後フェザーン殺人事件 9



 官舎へ戻ったロイエンタールはシャワーを浴びた。打ちつける水流にすべてを洗い流すことなどできないが、それでも、彼は頭から冷たい水を浴び続けた。冷えきった身体にバスローブを纏いソファーに身を沈めた。サイドテーブルにはレジーに譲ってもらったワインの空き瓶がある。
 なにから考えればよいのか、いや、考えるべきはこのワインの入手経路に他ならない。しかし、様々な雑念がまとわりつき、明晰な彼の頭脳を珍しく曇らせていた。

ーーカミラ・・・

 寂しく微笑む彼女の姿がロイエンタールの脳裏から消えない。初めて会ったときから、惹かれるものがあった。側にいるだけで安らげるような気がした。しかし、それは決して恋愛感情などではなかった。今ならその理由がわかる。

ーー彼女と俺は、同じ罪を背負っている。


 そして、「女」なだけに、カミラの抱える闇は深い。その深い闇を飲み込み、優しく微笑むカミラに、俺は癒されていたのだろうか。
 ロイエンタールは身体の奥から沸き起こる震えを押さえようと、両腕で自らを抱き締めた。




「可愛いレオノラ。戻ってきてくれたのだね」
 長年にわたり虐待され続けてきたため、彼の身体は金縛りにあったように動かなかった。深夜に子供部屋に忍び込んできた父は、ベッドに近づくとまじまじと我が息子を見つめた。その目には酔いと狂気が宿っていた。父には美しく成長した息子と、亡き妻の区別が付いていないのか、交互に名を呼びながら、彼の寝間着と下着を脱がせ、下肢を割らせた。
「ああ、オスカー。可愛いレオノラ。愛しているよ」
 もし、全力で抵抗したなら父親の行為を拒絶できたかもしれない。しかし、結局彼の身体は父を受け入れてしまった。受け入れたばかりか・・・。


「セックスなど、快楽を得るだけの行為だ・・・」
 それ自体に意味などあってたまるものか。




ーーそんなことって、本当にあるはずないよな?

 ああ、ミッターマイヤー。卿はそれでいい。しかし、俺には卿は眩しすぎるのかもしれない。傍らにいるだけで己の闇が薄れるように感じたのは、気のせいだったのだ。卿の側にいることで、俺は俺の抱える闇の深さを改めて思い知らされたように思う。
 ロイエンタールは、抑えきれない飢えを感じた。今、この飢えを満たしてくれるのはただ一人。例えそれが、歪んだ関係だとしても。いや、歪んでいるからこそ、求めるのかもしれない。
 冷えた体に再び軍服を纏い、携帯端末を手に持った。そして、こちらからは今まで掛けたことのない番号をコールした。

「どうしたのかね? 君から訪ねてくれるなど」
「ご迷惑でしたか?」
「まさか! 嬉しいよ、この上なく」
 ヴァルタースハウゼンは官舎に招き入れたロイエンタールをそっと抱き締め、口づけた。唇から伝わる冷たさに驚き顔をのぞき込むと、白皙の美貌がいつもより青ざめてるように見える。
「何かあったのか?」
 冷徹な指揮官であるヴァルタースハウゼンも、この貴公子の前ではただの男に成り下がるようだった。凍える愛しい人を前に、どう言葉をかけるべきか、まるでわからない。この年にもなって、情けないことだと自嘲しているところへ、ロイエンタールが手に持った紙袋を差し出した。
「ん? これは・・・」
 中からはワインの空き瓶が一本。その意図を図りかね手に持ってラベルを確認すると、ヴァルタースハウゼンは微かに眉を顰めた。
「これは、閣下がお取り寄せなさっているワインに間違いありませんか?」
「ああ、確かに儂の領地で作られたものだ。しかし、なぜこれを君が?」
 このワインが、領主であるヴァルタースハウゼンのためだけに作られている、と言っても過言ではないものだということは、彼自身が一番よくわかっていた。だからこそ、それをロイエンタールが持っていることは、不自然極まりないことなのである。
 ロイエンタールは慎重に言葉を選びながら、「メーヴェ」で起こった事件のあらましを語った。そして、自分が今抱いている疑念を口にした。
「なるほど・・・。そのような場末の居酒屋にこのワインがあるのは、君が思うように明らかにおかしなことだ。しかし、このワインの存在を知り、なおかつ取り寄せているのは儂しかおらぬと断言できよう」
 ならば、このワインがイゼルローンに入ってきた経路は同じである。では、どの時点で誰が「メーヴェ」に持ち込んだのか。そこにベールケ氏が何らかの形で関与していることは間違いあるまい。
「閣下、どのような経路でお取り寄せなさっているのか、お聞きしても宜しいですか?」
「うむ。それらはドレッセルにすべて任せておる。明日にでも詳しく聞けるよう、時間を作らせよう」

その夜、ロイエンタールはヴァルタースハウゼンを強く求めた。いつもは眉をひそめ、嬌声を噛み殺して快感に耐えていたロイエンタールが、この日は自ら身を捩り快感を引き出そうとする。感じやすい身体をより敏感にするように、甘やかな喘ぎをあげる姿に否や応にも煽られる。抱き潰しはしないだろうかと危惧しながらも、乱れる貴公子の嬌態に触れては、男心を抑えられない。何度目かの絶頂を迎えさせたとき、ヴァルタースハウゼンはロイエンタールが気を失っていることに気づいた。汗で貼り付いた乱れた暗褐色の髪を掻き上げ、秀でた額にひとつ口づけを落とす。
「これでよかったのか? それとも、何があったのか、訊いてやればよかったか? 君はもっと、儂に甘えてくれても良いのだぞ………」
脱力した身体に腕を回し、その半身を胸の上に引き上げた。冷たかった身体は今はしっとりとした熱を帯びている。その熱が冷めないように抱き締め、ヴァルタースハウゼンは眠りについた。

目が覚めたとき、ヴァルターハウゼンの姿はなかった。代わりに枕元にメッセージが置かれていた。軍用便箋を使うあたりあの方らしいと、ロイエンタールは決して人には見せぬ微笑みを湛えた。そして、まだ握力の戻らない手で、丁寧に折り畳まれた便箋を開けた。
『愛しのオスカー』から始まるその手紙には、昨夜の彼がどれ程可愛らしかったかと言うことと、副官ドレッセル大佐との面会時間と場所が記してあった。ロイエンタールは身が引き締まるような緊張感を感じつつも、司令官の少し癖のある文字に、まるで彼の人が側にいるような充足感を覚えた。


指定された時間にロイエンタールが赴くと、すでにドレッセル大佐はその場所にいた。約束の時間よりも随分余裕をみてきたロイエンタールではあるが、上位者を待たせたことにはかわらない。型通りに陳謝した。
「遅くなりまして申し訳ありません。また、この度は小官のためにお時間を頂きましたこと、感謝しております」
ドレッセルはじろりとロイエンタールを見上げて、目の前の席をすすめた。
「閣下からおおよそのことはお聞きした。『シュテルンシュヌッペ』のことだとか」
「はい」
『流れ星』と銘打たれたそのワインは、紺地に流れる星のように流麗な軌跡を描き、銀の箔が押されている。
「もし、卿の言とが本当だとすれば、それは正規のルートでその者の手に渡ったとは考えられない。知っての通り、あれは市場に出回るはずのないものだからな」
「はい。何らかの不正が行われているのは確実でしょう」
ドレッセルはロイエンタールをじっと見た。その目はまるで、値踏みをするように彼の全身を舐め回した。
「軍港管理が卿の任務だったな」
ロイエンタールが諾の返答をする前に、ドレッセルは畳み込むように続けた。
「軍規に反して降格処分を食らった者が、後方に回されて来るなど、今までなかったことだからな、調べさせてもらった。卿は随分と上昇志向が強いようだ」
「………………」
「それに、能力も高く、前線に出せば必ずや軍功をあげる。それでは、一階級の降格など大した意味もない。卿の元の上官はそう考えたのだろう。大層憎まれたものだな。」
「………………」
「前線に戻りたいか? 閣下に近づいたのもそのためか? 閨でのおねだりでは飽きたらず、不正のでっち上げでも考えたか!」
さすがのロイエンタールも、咄嗟にはドレッセルの思考についていけなかった。 反駁する間もなく、ドレッセルは続けた。
「卿の求めるものは与えてやろう。だが、その穢れた体でもう二度と閣下に近づくな!」
ドレッセルは懐から取り出した記憶媒体の小さなチップを、ロイエンタールに突きつけた。そして、ロイエンタールが何の反応もしないことに業を煮やしたのか、それをロイエンタールのポケットにねじ込んだ。
そのまま背を見せて立ち去る要塞司令官付きの副官を、呆然と見送りながら、ロイエンタールはドレッセルが残していったものを取り出そうとポケットに手を入れた。と、カサッと指先に何がが触った。要塞司令官の筆跡が残るその紙片を、ロイエンタールはポケットの中で握り締めた。

その日の夕刻、ロイエンタールは「ヒンター・フェザーン」に向かった。「薔薇園」に行く前にとミッターマイヤーに呼び出されたのだ。オーピッツ少尉との約束の時間ギリギリまで、ドレッセル大佐からの情報をもとに調べものをするつもりにしていたので、ミッターマイヤーからの急な呼び出しにロイエンタールはとりあえず軍装の上着をジャケットに替えて、部屋を飛び出てきたのだった。
「ヒンター・フェザーン」に着くと、ドアマンが愛想よく笑いかけ、ミッターマイヤーのテーブルを教えてくれた。ミッターマイヤーもロイエンタールを見付けると、満面の笑みで手を振って居場所を知らせてきた。
「すまないな、ロイエンタール」
「いや、いい」
ロイエンタールはミッターマイヤーの隣に座ると、じっと彼を見た。稀有な金銀妖瞳に見詰められ、ミッターマイヤーは何とはなしに気恥ずかしくなった。
「なんだよ」
「いや」
「『いや』ってなんだよ。何かあるならはっきり言ってくれ」
無防備にも見えるロイエンタールの表情に、照れ臭さを押さえられなくなり、ついつい詰問口調になってしまった。
「俺は卿みたいに美人じゃないから、見てもつまらないだろう………」
見詰められることに堪えられなくなり、顔の前で両手を振ると、ロイエンタールはふと割れに返ったように真顔になると、フフフッと笑った。
「そんな意味で見ていたのではない。ただ、不思議だと思って」
「不思議?」
「ああ」
何が、と問われてもロイエンタールにも答えられなかった。ただ、今日初めて息をついたような、身体中に張りつめていた強張りがふと緩んだような、そんなものを感じていた。だが、自分の気持ちの微妙な変化などを、言葉にしようとも思わないので、ロイエンタールは自分で分かるほどに緩んでいた表情を少し引き締めてミッターマイヤーに尋ねた。
「それより、ベートゲアに何かあったのか?」
「あ、ああ、詳しいことはまだ聞いてはいないんだが、どうやら誰かに付きまとわれているらしい」
「ふうん」
二人の視界に、両手に持てるだけのジョッキを持ったベートゲアが横切った。この日の業務を終えた軍人達が、一日の疲れを癒すべく押し掛ける時間だ。二人を見てペコリと頭を下げた彼女は忙しく立ち働いている。客席から厨房に戻る途中、彼らの席に立ち寄った彼女は、オーダーを取りながら口早やに感謝と謝罪を口にした。
「もう少ししたら落ち着くと思うんです。それまで少し待ってもらえますか?」
しかし、その時は結局訪れることはなかった。ベートゲアの姿が物陰に消えて間もなく、一発の銃声が平穏な酒場に響き渡った。そのあとに続いた絹を裂くような悲鳴に「ヒンター・フェザーン」は一瞬にして喧騒に包みこまれた。

<続く>  
 

back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -