来店お断り(2) |
週末の『Schweinestall』は時間を経るに従って混み合ってきた。ロイエンタールとミッターマイヤーは、「アイスバイン」が運ばれるのを待ちながら、杯を重ねていった。 「あまり酔うと、せっかくの味がわからなくなるぞ」と、お互いを冷やかしつつ、週末で安堵したような雰囲気を愉しんでいた。 その時だった。 「なんだって?! 置いていないだって? 信じられない!」 すみませんすみませんと、ただただ謝る先ほどの女給の声が続いて微かに聞こえた。 「こんな場末の酒場になんて、来るんじゃなかったよ。まったく!」 奇妙に気取った張りのある声に、『Schweinestall』の空気は一瞬にして凍り付いた。どうやら、注文したワインが置いていないことで店を嘲っているようだ。矢面に立たされた年若い女給は災難としかいいようがない。先ほどまで快活だった同じ女給とは思われないほどに、萎縮していた。 連れの女性に「良いところ」を見せんがためか、さらになんだかんだと難癖を付け続けている男に、多くの耳が敵意を持って傾けられていた。張りつめた空気はいつ弾けてもおかしくない状態だった。 「なあ、ロイエンタール。あの男は何を怒っているんだ?」 長閑な言葉は目の前の男に向かって発せられたものであったが、アルコールを帯びた声はよく通り、ねちねちと文句を付けつづけている男の声以外に音のなかった店内のすべての客の耳に届いた。静かな注目を集めていることを知ってか知らずか、声の主は頓着なく連れの男に語りかける。 「酒なら他にたくさんあるだろうに、おかしな奴だ」 「そうだな」 「郷に入りては郷に従えということを知らんのだろうか?」 「知らんのだろうな」 「だいたい『場末の酒場』って、失礼だよな」 「ああ、ここを『場末』などとは言葉を知らん」 「それに、あんなに言わなくったっていいのにな。ほら彼女困っている」 「フッ」 「なんだ?」 「あの手の男はわからんのだ。弱気ものを虐げて悦にいるような男に、女性の気持ちはわからんよ」 「………………。卿が言っても、説得力はないぞ。普段の己の振る舞いを思い出せ」 「何を言う。俺はいつだって女性には誠実だ」 「女性に誠実などと言う輩が、一月毎に女を変えるか!」 二人の世界に入り始めた二人の会話に耳をそばだてながら、周囲は例の男に注目していた。さすがに視線を感じるのか、居たたまれなくなったように、男は席を立った。向かった先はトイレである。息を詰めていた店内は、ほっと息を吐いた。 だがら、「ご免なさいね」との言葉の出所を咄嗟に掴みかね、それがあのいけ好かない男の連れとすぐに結び付かなかった。 「嫌な思いをさせてしまったわね。許してね」 思いがけず掛けられた優しい言葉に、まだ若い女給はつい涙ぐんだ。 「泣かないで、悪いのはこちらなんだもの。あんな人だと思わなかったわ」 忌々しい男にフラストレーションを貯めまくっていた周囲は、思いがけない女性の言葉に胸がすくような気持ちがした。そして、すっくと立ち上がった彼女を見て、驚きが小波のように広がった。どこからともなく、「エリーゼ・ルーベンス」という名が囁かれた。それはこの界隈では有名なオペラハウスの歌姫の名だった。舞台とは趣の異なる普段着姿の歌姫は、衆目を集めながらも余裕の笑みを湛えている。 「つきまとわれて困っていたの。どうしてもって五月蠅いから今日は食事に来たのだけど、がっかりだったわ」 そして静かな足取りでテーブルの間をすり抜け、先ほど彼女の連れを扱き下ろしていたテーブルに近づいた。何が起こるのか、観衆は期待のこもった目で歌姫を見つめていた。 「お久しぶりです、ロイエンタール様」 今をときめく歌姫に、媚びるような甘い声を掛けられた男は、銀縁の間から興味なさげな視線を投げかけた。その冷ややかな親友の態度に、ミッターマイヤーは机の下で蹴りを一つ食らわせた。 「おい、知り合いなのか?」 「さあ、覚えはないが…」 ロイエンタールの答えに期待を裏切られたような空気が流れたが、それは次のエリーゼの言葉で一蹴された。 「まあ、お忘れになったのですか? 仕方ないかも知れません。だって、ひと月も持たなかった女ですもの」 「なっ?!」 ミッターマイヤーは皆を代表してのけぞった。 「ロイエンタール、お前………そうなのか?!」 「んん、ああ、そうだったかな?」 形のよい顎に白い指を掛けて、何か思い出そうとする素振りのロイエンタールに、ミッターマイヤーはほとほと呆れてしまった。 「卿、自分が交際した女性を覚えていないのか………」 「ん? いや、思い出した。そうだ、俺はこの女に振られたのだ」 「ええっ!」 ミッターマイヤーは椅子からずり落ちそうになった。親友は振る一方だと思っていた。 「何を驚くことがある。俺とて振られることもなくはない」 あまりの衝撃に、それは卿の性格の悪さに起因するものだろう、くらいの皮肉さえ出てこなかった。 「いいえ、違うんです」 エリーゼはロイエンタールに寄り添うように立った。 「怖くなったから、逃げたんです」 「怖いって、君、こいつに何かされたのか?!」 女性に対して酷薄すぎるところのあるロイエンタールだが、それ以上の鬼畜な振る舞いをしていたのだろうか? 迷走を始めようとしたミッターマイヤーを押し止めたのは、優しく円やかな声だった。 「そうではないんです。ロイエンタール様はお優しい方でした。怖いのは、この人の傍にいること。この人の傍にいると、私は自分が………、そう、透明人間になったように思えたんです」 「透明人間?」 親友の面前で元恋人に『優しい人』と言われ、ロイエンタールは気まずそうな表情だった。こいつ、誉められたのだからもっと喜べよ、と言いたいところをぐっと堪えて、ミッターマイヤーはエリーゼに先を促した。 「ええ。私はその頃は駆け出しの女優でした。ちょっと売れ始めていて、それで勢いにのってロイエンタール様に交際を申し込んだの。ロイエンタール様は『構わない』と仰って、それは優しくしてくださいました。もう、天にも上る気持ちってこんなものだと思うくらい、幸せだった……」 絵物語から抜け出したような貴公子に大切にされ、 エリーゼはそれだけの『価値』が自分にあるように思った。しかし、時間が経ち落ち着いて周囲を観察できるようになると、誰も彼女を見ていないことに気づいた。女も、そしてや男までもが彼女の隣の男を見ていた。なかにはあからさまな欲を帯びた視線もあった。オペラハウスの看板を張ろうかという彼女には、それが耐えられなかった。 ーーこの人の隣にいると、まるで私はいないみたい………。 「だから『透明人間』か………」 ミッターマイヤーはふて腐れたように椅子にふんぞり返っているロイエンタールを見た。舞姫よりも人の目を奪うって………、何て罪作りな男なんだと思う。しかし、そのことでエリーゼはロイエンタールを恨むところはないようだ。それどころか、わずかな時間ではあるが、二人は幸せな時間を共有していたようだし………。 「私は舞台女優として、注目を浴びたかったの。だから、あなたの傍にいるのが怖かった、醜いエゴだわ」 「いや、お前のそういうところは悪くない。誤魔化し言い繕うより数倍な」 「…………」 「なんだ? ミッターマイヤー」 「いや、なんか、いろいろとな……」 親友は華やかな女性関係のわりには、それを隠している節がある。だから、普段の傍若無人で横柄な態度から、女性にたいしても自分本意な付き合いをしているのではないかと、勘繰っていたのだ。だが、二人の醸し出す雰囲気からは微かながらも甘やかなものさえ感じる。女性不信を口にすることがあると思えばこれか、とミッターマイヤーは一筋縄ではいかない親友の複雑さを垣間見たような気がした。 「で、あの男をどうするんだ?」 粘着質そうな男だ。このままではエリーゼはかなり苦労するだろうとは、そこにいた全員が感じていた。 「ロイエンタール、昔の誼があるんだ、助けてあげろよ」 言葉にせずともわかる、なぜ俺がと書かれた美しい顔に、文句の一つもつけようとしたとき、トイレのトアが開く音が聞こえた。おい、どうするんだと、ミッターマイヤーが声をかけようとしたとき、 「あんなつまらない男に捕まって、おしまいなんて嫌なの」 そういうと、エリーゼはロイエンタールの銀縁眼鏡をつと外した。そして、ダークブラウンの髪に白い指を絡ませ、屈むようにして口付けした。それは、挨拶のキスでは決してなく、親密な恋人同士のキスに見えた。 「えっ? ななっ! あーー!!」 キスは奇声を上げた男が駆け寄り、引き離すまで続いた。 「貴様、エリーゼに何をするんだ!」 「………………」 不躾な男に肩を捕まれ、ロイエンタールは何か言おうとした。しかし、その言葉が出てくる前にエリーゼが男とロイエンタールの間に割り込んだ。 「この人に、失礼なことしないで!」 その剣幕に圧され、一歩後退した男だったが、ロイエンタールの身なりに一瞥をくれると、息巻いたように言った。 「こんな貧乏学生、何だっていうんだ! 僕以上に君を幸せにできるというのか?!」 「あなたって、本当に人のうわべしか見ていないのね。私のこともそうなんでしょう?」 「『そう』って………」 「私がもし『ケルン座のエリーゼ・ルーベンス』でなければ、あなたは私に興味があったかしら?」 「な、何を………。も、もちろんあったさ」 「いいの、無理しないで。私にもその気持ちは分かるから………」 エリーゼはチラリとロイエンタールを見た。恐らくは、彼女も若かかりし日に同じ過ちを犯したことがあるのだろう。 「私のは『売名行為』と呼ばれる類いのものだった。貴方のは、そう、虚栄心なのかしら。どちらにしても、幸せにはなれないわ」 「そ、そんなこと………」 「貴方は私が好きなんじゃないの。私といる自分自身が好きなのよ」 男はみるみる間に赤くなった。図星を突かれたからというよりは、単に恥をかかされたという気持ちが強かったのだろう。腹いせとばかりに『貧乏学生』に詰め寄った。 「貴様、貴様さえいなければ! 貴様がエリーゼをたぶらかしたたんだろう?!」 ロイエンタールの胸ぐらを掴もうと延ばされた手は、隣から延びてきた腕に捕まれた。 「お前、いい加減にしろ」 小柄とはいえ、鍛え上げられた軍人に捕まれた腕はピクリとも動かなかった。 「放せ! こいつのせいで、私のエリーゼが!」 ミッターマイヤーの眉がぴりりと上がった。 「まだわからんのか! 彼女は君と付き合うことはできないと言っているんだ。どんなに相手のことが好きだとしても、いや、好きだからこそ、相手の気持ちを尊重してやらねばならないのではないのか?! 」 大軍を叱責するに等しきミッターマイヤーの言葉に、男はぐうの音も出なかった。男は何とかミッターマイヤーの手を振り払うと、何やら言葉にならない声を上げて、店の外に走り去った。 「ありがとうございました。じゃあ、そろそろ私も失礼するわ」 「えっ?」 てっきりこれから一緒に過ごすものと思っていたミッターマイヤーは、このタイミングで店を出ようというエリーゼに驚いた。 「まさか、あの男を追いかけるつもりかい?」 「まさか!」 エリーゼはにっこりと微笑みそう答えると、少し哀しそうな目でロイエンタールを見た。それは、ごく僅かな時間だったが、彼女を見詰めていたミッターマイヤーの目には、明らかだった。 「違うの、そうじゃないんです………………。 これ以上ここにいると、私も叶わない思いを抱いてしまう。未練ばかりが募ってしまうから」 「ああ………」 エリーゼはロイエンタールの方に体を向けた。そして、取り上げた銀縁眼鏡を弄びながら、 「もし良ければ舞台を見に来て。私、前より上手く歌えるようになったのよ」 と言った。 「ああ、そうか。それは楽しみだな」 答えるロイエンタールの目付きは、意外なことに優しかった。しかしそれは、恋人を見るものではなく、例えば初陣に出る少年兵を見るようなものであることに、ミッターマイヤーは気づいてしまった。もう二人の間に、いや、少なくとも親友の方には恋愛感情というものはないということを。 〈続く〉 |