春昼 |
ようやく厳しい寒さが緩んだある休日の朝、ロイエンタールがリビングに降りていくといつもと様子が違っていた。厨房の方からはなにやら活気めいたものを感じた。使用人たちだけでなく、エルフリーデやフェリックスまでもがそちらにいるらしい。賑やかな声を頼りに開けっ放されたそこを覗くと、目敏く父の姿を認めたフェリックスが元気な声をあげた。 「ファーター!」 「おはよう、フェリックス」 「おはようございます!」 使用人たちも口々に朝の挨拶をすると、フェリックスはロイエンタールの手を取って、皆が囲んでいる作業台まで連れて行った。 「どこかに行くのか?」 ピクニックボックスに詰められる前の、サンドウィッチやらフルーツやらが華やかに散らばっている。これらは皆、フェリックスの手によるもののようだ。 「ぴくにっくにいくんだよ。ぼくとムッターとファーターで!」 エルフリーデによると、フェリックスが通う幼稚園で子供たちが自分でお弁当を作り、それを近くの公園で食べるという「ぴくにっく」をしたのだという。それをフェリックスはいたく気に入り、ロイエンタールが休みの日に一緒に行こうと言い続けていたらしい。「ぴくにっく」は秋口の行事であった。冬のうちはさすがに子どもでも「ぴくにっく」に適さないと判断したようで何も言わなかったのだが、季節が春めいてきた昨日、思い出したようにそのことを言い出したらしい。それで、今朝は慌ただしくも「ぴくにっく」に欠かせない「お弁当」を作ることになったのだった。 「で、どこまで行くんだ?」 「裏の公園よ」 エルフリーデの言う公園とは、屋敷の裏を抜けたところにある、小高い山の上の公園だ。 「すぐ『そこ』じゃないか」 「それがいいんでしょ」 大きめのバスケットにあれやこれやと詰め込むフェリックスを、エルフリーデは何も言わずに見守っている。ロイエンタールはその他必要になりそうなものを見繕うために、厨房を出た。 最初は自らの傑作を自分で持ちたいと言い張っていたフェリックスだが、さすがに三人分の食事の入ったバスケットは子どもの手に負えるものではなかった。持ってやろうというロイエンタールの言葉を待ちかねていたようにバスケットを手渡してきた。ロイエンタールは両手に荷物を提げ、フェリックスに先導されて目的の公園を目指す。エルフリーデも最初は二人と共にいたのだが、大きなお腹を抱えての坂道は厳しいようで、次第に遅れ始め、今では二人から随分離れたところを一人歩いている。 「ムッター!」 公園まで続くなだらかな階段を上り始めたフェリックスは、振り返ってエルフリーデに手を振った。それに応えて手を振り返しながら、「先に行ってて」と叫ぶと、「わかった」と元気な声が谺した。 エルフリーデは大きくなったお腹を両手で抱えるようにして立ち止まった。 お腹の子どもは夏の終わりには生まれる予定だ。エルフリーデはついついフェリックスのときと今を重ね合わせてしまう。あのときは、お腹の子どもが大きくなることに、何の感慨もわかなかった。それどころか、日に日に変わっていく自分の体に戸惑いと不安ばかりを感じていた。生まれてきた子どもがどうなるのかさえわからない。設えだけは上質の、独房のような部屋に閉じ込められて、エルフリーデはただただ耐えていた。子どもに対する愛しさも、その父親に対する複雑な思いも、すべて心の奥底に押し込めてずっと震えていたような気がする。 「ごめんね、フェリックス」 声に出して言うと、涙が溢れそうになる。あの子のことも、この子のように、こんな時期から愛してあげたかった。悔やんでも悔やみきれない、そんな思いが胸を締め付ける。今さらどうにもならないことだ。しかし、お腹の子のことを思うと、純粋に幸せな気持ち一色になれないのは、常にエルフリーデの中にそんな後悔があるからだった。 ふと、何かに誘われるようにエルフリーデは顔を上げた。麗らかな春の日差しのなか、馥郁とした香りが漂っている。今まで足元に落としていた視線を上げて周囲を見回すと、香りの正体を発見した。 「まあ、もう咲いているのね」 石段の両脇に続く上り坂の中程に、梅の老木が濃い紅の花をつけていた。 「もう、春なのね」 口にすると、身体中が春のぬくぬくとした空気に満たされたように感じる。ただそれだけのことなのに、何かに期待する新鮮な気持ちが湧きだした。 「そう、春なんだわ」 あれは冬、私達の冬の季節は終わったんだ、唐突にそう思った。辛い季節を共に生き抜いた小さな相棒に、エルフリーデは例えようもない愛しさを感じた。それは今までの暗さを伴わない感情だった。 エルフリーデはもっと紅梅の芳香を味わおうと、階段から逸れて坂を上ろうとした。 「おい、何をしている?」 急に足元が陰ったかと思うと、エルフリーデの上から声が降ってきた。ロイエンタールだった。フェリックスもいる。なかなか表れないエルフリーデを心配して戻って来たらしい。 判らない程度に心配な表情を浮かべたロイエンタールを見て、エルフリーデの中の春の気配は更に濃くなった。頼ってはならない人、すがってはいけない人を待ち続けていた。その人が、今はこんな近くにいて彼女を迎えに来てくれた。ああ、これが幸せなんだ、とエルフリーデは不安定な足場に立ったまま微笑んだ。 陽の差すような笑顔を浮かべるエルフリーデに、ロイエンタールは重ねて声をかけた。エルフリーデが何をしようとしているのか、皆目見当がつかなかった。 「何をしているんだ? 危ないだろう?」 「梅が咲いているの。いい匂いがするから、もっと近くに寄ってみたくて」 エルフリーデが指差す先をロイエンタールとフェリックスは見上げた。その仕草が面白いほど似ていた。 「梅なら上にも沢山咲いていたぞ」 「まあ、そうなの?」 「ああ、そんな所に行かずに上で見ろ。さあ、行くぞ」 差し伸べられた手を、エルフリーデは取った。ぎゅっと握ると、大きな手が握り返した。何となく気恥ずかしく感じながら階段を上がって行くと、同じように思っていたのか、ロイエンタールが憎まれ口をきいてきた。 「腹に子供がいるのに、あんなところを上ろうとするなんて、何を考えているんだ」 ロイエンタールの手は意外に暖かかった。 「あら、あたし、子供の頃は木登りだってしたのよ。お腹が大きくたってあんな坂何でもないわ」 「木登りだって………。とんだじゃじゃ馬だな」 「オスカーはしたことないんでしょ?」 「ない。悪いか」 「男の子なのに木登りもしたことないなんて、とんだ箱入りね」 「ふふ」 お互いの過去も、冗談にできる程度に乗り越えてきた。 「ねえ、もう春だと思わない?」 「ああ、春だな」 「はるがきたね!」 歌うようなフェリックスの声が、新しい季節の訪れを言祝いだ。 <おしまい> |