セレナーデ(1) |
ベルゲングリューンは、久しぶりの陶磁の肌に手を彷徨わせていた。 本当ならば、今日、このような行為に及ぶべきではないのかも知れない。視察旅行帰りの疲れた身体に鞭打たせるようなこんな拙い行為を。そうわかっていても、この手を止められないのは、自分でもわかっている、嫉妬だった。いや、嫉妬などと言うのも烏滸がましい。これは独占欲だ。子供染みた独占欲にすぎなかった。 ロイエンタールはこの3週間、ハイネセン各地の視察に出かけていた。目的は軍の施設もあれば、行政機関、民間施設等々。視察の意味合いを考えれば、当然軍事査閲官たる自分も同行できるものとベルゲングリューンは思っていたのだが、ロイエンタール自身の人選によって外されてしまった。軍事民事ともにその長たるものは総督の留守を預かるべし、と。同行を許されたのは次官級の者たちと総督直属の秘書官、それにレッケンドルフのみ。 「普段総督閣下を独り占めなさっているのですから、こんなときくらいは小官たちに美味しい思いをさせてくださいね。お寂しくなられるでしょうが、少し我慢なさってください」 そんなレッケンドルフの言葉に触発されたわけではないが、初日からロイエンタールの不在が意識されてならなかった。仕事をしているときは気も紛れるが、主のいない邸に一人いるときなどは、どうしても何時もいるはずの人の姿を求めてしまう。最初の何日かは部下を誘い飲みにも出たが、それも連日と言う訳にもいかず、気づけばロイエンタールからの着信を待って、携帯端末とにらめっこの毎日。案の定、というべきか、それともあの意外に腹黒い副官の妨害なのか、ベルゲングリューンの携帯が愛しい人の便りを知らせることもなく、彼が最愛の人の近況を知るのは、総督府に入る秘書官からの定時報告のみだった。 思えば、ロイエンタールの参謀を勤めてから、こんなに長く会わないことなどなかった。いや、謂れのない咎でロイエンタールが収監されたときに一度あったきりだ。離れていると不安になるのは、そのときのことがあるからなのかもしれない。 とにもかくにも、ベルゲングリューンはそんな寂しさと不安と孤独に耐えてこの3週間を過ごしてきた。なのに、だ。 「いやあ、楽しかったですね! 総督閣下はお疲れかもしれませんが」 「いや、俺も楽しかった。卿らのお陰だ」 「畏れ多いお言葉です。私の方こそ、本当に勉強させていただきました」 「ええ、私もです。視野が広がったというか、閣下のおかげで新しいものの見方を得たというか」 揃って私邸にロイエンタールを送り届けてきた者たちが、興奮冷めやらぬ様子でロイエンタールを取り囲み、閣下、閣下と言うものだから、ベルゲングリューンはなんとなく、面白くないものを感じていた。疎外感とともに、むくむくと沸いて起こったのは、抑えようのない嫉妬心。その人は俺のものだという気持ちが、今こんな風にロイエンタールを組敷かせていたのだった。 胸の尖りを親指で押し潰しながら、噛みつくように口づける。迎えるように差し出された舌に自らの舌を絡める。ロイエンタールの両腕がベルゲングリューンの頭を抱きしめ、口づけは更に深くなり、濡れた音が耳を犯す。ふと、後頭部を押さえ込んでいた力が弱まり、優しく髪を掻き上げられた。それを合図に、口づけを解き互いを見詰める、何時もの呼吸だ。 「どうした?」 見上げるヘテロクロミアは、優しい光を灯している。 「寂しかったのか?」 3週間に伸びた暗褐色の前髪を撫で付けた。現れた秀麗な額にチュッとキスすると、 「わかりきったことを……」 口から出たのは子供のような拗ねた答え。ロイエンタールはちょっと目を見開くと、クスクスと面白そうに笑った。 「あなたはどうだったのですか?」 笑われて憮然とした面持ちを殊更作る。ベルゲングリューンの腕の中に囲われ、ロイエンタールは艶然と微笑んだ。 「どうだと思う?」 「答えてくださらないのですか? ズルいですな。まさか……」 「まさか?」 「浮気でもなさったのでは」 「浮気!? 俺は不貞だけははたらかぬ」 「それは、よく存じ上げております」 漁色が盛んな時にも、人妻に手を出すことはなかった方だ。 「なら、そんな言い方はするな」 グチグチと小言を続けようとする口を塞いで、再び舌を捩じ込んだ。今度は下腹部に手を伸ばし、下着の中に忍ばせる。 「ベルゲングリューン、話はまだ終わっていない」 首を振り唇をほどいて、恨みがましく言う。昔からロイエンタールは自らの話を中断されることが嫌いだ。しかし、今はもういい。手の中の愛しい人の分身を擦りあげる。たまらず、ロイエンタールの口からで溜め息が漏れる。 「もう、いいんです。もう、早く貴方を抱きたい」 ベルゲングリューンの碧の眼には確かに欲情の焔が灯っていた。ロイエンタールは再びベルゲングリューンに腕を回した。愛しい男に求められ、ロイエンタールに否やはなかった。 3週間の空白は、ロイエンタールの体を快楽により貪欲にさせていた。いつもより敏感に反応する身体の弱い所を、殊更にベルゲングリューンの剣で突くと、ロイエンタールの肢体は面白いように跳ねた。時折上がる嬌声は 脳髄を甘く痺れさせ、震える下肢は更なる快楽に駆り立てる。 ベルゲングリューンはロイエンタールの中で果てた。そうして漸く組敷く人が息も絶え絶えであることに気づいた。ベルゲングリューンの首に回されていた両手は、今はシーツの上に力なく投げ出されている。彼は結合をほどくと、ロイエンタールの腰の下に当てていた枕を外し、楽な姿勢をとらせた。そして、お座敷にベッドを整えロイエンタールの隣に滑り込んだ。身体を寄せると気だるげに身動ぎし、ベルゲングリューンの腕を枕に頭を預けてきた。 「お疲れでありましたろうに……」 「気はすんだか?」 「え?」 「何か怒っていただろう?」 「ああ、もういいのです」 ロイエンタールがベルゲングリューンの上に乗り上げて、じっと目を見つめてきた。 「本当に? 夫婦の間に、隠し事は無しだぞ」 ヘテロクロミアが案じるような、あるいは詰問するような気持ちを伝えてくる。この目に見詰められ、口を割らない男などいないだろうと、ベルゲングリューンは思う。 「怒っていた、と言うと少し違います」 「ん?」 「この3週間、一度も連絡をくださいませんでした」 ベルゲングリューンはロイエンタールの胸に顔を押し付けた。いい年の男が言うことではないとわかっているので恥ずかしい。 「やっと戻ってこられたと思ったら、彼らと随分楽しそうになさっていて……、酷い嫉妬です。自分でもわかっているのです………」 申し訳ありませんと、胸元でモゴモゴ言う男に、ロイエンタールは自らの緩怠に気づいた。ならば、そちらから連絡を寄越せばよかった、等ということではないことは、人情の機微に疎い彼にもわかる。ベルゲングリューンは待っていたのだ、俺の帰りと連絡を。待たせることが当たり前だった自身の傲慢さが、辛抱強いことこの上ないこの補佐役を疲弊させてしまったのだろう。受動と能動の関係がいつしか二人の間で固定化してしまっていて、それを少しもおかしいと思わなかった自分に、今更ながらロイエンタールは気がついた。 「いや、俺の方こそすまなかった」 自然と口をついて出た言葉だった。しかし、個人的な事柄で謝ることなど今までに一度もなかったロイエンタールの謝罪を受けて、ベルゲングリューンは妙に慌て始めた。 「や、やはりお疲れなのですな。閣下がそのようなことを仰るとは………。ささ、後の始末は私に任せて、早くお休みください!」 せっかく素直に謝っているのに、おかしな奴だと思う。だが、疲れているのも確かなので、ロイエンタールは温かいタオルで身体を拭かれているのを心地よく感じながら、眠りについた。 遅出のロイエンタールに合わせて目覚まし時計のアラームはセットしてあった。ベルゲングリューンは時計などに頼らなくても、毎日の習慣で決まった時刻になれば、自然と目覚める自信があった。しかし、久しぶりの濃厚な情事のせいか、思っていた以上にぐっすりと寝入っていたようだ。隣でもぞりと動く気配に漸く覚醒した。 「寝過ごしてしまいましたか?!」 慌てて跳ね起きると、静かに唸り声をあげる携帯端末を鼻先に突き付けられた。 「鳴ってる、お前のだ」 霞む目を細めてディスプレイを見る。時刻はまだ、5時を過ぎたところ。それと、見知らぬ数字の羅列だ。 出てみろと、不機嫌な視線で促され、ベルゲングリューンはベッドに腹這いのまま通話ボタンを押した。 「もしもし、どちら様で?」 警戒を声に乗せた低い声で呼び掛ける。不審電話には警戒するにしくはない。しかし、返ってきたのは呆れるほどの明るい声だった。 『ハンス? ハンスなんでしょう? わたしよ』 ベルゲングリューンは一瞬のうちに混乱に陥った。暑くもないのに全身から汗が吹き出るような気がする。 「『わたし』って?」 『あら、まあ! 名乗れと言うなら名乗ってあげるわ。わたしはベリンダ・ベルゲングリューンです』 「か、母さん?!」 端末を耳に当てたままベルゲングリューンは絶句した。突然固まってしまった男を、ロイエンタールは珍獣を見るような目で見た。携帯は不明瞭ながら流れるように言葉を紡ぎ続けた。男はそれを聞いているのやらいないのやら、相槌も打たすにただ口をパクパクさせていた。漸く通話ランプが消えた頃を見計らい、ロイエンタールはベルゲングリューンに声かけた。 「御母堂からか?」 「ごぼど……? あ、ええ、………母でした」 「何と?」 「ええと………」 ベルゲングリューンは先ほど耳にしたばかりのはずの、母の言葉を思い出そうとした。そして、ハッとした。 「大変です、閣下」 「何がだ?」 「母がこちらに参ると申しております」 「ふうん」 「いや、違うな。もうそこまで、宙港にまで来ているようです」 「何!?」 「もうじき、こちらへ来ると……」 要領の得ないベルゲングリューンの話をまとめると、こうなる。 ベルゲングリューンの母、ベリンダは今ハイネセン上空の宙港にまで来ていて、まもなくハイネセンに向かうシャトルに乗ると言う。娘婿が仕事でハイネセンへ行くと言うので、息子に会うために遥々オーディンからやって来たらしい。もちろん、オーディンを発つ前に、息子に連絡をしてあると言うことなのだが………。 ロイエンタールはオーディンからハイネセンまで、民間機で要する時間を計算した。ワープ航行がここ数年で格段に進歩したとはいえ、3週間はかかるだろう。 ーー3週間か………。 母親から連絡があったことを知らないと言う男から、携帯端末を取り上げ、ロイエンタールはメールソフトを立ち上げた。3週間前、自分が視察に出掛けた日からのメールの件名を確認していく。やはりと言うべきか、ロイエンタールが不在にしている間のメールは、ベルゲングリューンらしくなく未整理のままだ。この男、自分が傍にいないと相当腑抜けてしまうらしい。ロイエンタールは未開封のメールに的を絞った。 「これか……」 しばらくして、ほれと携帯を突き付けられた。そこには件名が文字化けしたメールが表示されている。 「オーディンからのメールは各所を経由してくるからな。こんなことがよく起こる。問題だな」 対処させねば、と少し総督らしい顔をしたロイエンタールから携帯を受け取ると、内容を確認した。幸い本文までは文字化けしていなかった。 「…………間違いありません。これです………」 「何が書いてあるの?」 「義兄と一緒にこちらに来ると。その間私の所に滞在させてほしい。それと」 「それと?」 言い淀むベルゲングリューンを「夫婦の間に……」を持ち出してせっつくと、観念したかのような表情になった。 「好い人がいるのなら紹介しろ、いないのなら見合い話を持っていく、と」 「ふーん」 「母は古い考えの帝国女でして………」 いつも強い信念を持って自分を見詰める碧の瞳が、不安に揺れている。ロイエンタールは寝癖のついた硬い髪を撫でた。 「わかった。部屋は幾らも空いているんだ、用意させよう。御母堂をここにお招きすればいい」 「ですが閣下」 「お前は今日は休め。迎えにいってハイネセンを案内して差し上げろ」 話は終わりとばかりに、ベッドから滑り降りたロイエンタールは、シャワールームに姿を消した。 <続く> |