セレナーデ5




その日の朝、まだ暗いうちに出掛けていった息子を見送り、ベリンダは静謐なリビングに足を踏み入れた。今朝初めて火が入った暖炉の前には、小さな先客がいた。先方もベリンダの気配を感じたのだろう、腹の下に突っ込んでいた鼻先を背中にのせて、こちらを窺っている。暫くそうして見詰めあっていると、ベリンダがここにいることを許すかのように、長い尻尾をパタパタと振った。
「あなた、ここの子なの?」
そっと近づいて、艶やかな黒い毛並みに触れた。心地良さそうに目を細めた様子が可愛らしく、ベリンダは暖炉の前に敷かれた毛足の長い敷物に、少女のように座りこんだ。暫くそうして、黒猫との無言の会話を楽しんだ。そのうちに、しんと静まり返っていたお屋敷に、慌ただしくたち働く人の気配が、一人また一人と増えてきたように感じた。と、のんびりと微睡んでいた猫が、パッと起き上がり、それまでゆるゆると揺らしていた尻尾をピンと立てた。猫は出入り口の方を見る。ベリンダもつられるようにそちらを見た。ベリンダには感知できない何かを感じたのだろう、猫は「ニャー」と鳴いてそちらへ駆けていった。
開いた扉の向こうから、猫の甘えた声が頻りに聞こえる。猫に餌を与えて世話をしている、この屋敷の使用人の誰かが来たのだろうかと、耳を済ませていると、微かに声が聞こえた。
「もう起きていたのか? 今朝は早いんだな」
それは、今までにここで耳にしたことのなかった声だったので、ベリンダはその声の主が誰であるかを理解した。
この艶やかなバリトンの声の持ち主は、新銀河帝国の皇帝の代理人にして、彼女の一人息子がその身命を捧げて仕えている人物ーーオスカー・フォン・ロイエンタールその人に違いなった。ベリンダは立ち上がり身なりを整えた。平民として生を受け、生きてきたベリンダにとって、今まですれ違うことすらなかったような高貴な人だ。粗相のないように、息子のことと、ここ数日お世話になっていることのお礼を申し上げなければ。現れ出たシルエットにベリンダは深々と頭を下げた。
「おはようございます、ロイエンタール閣下。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
そのままの姿勢でベリンダ・ベルゲングリューンですと続けると、
「頭を上げてください」
と声が降ってきた。
「私の方こそ、もっと早くにご挨拶しなければならなかったのだ。許してください、フラウ」
銀モールに彩られた漆黒の軍服を纏った、美しい青年がベリンダの前にいた。
「どうかしましたか?」
自分を見詰めたまま、呼吸も止めてしまったかのような老婦人を、ロイエンタールも見詰め返した。骨太で屈強な印象の強いベルゲングリューンと似たところを自然と探している。
「あら、まあ、イヤだわ………」
ロイエンタールの問いかけに、我に返ったベリンダは、熱くなった頬を手の甲で冷やし、まるで娘のようだと恥ずかしくなる。
「不躾なことを致しましたわ」
見られることに慣れているロイエンタールは、ベリンダが言う不躾が何を指すのかわからなかった。彼にわかったのは彼女の瞳が彼の好きな色だということだった。
「そんなことより、もう朝食はお済みだろうか? よければ此方でご一緒に、如何ですか?」
ナァーンナァーン、と甘えた猫の鳴き声が、ロイエンタールの足元から聞こえる。耳を済ませばグルグルと、喉を鳴らすのも聞こえただろう。
「レーベンも、そう言っているから」
託つけられた猫は、飼い主の思惑などどこ吹く風、足元に頻りに体を擦り付けていた。

「まあ、ではこの猫ちゃんは、あの子が拾ってきたのですか? ご迷惑でございませんでしたかしら?」
「レーベンと言うのですよ」
「レーベン(命)なんて、素敵ななお名前ね」
「ええ。何でもゴミ箱に捨てられていたとかで、この子だけ命を取り止めていたということです。名付け親は旦那様です。迷惑であろうはずがございません」
「ハンス」
「お喋りが過ぎましたか? 申し訳ございません」
朝食を取るというロイエンタールに、上機嫌になった乳兄弟は珍しく饒舌な様子で配膳を手伝っている。
「でも不思議ですわ。あの子が動物を拾ってくるなんて。子供の頃からそういうものには余り興味がないと思っていたものですから」
「レーベンは特別でございます」
「特別?」
「はい。旦那様に似ていますから」
「ハンス!!」
睨まれながらも、ワグナーは平然とカトラリーを並べていく。じゃれあいのような二人のやりとりを微笑ましく見つつ、ベリンダはゴミ箱に捨てられてる瀕死の子猫を想像していた。そして、この目の前の堂々とした美丈夫を、どう見ればか弱く庇護欲を擽られるものに見えるのか、我が息子ながら、その想像力についていけなかった。
「目だ」
「え?」
「似ているのは、私の目とレーベンの目が同じだから」
その猫と同じ目で、ワグナーはギロリと睨み付けられた。もうそれ以上喋るなということらしい。夫婦の間の睦言をすべて知っている訳ではないが、ベルゲングリューンがロイエンタールを猫に例えることはよくあることだった。猫と自分を繋げて、人には知られたくないような会話を交わしたことがあるのだろう。
「では、御用がありましたならば、ご遠慮なくお申し付けください」
ワグナーが出ていくと、二人の間に静寂が訪れた。普段ならその事に何も感じることのないロイエンタールだが、このときばかりは居心地悪さを感じていた。何か話さなければと思うが、社交的とは対極にある自分の性格を、このときほど煩わしく思ったことはなかった。表面上は平静を装って、しかし、内心ではかなりな焦りを感じながら、ロイエンタールは普段はとらない朝食を口に運んだ。
「そういえば、ベルゲングリューンに見合いの話があるとか?」
芸がないと自嘲しながら、ロイエンタールはそう切り出した。
「まあ、息子はそのようなことを閣下に申し上げましたか?」
「ええ……」
素肌を合わせたベッドの中で、などとは思いもよらないベリンダは、我が子がこの目の前の高貴な人物と、良好な人間関係を築いていることに喜びを感じた。
「息子ももういい歳でございます。せっかくの平和の御代でございますもの、人並みに幸せになってほしいと願うのは、親ならば当然のことですわ」
「だから見合いを?」
真剣な色違いの目に見詰められ、ベリンダはその美しさに面映ゆくなり、顔を伏せた。
「お話があるのは事実です。でも、嫌がるものを無理にすすめようとも思っておりません」
「ほう?」
「閣下にはお分かりにならないかもしれませんが、この年になりますと、宇宙旅行など相当の覚悟のいることでございます。況してや、それが旧都からこちらまでとなりますと、それはもう、命懸けでございますわ」
ベルゲングリューンにはないウィットに富んだ言い回しに、ロイエンタールはクスッと破顔した。
「『命懸け』ですか」
「ええ。それをただ『顔が見たかったから』という理由でしでかしたなんて、あの息子に向かって言えやしません」
真面目腐った風を装ったベリンダの物言いに、ロイエンタールは口角は上がりっぱなしだ。
「では、貴女は『見合い話があるから
会う必要があった』と理論武装なさっていた、と」
「息子は偏屈なところがございますから、『顔が見たいだけなら高速通信を使えばいい』とかなんとか言いかねません」
ロイエンタールは口元にまで運んでいたコーヒーを、飲むことは叶わなかった。肚から込み上げてくる笑いで、カップが震えた。
この母親にしてあの息子あり、か。
「確かに、あり得ることです。だが、それは照れ隠しでしょう。彼にはそういうところがある」
ベリンダは、にこやかに笑顔を浮かべたロイエンタールをはっとして見た。この年若い貴公子は、自分が知らない間の息子を知っている方なのだ。特に「現在の」ハンス・エドアルド・ベルゲングリューンについては、彼の方が詳しい。
ベリンダは胸に痺れが走るのを感じた。初めそれを嫉妬なのかと思った。しかし、胸にほのぼのとした温もりが広がっているのに気付き、それが悪い感情ではないことに安堵した。
「ああ、わかったわ。だから髭で顔を隠しているのね」
「ククッ………」
ロイエンタールは腹が捩れるという経験を初めてした。クスクスと込み上げる笑いの波に翻弄され、止める術がなかった。
「失礼………、彼の髭をそのように捉えたことなど、なかったものですから」
漸く笑いを収められたとき、ロイエンタールの気持ちも定まっていた。
「それで、見合いのお話を彼になさったのですか?」
「いえ。その話の前に、息子に好い人がいるのかを尋ねたのですわ」
「ほう。それで、彼は何と?」
「何も答えてくれませんでした。閣下………」
「はい?」
ベリンダは再会を果たした晩から、彼女を悩ませていたことを、息子の上司であるロイエンタールに、投げ掛けてみることにした。もし万が一にも彼女の懸念が現実であったときには、ロイエンタールの絶対的権力を行使してでも、息子を止めてもらわなければならない。
「あの子は、息子は、道に外れたことをしてはいないでしょうか? 母親にも言えないような、そんな人をお相手にしてはいないでしょうか?」
そのことで、ロイエンタールにまで迷惑が及んではいないだろうか、とベリンダは心配そうな声で続けた。
ロイエンタールは心の中で嘆息した。
ベルゲングリューンはロイエンタールを思う余り、周りが全く見えていない。そしてその結果、彼を大切に思う人びとの心を傷つけている。
「あの男に関してそれはない。それについては私が責任を持とう」
ベリンダの表情は半信半疑だ。ロイエンタールは彼と同じ、愛しい碧の目を見詰めて言葉を続けた。
「では、直接貴女の目でお確かめになればいい。彼にふさわしい相手かどうかを」

<続く>



back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -