来店お断り(3)





「おまちどおさま」
なぜだか無口になってしまったテーブルに記憶よりも一回り大きな肉の塊を運んできたのは、先程の若い女給ではなかった。
「お久しぶりだね。元気そうでなによりだよ」
「ウッ」
ロイエンタールを見ると、我関せずとばかりに横を向いている。確かにここに来ることを言い出したのは自分であったので、ミッターマイヤーは腹をくくらざるを得なかった。しかし、嘘や言い訳は出来ない性格だ。
「どうも、お久しぶりです。あの、その………、申し訳ない」
「何がだい?」
アイスバインを取り分けながら返事をしたのは、この店の奥さんだった。
「『もう来るな』と言われていたにも関わらず、来てしまいました。これが食べたくて………」
「うちの『アイスバイン』をかい? 嬉しいこと言ってくれるね」
「ですが、約束を破ってしまいました」
「んん?」
「多大なご迷惑をおかけしたのでしょう?」
奥さんは手を止めて、気が咎めるような顔のミッターマイヤーと、ばつの悪そうなロイエンタールを交互に見た。そして、ああ、と得心したように頷いた。
「あんたたち、あの時のこと、覚えてないんだ?」
「………………」
「確かにあの時はよく呑んでたからね」
「はい………。酔ってご迷惑をお掛けしたことは、なんとなく」
「ははは、確かに皿が何枚かと椅子が二脚ダメにはなったけどね、迷惑なんかじゃなかったんだよ」
やはり何かやらかしていたのだと、二人は顔を見合わせた。
「いや、店に損害を与えている時点でご迷惑をお掛けしていることに違いない。実は、フラウのおっしゃる通り、あの時のことは二人とも覚えていない。よければ、あの時何があったのか教えてはくれまいか?」
「本当にそうみたいだねぇ」
奥さんは近くにあった椅子を引き寄せ腰掛けた。空いたグラスに店主自慢のワインを注ぎ終わると、少し遠い目をし語り始めた。
「あの時もね、今日みたいに嫌な客があってね。店の手伝いをしていたうちの娘にやけに絡んでさ、困ってたんだよ。身分のありそうな客だったしねぇ………。そこに、いい加減に出来上がったあんたたちが、その客を扱き下ろし始めたんだ。聞こえていないと思ってたのか、それはもう、さんざんな言いぶりだったよ」
そして、怒り始めたその客を二人して叩きのめして追い出したという。
「皿や椅子が少々壊れたって、大事な娘を守ってくれたんだ。安いもんさ」
「そうだったのか………」
ミッターマイヤーは微かな記憶の糸を辿ろうとしたが、上手くいかなかった。目の前のヘテロクロミアも同じように遠くを見るように虚空をさ迷っていた。
「卿、思い出せたか?」
「いいや。どうやら綺麗サッパリ忘れているようだ。しかし……」
ロイエンタールが言いさしたことにミッターマイヤーも気づいていた。それだけのことならば、二人の記憶にある言葉には結び付かない。
「ことの次第は忘れてはいても、『もう二度と来るな』という言葉だけは二人とも覚えている」
「そうなんです。遠慮せず、包み隠さず言ってほしい。必要なお詫びをきちんとした上で、このご馳走を美味しく頂きたいから」
ザワークラストとじゃがいも、それに蕩けそうな豚肉を各々の皿に取り分け終え、奥さんはロイエンタールの顔をじっと見た。
「あんた、結婚は?」
「いや」
「ふーん、じゃあ、まだ女の子を泣かしているんだ」
「………………」
ミッターマイヤーの視線を感じる。ロイエンタールは側面からの攻撃を封じるために、その灰色の瞳を見据えた。そんな静かな攻防があるとは知らない奥さんは、懐かしむようにあの時のことを語り出した。
「あんたたちが助けてくれた娘はね、結婚が決まってたんだ。高校の同級生で、市街地で店を持ってる、本当にいい縁だと誰もが思っていたよ。ところがさ、そんな娘がふいと憂鬱そうな顔をするようになってね、言うんだよ。『あたし、このまま結婚してもいいのかしら』って」

よくあるマリッジブルーだろうと思っていたが、そうではないことに気づいたのは、娘が近頃よく来るようになった変わった目をした若い軍人を、思い詰めた目で追っているのを見たからだ。年の割りに高い階級の軍服を着た青年のことは、軍人の常連客の噂話で知っていた。そう、彼はは常に人々の関心を惹く人物だったのだ。これが例えばテレビや雑誌の中の夢幻の人物ならよかった。それが単なる憧れにすぎないと納得もし得心もできるだろう。しかし、彼は手を伸ばせば触れられる距離にいた。女誑しの下級貴族との噂に反して、彼は真面目で浮わついた風は感じられなかったが、彼では娘は幸せになれない。女の本性がそう教えてくれた。
その矢先のことだった。
娘は身分だけは高そうな破落戸に絡まれ、それを彼が助けてくれた。娘はますます誤解してしまう。彼とその友人が高貴なならず者を叩き出す、その混乱に乗して彼女は娘を厨房の奥に押しやった。そして、その足で大暴れして酔いが回り店先で潰れかけている彼らに言ったのだ。「もう来ないで」と。会わなければ夢は覚めるだろう。当初は塞ぎ込んでいた娘も、彼女の目論見通り、暫くすると娘は憑き物が落ちたように元気になった。そして、何事もなかったかのように元の鞘に収まった。

「あんたたちが悪いんじゃない。こっちの都合を押し付けてしまったんだよ。謝るのはあたしたちの方さ」
奥さんは再びボトルを提げた。
「さ、これで心置きなく味わえるだろ? 『アイスバイン』はうちの亭主の一番の自慢料理さ。たっぷり食べておくれ」
成る程、と点が線で繋がった、そんな清々しさに似た気分でロイエンタールはグラスに手を伸ばした。しかし、唇にグラスの端を付けることはできなかった。
「ミッターマイヤー………、言いたいことがあるのなら言ってくれ」
「いいかのか?」
視線が痛いとはこのことかと、ロイエンタールはグラスをテーブルに戻した。
「ああ………、どうぞ」
「では」
ミッターマイヤーは一つ小さく咳払いをした。目の前のご馳走が冷めきらないうちに終るといいな、とロイエンタールは胸の内でちらりと思いつつ、神妙な顔を作った。
「卿は罪作りな男だ。今回のことについては卿自身は何もしていないと言うかもしれない。だが、そこにこそ卿の問題があるのだと思う」
「俺は悪くない。違うのか?」
「違うな。卿には隙がありすぎる」
「隙………」
隙がないとはよく言われるし、隙を作らないようにも常に心掛けている。それを、隙がありすぎるとは………。
「そうだ。その最たるものは卿に奥方がいないことだろう。奥方の存在こそ、卿の隙を埋めてくれる。なあ、いい加減結婚しろよ」
「………………ミッターマイヤー」
ロイエンタールの素行を改めさせるのに、結婚することに如くはないとミッターマイヤーは考えている。このことは、これまでの親友の言から明らかだった。そして、この先に続く何時ものお小言は、こんな二人の思い出の場所で聞きたいものではない。
「俺に隙があるとすれば、卿が原因だ。どうやら俺は卿といるときに限って、隙だらけの男になるようだ」
「俺といるとき、だけ?」
「そう」
ロイエンタールは深く穏やかに微笑んだ。それは、決して余人のは見せることのない、ミッターマイヤーが独占する顔だった。
「狡いな」
「ん?」
今度はミッターマイヤーが、眉を下げた情けなさそうな表情していた。常に自信に充ち溢れた態度を取る彼の、余り見ない表情だ。
「それでは、すべて俺のせいになってしまう」
「おや、俺はそう言ったつもりなのだが」
二人は顔を見合わせて声を上げて笑った。ミッターマイヤーはなみなみと注がれたワイングラスを掲げた。
「それでは精々卿を見張るとしようか」
「ああ、それがいい。卿に見張られるならば悪いことは出来ん」
ロイエンタールもグラスを上げて、ミッターマイヤーのグラスに合わせた。涼やかな音と共に、歪みのない二人の時間が戻ってきた。旨い酒と気の置けない親友、そこに店主自慢の料理とくれば楽しくないはずはない。翌日が休日なのもよかった。時間を気にせず二人の時を過ごす。それはまるで、佐官の頃に戻ったようだった。「アイスバイン」はみるみる小さくなり、店の看板が近づいた頃にはすっかり二人の胃の中に収まっていた。「意外に食えるものだな」と自分達のことながら感心して、そして、笑いあった。翌日、二日酔いと胃もたれでせっかくの休日をベッドで過ごすことになったことを除けば、本当にいい夜だった、とロイエンタールは後にこの時のことを思い出してはそう思った。


それから幾度かの戦役を経て、大きなものを失いながらも、ロイエンタールとミッターマイヤーは上級大将に昇進していた。彼らのごく身近なところにもその余波が及んでおり、それらの処遇をどうするかに心を砕く日々が続いていた。なので、帝国軍の双璧と讃えられる二人が、この士官食堂で共に昼食を摂るのも随分久しぶりのことだった。結局はランチミーティングになってしまったが、二人きりで過ごせる時間は、二人の肩にのし掛かっている重責を僅かな時間でも忘れさせてくれた。
「そうだ、ロイエンタール。この前エヴァと 『Schweinestall』に 行ったんだ」
「ほう、『豚小屋』にか……」
「アイスバインを食べた。旨いって言ってたよ。あれは家庭では真似できないって、香辛料に秘密があるんだろうって言うことだ」
「成る程な………」
「『Schweinestall』の奥さんに色々尋ねていたが、企業秘密だと言って、教えてもらえなかったよ」
「それはそうだろうな」
「ははは、当たり前だよな」
「そうか」と、ロイエンタールは全く別のことを考えていた。ミッターマイヤーは「あの場所」にフラウをーー大切な人を連れて行ったのか、と。それは、不思議に嫌な感じはしなかった。
「ん? 何だ、何を考えている?」
ここ最近厳しい表情ばかりだった親友が、穏やかに微笑むのを見て、ミッターマイヤーは思わず訊いてしまった。
「いや、何も………」
返事は何時もの木で鼻を括ったものだったが、親友の機嫌を損ねたわけではないことに、安堵した。
ロイエンタールも自分が上機嫌であることを自覚していた。血の臭いが鼻につく生活に渇ききっていた心が、ほんの少し潤ったような気がする。それは、いつか自分もあの店に誰かを連れて行く、そんなささやかな未来の存在を、今まで忘れていたものを、思い出したからだった。

<おしまい>



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