を纏い、迫り上がるような欲望に耐えていたロイエンタールは、大きく溜め息をついた。
「申し訳ありません。どうしても泣き止みませんので・・・、閣下のお力をお借りしたく」
「………」
闇の中でロイエンタールがくるりと背を向けた気配がした。ベルゲングリューンはベッドサイドのランプのスイッチを入れた。ほんのりと明るくなった室内に、艶かしいラインを描く盛り上がりがあった。
「閣下・・・」
ぐずるアヒムを抱いたままベッドに上り、ロイエンタールの顔のその先にその子を横たえた。こちらの方は壁と接しているのでアヒムが暴れても落ちる心配はない。
「なんのつもりだ!」
普段なら皆が竦み上がるような叱責も、甘く掠れた声で言われると、男心を煽るだけだ。
「私の甥は、私と同じく、閣下のことが好きなようでして・・・」
涙の跡が残るつぶらな瞳で、あどけなくロイエンタールを見ているアヒムの頬を指先でつつきながら、ベルゲングリューンは囁いた。
「ああ、もう泣き止みました」
優しく頭を撫で、胸をとんとんと叩いてやると、幾ばくもせずにアヒムは小さな寝息をたて始めた。
ベルゲングリューンはロイエンタールに纏わりつく上掛を捲り上げ、まだ熱を失っていない体に己の体を重ねた。
「おい、このままヤるつもりか」
「揺りかごに移せば、また泣くかもしれませんし・・・」
それに、と昼間弄んだ耳を甘く噛んで吐息を吹き込むように言った。
「あなたの喘ぎ声も、私の甥にはよい子守唄になるでしょうから」
言葉の途中で、蕾を押し開きわけいってきた熱い欲情の塊に、ロイエンタールは白い首を仰け反らした。

 焦らしに焦らされた挙げ句にもたらされた快感に、二人の体はベッドに沈み込んだ。ロイエンタールに覆い被さったまま息を整えていると、今まで耳をかすめていた情事の後の吐息が、安らかな寝息が安らかな寝息に変わっていることに気づいた。
「閣下、閣下・・・・・・」
 肩に手を掛けて小さく揺すぶると、不機嫌そうなヘテロクロミアに睨まれた。再び希有な瞳を隠してしまった美貌を見下ろし、ベルゲングリューンはシャワールームに向かった。
 シャワーから戻ったベルゲングリューンは、用意したタオルでロイエンタールの体に残る情事の跡を拭き取った。よほど疲れていたのか何をしても目を覚ますことはない。
ベルゲングリューンは改めて疲労の色を滲ませて眠る、彼の命ともいうべき人を薄明かりの元で見た。そして、その横にこれも安らかに夢見る小さな甥を見た。彼の親友がどんなに忙しくても、疲れていても、無理をしてでも、毎日家に帰りたがる気持ちが少し分かった気がする。最愛の者たちが幸せそうに眠る姿を見る一時が、こんなにも心を幸福で満たしてくれるものだったとは思いもしなかった。
「疲れも吹き飛ぶ、か・・・・・・」
 ベルゲングリューンが一生味わうことなどないだろうと思っていた幸福感に浸っているとき、インターフォンのチャイムが鳴った。
「誰だ、こんな夜中に」
 ベルゲングリューンは後ろ髪を引かれながら、寝室を後にした。

「兄さん! アヒムは? あの子はどこ!」
 非常識な訪問者は、彼の妹だった。会ったらこれでもかというほど文句をつけてやろうと思っていたが、子どもを探しておろおろする様子を見ると、何も言えなくなった。
「ちょっと待て。お前、こんな時間にどうしたんだ?」
「アヒムはいるの? 大丈夫なの? 兄さんにあの子を預けるなんて私、なんて馬鹿だったの! ねえ、早くあの子を・・・」
 今にも家捜ししそうな勢いの妹をリビングに押しとどめ、ぐっすりと眠るアヒムをロイエンタールの傍らから抱き上げ、妹に渡した。我が子の顔を見て安心した妹は、恥ずかしそうに謝った。なんでも、一晩中学生時代の友人と遊び回るつもりだったが、どうにもアヒムのことが頭から離れず、学生の頃のように心から楽しむことができなかった。そればかりか不安が募り、いても立ってもいられなくなって、気づけばここに来ていたのだという。
「ごめんね。大変だったでしょう?」
「いや、アヒムはいい子だったぞ」
 子どもを抱く妹は、すっかり母の顔をしていた。
「本当? この子、一度泣き出したら私でも手に負えないのよ。夜泣きもひどいし。こんなにぐっすり眠るなんて、珍しいんだから」
「そうなのか?」
 妹はアヒムの桃色の頬に頬ずりし、スンスンと匂いをかいだ。
「あら、いい匂いがする」
「ん?」
 ベルゲングリューンも鼻を近づけてみるが、特に何も匂わない。
「あら、兄さん。これは香水の香りよ」
 妹は驚いたように彼を見た。
「香水か・・・」
今日は一日ロイエンタールがアヒムを抱いていた。その移り香だろうが、鼻が慣れたベルゲングリューンには気にならなかった。
「ねえ、兄さん。もしかして今、彼女が来てるの?」
「へ?!」
 キョロキョロ部屋を見回す妹が、だったら、と納得がいったように言った。
「この子、美人に弱いのよ。どんなに泣いてても、綺麗なお姉さんを見るとすぐに泣き止んじゃうの。彼女、綺麗な人なんでしょう?」
 綺麗なお姉さんではなくて、綺麗なお兄さんを見ても泣き止むぞ、とは口が裂けても言えないベルゲングリューンはだんまりを決め込んだ。
「迷惑かけてごめんね。でも、今度絶対紹介してよね」
 じゃ、と荷物をまとめて妹は帰っていった。まったく、嵐のような奴だった。
 ベルゲングリューンはロイエンタールが眠る寝室に戻った。
「恋人か・・・」
 まさか、この人を「彼女」として紹介できるはずはない。「上官」という形でなら可能だが。
 ベルゲングリューンは頭を振った。今以上を望むなど、思い上がりも甚だしい。この関係を望んだのは彼の方なのだ。
 しかし・・・。
 ベルゲングリューンはロイエンタールを背後から抱きしめるようにして横になった。
 今だけは、この仮初めの幸福を味わうことを許してもらいたかった。たとえそれが朝が来れば儚くも消え去るものであったとしても………。

おしまい


2013年のロイ受けアンソロジー「tristan」に掲載していただいたものの再掲です。



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