サクラサクラ(2) |
翌朝、鳥の声で目覚めたベルゲングリューンは、隣でまだ深い眠りについているロイエンタールを見た。感情の発露の少ないこの人が「褒美をやろう」や「好きにしていい」などと、珍しいことばかりの昨夜だった。ただ、ベルゲングリューンにはそれが、この気難しい人が自分の提案を喜んでいることの表れだとわかる。もっともっと自分を頼って甘えてくれたら、泣いたり笑ったり喜んだり怒ったりとありのままの感情をぶつけてくれたらと、結婚してから此の方ずっと思ってきたことだったので、少しのことでもベルゲングリューンとしては、躍り上がるほど嬉しい変化だった。 「もっともっと、我が儘でもなんでも言ってくださっていいのですよ」 秀でた額に口付けをひとつ落とすと、昨夜しようと思っていた今日の下調べをするために、愛しい温もりの残るベッドから這い出した。 リビングにタブレット型の端末を持ち込み、調べものをしているベルゲングリューンに、ロイエンタール邸を預かる執事ワグナーがコーヒーを淹れてくれた。そして、自分もその近くの椅子に腰を下ろし、ベルゲングリューンの様子を伺っている。彼が端末画面から目を外し、コーヒーに手を伸ばした頃合いを見計らって、 「どちらに行かれるか、決められましたか?」 と話しかけてきた。 「ええ、ここから半日で行って帰ってこられる所となると、自然と行けるところは限られてきますな」 ベルゲングリューンは、ハイネセンボリス郊外にある、桜の名所を挙げた。 「お休みの日も、旦那様はお屋敷に引き込もっていらっしゃったので、提督のご提案には屋敷の皆が喜んでいるのですよ」 そのワグナーの言葉を裏付けるように、それから入れ替わり立ち替わり、ロイエンタール邸の使用人たちが現れ、ベルゲングリューンに話しかけてきた。 「そこの桜はもう散ってしまったらしい」 「あそこは観光地化していて情緒がない」 「意外に人出の多いところだ」 などなど、ベルゲングリューンが当初計画していた場所は、ロイエンタール大事な使用人たちによって却下されてしまった。頭を抱えそうになったベルゲングリューンに、そっと一枚の紙を差し出したのは、いつもは無口な下男のロバートだった。執事のワグナーを助け陰日向なく働く彼は、屋敷の誰もが喋っているのを聞いたことがないというほど無口だが、そのはにかんだ笑顔が愛らしく皆に好かれていた。ベルゲングリューンはロバートから受け取った紙片を広げて見た。そこには簡単な地図が書かれていた。 「そういえば、ロバートはこちらの人間だったな」 ロイエンタール邸の使用人はオーディンから移り住んだものがほとんどで、屋敷内で交わされる言葉は帝国語であった。もしかしたら彼は帝国語がわかりはするが話すことは出来ないのかも知れない。ベルゲングリューンは少し前まで同盟語と言われていたハイネセンの言葉でロバートに語りかけた。 「これは、君が?」 「あの、はい、いいえ。みんなが………」 「みんな?」 「はい。それで私が地図を描きました」 ベルゲングリューンはもう一度紙片を見た。そこには彼が聞いたこともない場所が記されていた。 「アンナやザンドラに囲まれては、ロバートもさぞ怖い思いをしただろう」 車中、朝の出来事を聞かせるとロイエンタールはクスクスと笑いそう言った。先代からロイエンタール家に仕えている彼女たちは、ロイエンタールですら頭の上がらない存在だ。また、子供のいない彼女たちにとって、ロイエンタールは我が子以上の存在だった。 「で、これからそこに行くのか?」 「はい。山間の小村だそうで、日照時間が短いために、春の訪れが他所よりも遅いのだそうです。少し遠いですが行ってみませんか?」 「ああ」 助手席でロイエンタールが伸びをした。 「着くまで寝ていても構いませんよ」 昨夜の情事の激しさを思い出し、そう言ったのだが、ロイエンタールはそれには答えずに、 「疲れたら運転を代わってやろう」 と言った。ベルゲングリューンは車を走らせながら、あることを思い出した。 「閣下は車の運転がお好きなのですか? 以前にもそんな風に仰っていたことがありますな」 「車だけではない。宇宙船でも飛行艇でも、運転するのは俺は得意だ」 「えっ?!」 「おい! 危ないだろ。前を向いて運転しろよ」 「申し訳ありません。………………ところでそれは、客観的に見て『得意』ということなのでしょうか?」 「ん、どういうことだ?」 ベルゲングリューンの脳裏には、残念なことになってしまった機械の数々が浮かんだ。ロイエンタールは機械音痴だ。今までの経験から彼はそう心得ていた。だから、何かあれば自分を呼ぶのですよと言い聞かせ、どんな些細なマシーントラブルであってもロイエンタールには触らせなかった。 「いえ、特に意味は………しかし、閣下」 「ん?」 あえてここでロイエンタールの機嫌を損ねる必要もない。 「閣下は私の楽しみをご存じですか?」 「お前の?」 「はい。私は貴方を助手席に乗せてのドライブが、大好きなのです」 「………俺を?」 「はい。以前は仕事でしたがよくございました。しかし、こちらの来てからはめっきりその機会もなくなってしまいました」 「そうだな」 二人の脳裏には、緊迫した戦時下の様々な場面が甦っていた。 「あの頃は、こんなのどかな気分でのドライブではなかったが」 「それでも、私にとっては数少ない楽しみでした。こうしてハンドルを握っていると、まるで貴方を独り占めしているような気分になれましたから」 助手席から、ふふっと笑う気配がした。 「俺はお前に独り占めされたんだな」 その艶のあるバリトンの響きが、あまりに温かかったので、ベルゲングリューンはえも言われぬ幸福感に包まれた。それはまるで、久しぶりにハイネセンの地上を照らす、春の日差しのように彼の心を暖めた。 結局、目的地に着くまでロイエンタールが目を瞑ることはなかった。他人が聞けば何が可笑しいのか、というような話題であったが、途切れることなく会話は続き、二人には楽しい時間だった。これだけの長時間、仕事の話抜きで語らえるだけの時間を積んできた。そのことが何より嬉しかった。 ロバートが記した地図は、初夏の花ー躑躅で有名な一帯を示していた。もうあと半月もすれば観光客で溢れる此処も、躑躅の時期にはまだ早い今は閑散としていた。 「おい、あれは何だ?」 ふと会話が途切れたとき、車窓の外を見上げるようにしたロイエンタールが、登山道の入口を探しながら車を流していたベルゲングリューンに訊いた。ロイエンタールの視線をたどるように見た先には、山の急な斜面を上に向かって張り伸ばされた索条があった。 「ああ、あれはロープウェイです」 「ロープウェイ……」 「車でこのまま上に登れますので、今日は」 「あれに乗りたい」 ベルゲングリューンの言葉尻に、ロイエンタールは被せて言った。 「しかし、あれは………」 テロを警戒しなければならない立場のものにとって、ロープウェイはなかなか、リスクの高い乗り物だ。 「わかっているさ、お前の言いたいことは。だがな、ベルゲングリューン………」 警護の専門家なら、絶対にロイエンタールをあのような危機管理のしにくい乗り物には乗せるまい。だから、今日の機会を逃せば次の機会はないに等しい。 「俺はあれに乗りたい」 狙ったような上目遣いなどがあったなら、ベルゲングリューンもそれを茶化して煙に巻くこともできたに違いない。だが、この口調はだめだ。我が儘を言う子供のような口振りと、一歩も引かない強気な姿勢にくらくらする。ベルゲングリューンはこれに弱い。 「しかし、あんな小さなゴンドラで顔を指されるようなことになっては、気まずいでしょう?」 小さな抵抗を試みるが、全く取り上げてもらえないまま、ベルゲングリューンはロープウェイ乗り口近くの駐車場に車を停めていた。 人気のない乗車券売り場を覗き込んでいると、隣の茶店から声が掛かった。 「まだ、躑躅は咲いてないよ」 前掛けで手を拭きながら出てきたのは、スカーフで頭を包んだ中年の女性だった。 「いや、躑躅ではなく、桜を見に来たんだ。まだここは咲いているという話を聞いて」 「あら、そりゃいいよ。ここはさ、あんまり知られちゃいないけど、桜も綺麗なんだよ」 小屋の扉を開けて入っていったところを見ると、彼女がここの担当でもあるのだろう。 「大人二人だね」 先程まで何処かに行っていたロイエンタールが、背後に立っていた。こういうやり取りが物珍しいのだろう。 「はい、次の発車は10分後だよ」 チケットを手渡しながら、乗り口を示すために顔をあげた彼女の頬がみるみる朱に染まるのを見て、ベルゲングリューンはそれ見たことかと思った。しかし、当のロイエンタールは我関せずだ。 「もしかして、ロイエンタール総督? 本物?」 「ほら見てみなさい。指されたではありませんか」 「だが、ゴンドラの中は俺たちだけだ。気まずくもなんともない」 ベルゲングリューンは乗車券売りの彼女が持たせてくれた包みを開けた。ふんわりとシナモンに似た香りが広がった。匂いに釣られて傍に来たロイエンタールに、包みの中身を見せた。 「これは桜餅ですな」 小振りなそれをひとつ摘まんでかじった。 「閣下もおひとついかがですか?」 甘いものが苦手なロイエンタールは、少し迷った後手を伸ばした。 「しかし、驚きましたな。まさか閣下の存在自体を疑われていたとは!」 ベルゲングリューンは先ほどの光景を思い出した。 ――あんまり綺麗だから、CGか何かじゃないかって、みんな噂してたんだよ。 ――最近じゃ、ニュースにもちっとも出てこないから、もしかしたらもうハイネセンにはいないんじゃないかって。 ――テレビで見るより本物はずっと若くてもっと男前だね! テンションの高い彼女の言葉に、珍しく機嫌の良いロイエンタールが言葉よく会話を交わしたものだから、彼女はさらに舞い上がり、茶店からこの桜餅の入った包みを持ち出し、お付きの人と思われたベルゲングリューンに持たせたのだった。 ――ねえ、ロイエンタール総督に会ったって、人に言ってもいいものかしら? 小声で尋ねる彼女に、ベルゲングリューンは、 ――明日まで我慢して下さい。今日はお忍びですので…… と答えると、嬉しそうに頷いていた。 「そのおかげで、桜の穴場とやらを教えてもらえたのだ」 まるで感謝しろと言わんばかりの口ぶりに、ベルゲングリューンは笑いが堪えられなかった。 わずか10分ほどの空中散歩を終え、二人は山頂駅に降り立った。麓とは異なりひんやりとした空気が心地よい。ハイネセン・ポリスでは感じられない若々しい緑の息吹が満ちているようだ。二枚目の手描きの地図を頼りに散策路を進んでいくと、ポツリポツリと花を残した木々が現れだした。ロイエンタール邸の桜とは異なる桜なのだろう、まるで桃色の鞠が連なったような花もある。一面に烟るような儚げな美しさとは異なる、妖艶で、どこかかわいらしい花々だった。 「八重咲きというのですかな、花がぽったりとしておりますなあ」 「うむ、これは花と同時に若葉も萌え出てくるようだ」 濃いピンクもあれば、綿のような白もある。気づけば二人は濃い薄いピンクに取り囲まれていた。 「これは『大手毬』、その白っぽいのは『白普賢』、桜にもいろいろあるのですな」 「ああ、屋敷にあるのは『染井吉野』という品種らしい」 さすがにここでもソメイヨシノは散ってしまっていた。ベルゲングリューンは先を行くロイエンタールを見た。その背中からは今ここにある桜を楽しんでいる気配が伝わる。 「ベルゲングリューン」 歩みを止めたロイエンタールがくるりとこちらを振り向いた。 「桜も美しいが、俺はお前とこうしてここに来られたことが嬉しい。屋敷の桜はまた来年だ」 気にするな、という言葉は突然吹き付けた風によって聞こえなかったが、口の動きで彼にはわかった。 「閣下……」 風に散らされた花びらがロイエンタールと彼の間に舞い上がった。ベルゲングリューンはその幻想的な光景にほうっと見惚れてしまった。 「ベルゲングリューン!」 何かに驚いたような声がなかったら、いつまでもいつまでのベルゲングリューンは恍惚として立ち尽くしていただろう。愛する人の叫びはどんなときでも彼を覚醒させる。 「閣下! いかがなされましたか!」 桜吹雪の中を泳ぐように駆けつけると、ロイエンタールが光に包まれていた。いや、光ではない。何か輝くものがロイエンタールの周囲を飛び交っているのだ。 「閣下……これは?」 「見てみろ」 ロイエンタールが指さす方を見ると、そこには光を纏った木が佇んでいた。 「これは……これも桜でしょうか」 「そのようだな」 その木が纏っていたのは光ではなく、輝かんばかりの薄黄緑の花だった。枝には小さな木札が吊されており、見れば『御衣黄』と書かれていた。 「『ギョイコウ』ですか……」 ベルゲングリューンはポケットから取り出した端末を操作した。 「仰るとおり、これも桜のようですな。しかし、珍しい……」 「ああ……」 「閣下」 「なんだ?」 携帯端末を触っていたベルゲングリューンは、意味ありげにロイエンタールを見た。 「この花は、まるで貴方のようだ」 「なんだ、軍事総監閣下は詩人にでもなられたか?」 茶化す美しい人に、勿体ぶってベルゲングリューンは言う。 「この花の花言葉です。わかりますか?」 「……さあ?」 「『優れた美人』です」 「馬鹿」 ベルゲングリューンはロイエンタールにそっと近づくと、その細腰に腕を回した。 「美しい花に美しい人。これがまさしく『両手に花』ですな。んっ?!」 ベルゲングリューンは突然のことで何が起こったかわからなかった。 「言うことが親父くさいぞ」 憎まれ口をききながらひっそりと微笑む腕の中の愛しい人からの、気まぐれな口づけだった。 「閣下、外では……」 温かな感触の名残を感じながら、人の目があることを窘めると、もう一度、今度はしっとりと唇を塞がれた。 「いいじゃないか。誰もいないさ」 腕から逃れた気まぐれな人が、さっさと先に進んでいく。 「参ったな……」 ベルゲングリューンは、先ほど照れ臭くて読み上げなかった、『御衣黄』のもう一つの花言葉を思い出していた。 ――永遠の愛。 まるでそれを二人して誓うかのような口づけだった。 〈おしまい〉 |