セレナーデ(6)



紺瑠璃色のマントを翻し、ロイエンタールは出仕していった。残されたベリンダは先程の会話を思い出していた。
「直接貴女の目でお確かめになればいい。夕刻に会えるよう、取り計らっておこう」
「まあ、でもいいのでしょうか? 息子に言っておかなくても」
「いいでしょう。私のすることだ、彼に否やはあるまい。それに、彼に任せておれば、会うことさえ何時になることかわかりません。向こうも、貴女にお会いしたいと思っているかも知れないのに」
そこで、ロイエンタールは少し言葉を切り、独り言のように言葉を続けた。
「少なくとも、今のままでは、よくないでしょう」
なぜ、母である自分に紹介することを躊躇うのか、ベリンダには分からない。しかし、好いた人がいて、その人に好かれてもいて、彼のことを理解してくれている上司がいて………。ハンスは幸せを手にしているとわかる。それで充分のはずなのに、自分がその輪の中にいないことに、例えようもない寂しさを感じる。
「欲を出してはダメよ、ベリンダ。あの子が幸せなら良いじゃない」
そう言い聞かすも、窓硝子に写る自分の姿は、思っている以上に寂しげだった。
「ベリンダ様」
振り返ると、そこにはこの屋敷の執事ワグナーが立っていた。
「せっかくお越しになったのですから、どちらか行かれたい所はございませんか?」
自分でよければ一緒にというワグナーに、謝意を表しながら、それよりも、とベリンダはお願い事をした。彼女にとっては知る人もいない異郷の地で、心細くなっていたのかもしれない。彼女が求めるのは人の温もりであり、それを今この地で与えてくれるのは、たまたま身を寄せることになった、このロイエンタール邸の人たちだけだった。
「年のせいかしら、新しいものより古いものに惹かれますの。できましたなら、この御屋敷で過ごさせていただけないかしら?」

部屋に戻るとベリンダは鞄から一冊のアルバムを取り出した。オーディンを発つ間際に纏め直したもので、アルバムの真新しさに反して中身の写真は古い。これは、彼女が彼女の息子に贈るために用意したもので、生まれてから任官するまでの彼と家族の姿が納められている。それは、何万光年離れていても変わらない、家族の絆の証。今まではベリンダの心を慰めていたものを、これからは息子に持っていてもらいたい。そんな風に思うのは、これも年のせいなのかもしれない。
最初の方の写真は、彼女と息子が写ったもので、撮っているのはハンスの父親だ。夫があんなにも早く亡くなるとわかっていたら、もっと息子と父親の写真を撮っておくべきだった、などといっても、後の祭りでしかないが。頁を捲っていくと、3人の兄弟のありふれた日常が切り取られて並ぶ。姉と妹に挟まれて困った顔をしているハンスは、見ればみるほど夫にそっくりだった。不器用なこの子が、夫のいない暮らしに一人涙を流すベリンダを、抱き締めて慰めてくれた。おそらく本人は覚えていないだろうが、ベリンダにとってはいつまでも色褪せない大切な思い出だ。写真の中の息子は突然に大きくなる。最後は少尉に任官した記念に撮った軍服姿だ。この写真をみると、いつもベリンダの胸はきゅっと締め付けられる。誇らしい思いと息子が手の届かない所にいってしまうような寂しさ。このとき流した嬉し涙の何割かは、言われるままに士官学校への進学を認めたことへの後悔の涙だっただろう。
「結局、男の子は一度家を出ると、帰ってこなくなるものなのね」
腕の中にすっぽりと収まっていたあの子が、今では手の届かない所にいる。物理的な距離のせいばかりではない。それが哀しかった。

そして夕刻、夕陽の名残日が仄かに空を赤く染めた頃合いに、ベリンダは裏庭へと案内された。秋から冬に移ろう時分である。日が暮れてしまえば冷え込むこともあるだろうと、ワグナーが暖かなショールを着せ掛けてくれた。振り返ったベリンダの瞳が不安に翳ったのに気づいたのか、ワグナーは安心させるように微笑むと、「大丈夫ですよ」とそっと背中を押した。
昨日、ロイエンタールの副官という若者とお茶をした所まで歩いた。まだ明るさの残る庭園を見渡すと、人工池に面して建てられた東屋に人影に気づいた。ベリンダは一つ大きく息を吐くと、そちらに足を向けた。
「まあ………」
ベリンダはそこにいる人物を認め、ベリンダは落胆するとともに諦念の気持ちを噛みしめた。
「お気になさらないでくださいませ」
とるに足らない自分などのために、時間を割いてくれた、彼女の息子が敬愛する人に、これ以上の負担をかけられない。ベリンダは先回りして言った。
「会えないのは残念なことではございますが、他でもない、閣下がお墨付きをくださった方。あの子が幸せでいることに間違いはございません。それだけで、もう、十分でごさいますから………」
東屋に人待ち顔で座っていたのは、ロイエンタールだった。彼の秀麗な眉がひそめられているのを見て、ベリンダは全てを悟ったように思ったのだ。流れ出た涙に気付かれないうちに、非礼を承知でこの場から立ち去ろうとしたベリンダを、少し上擦ったロイエンタールの声が呼び止めた。
「違うんだ。貴女は思い違いをしておられる」
「えっ?」
「いるんだ、ここに」
小刻みに視線をさ迷わせたベリンダを、ロイエンタールの声が静かに制した。
「そうじゃない。ここに、貴女の目の前に………」
そこには、ロイエンタールが上り始めた月の光を纏って立っていた。
「私だ、フラウ。私が、彼の………」
切なげな表情はそのままに、月光を受けて金銀妖瞳は美しく煌めいて、ベリンダを見詰めている。
「直ちに容認し難いことであろうとは思う。しかし、これが事実だ」
夜に侵され始めた裏庭に、ロイエンタールだけが仄かに浮かび上がっている。
「すべて私のせいだ。ベルゲングリューンが貴女に隠すのも、貴方を苦しめ、親子の縁に亀裂を入れてしまったのも………。すまないと思う」
「………」
「同じことなら、真実を知ってもらった方がよいと、これも私の独りよがりかもしれないが」
「………」
「悪いのはすべて私だ。上官の権力を木盾に取り、恣にしたのだと思ってもらって構わない。彼を責めないでやってほしい」
ロイエンタールは寂しく微笑む。
「私も浮かれていたのだ。愛していると、死しても共にと言われて、周りが見えなくなっていた」
「嘘」
それまで沈黙していたベリンダの発した言葉に、ロイエンタールはギリッと奥歯を噛みしめた。詰られたり罵声を浴びせられることさえ覚悟している。ロイエンタールはそのすべてを受け止めるべく、目を閉じた。
「信じられないわ………、あの子が、貴方に………」
「………」
「本当に信じられない。雲の上の存在の貴方に、あの子がそんなことを………」
「………」
「石橋を叩いて渡るような子なんです。それが、そんな度胸がいることを、信じられない」
「?」
ベリンダの言葉が胸に落ちたとき、ロイエンタールは驚いて目を開けた。
「息子が、閣下にプロポーズをしたのですか?」
「ええ」
「それで、貴方はそれをお受けくださった? 本当に、あんな息子などでいいのでしょうか?」
頬を濡らしていた涙はすでに乾き、赤みを帯びた碧の目は驚きに見開かれている。ロイエンタールは、その愛しい人と同じ目に答えた。
「『でいい』のではありません。彼でなければいけないのです」
「まあ!」
ベリンダはロイエンタールの手を取り、押し戴くようにしてから、その手に頬を寄せた。

門前で地上車を乗り捨てて、ベルゲングリューンは邸内に駆け込んだ。アプローチを転がるように走り抜くと、玄関のノブに手を掛けた。そのタイミングを見計らったように内側から開かれた。
「ワグナー殿、閣下は?」
なぜそこに彼がいるのかなど、聞かずとも分かる。
「裏庭に」
「すまない!」
再びベルゲングリューンは駆け出した。
日が沈んだ裏庭は、夜の闇に侵されつつあった。大声で求める人の名を叫びたくなるのをこらえ、じっと耳を澄ませた。東屋に人の気配を感じる。ベルゲングリューンは逸る気持ちそのままに、そちらへと向かった。
人影は二つ。間違いない、ロイエンタールとベリンダだ。ベルゲングリューンは心の整理がつかないまま、二人の間に割って入った。
「母さん、聞いてくれ。この人を責めないでくれ」
ベリンダの目元には、明らかに涙の跡が認められる。
「一目惚れだったんだ、この方のもとに配属になってから、ずっと、一方的に思いを寄せ続けていた。それを、こちらに来て、この方の寂しさに付け込んで、酔わせた上で結婚を申込み承諾させた」
「おい……」
「閣下は黙っていてください。母さん、俺は本気なんだ。この人を愛している。性別だとか身分とか、そんなもの関係ない。たとえ、どんなに汚い手を使ったとしても、この人を自分のものにしたかったんだ」
そこまで一気に捲し立て、漸くその場の雰囲気が、自分の思っていたものと異なることに気づいた。
「閣下?」
助けを求めるように、背後に庇った形になっているロイエンタールを見ると、片手で顔を覆って横を向いている。ただ「恥ずかしい奴だ」「俺は酔ってなんかなかった」と繰り言が微かに聞こえる。ベルゲングリューンは非常に気まずい思いで母親に向き直った。
「母さん、これは、どういう…………?」
「ハンス、あなた、こんな情熱的なところがあったのね。母さん驚いちゃった」
「えっ? 」
「こんな素敵な人のハートを射止めただなんて、私の息子も捨てたもんじゃないわねってことよ」
「なっ!?」
ベルゲングリューンは勢いよく振り返り、まだブツブツと口の中で何やら言いながら、現実逃避を決め込んでいるロイエンタールを両手で捕まえた。
「本当ですか?」
突然のベルゲングリューンの余りにもな振る舞いに、「何がだ」と不機嫌な声がした。
「その、『ハートを射止めた』、と………。閣下の御心は私に射られてくださっていたのかと………グッ!」
言葉を最後まで言い切らないうちに、突然身に走った激痛が、言葉を遮った。ロイエンタールが一歩前にあった爪先を、これでもかと踏んだのだった。
「そんなことはどうでもいい! それよりも、ベリンダは俺たちのことを受け入れてくれたのだぞ。そちらの方にこそ驚け!」
ベリンダの前に押し出されて、ベルゲングリューンはそこには、昔と変わらない朗らかな母がいた。いろいろ混乱していたベルゲングリューンも、漸く事態が飲み込めた。
「俺は先に戻っている。お前はベリンダにこれまでのことを謝っておけ」
この年になると、いや、子供というのはいつからか素直に謝るなんてことは出来なくなるらしい。ベルゲングリューンは、そんな自分の背中を押してくれた、掛替えのない人を見送った。
「いい人ね」
「そうだろう、母さんもそう思うか?」
母親が誤解を受けやすいロイエンタールを、『いい人』と言ってくれたことが嬉しかった。
「お前には過ぎた人なんじゃないかねぇ」
「『美女と野獣』とはよく言われる。なあ、母さん」
ベルゲングリューンは月を見上げた。
「悪かったな。心配かけてたんだろう? だが、生涯を共にする相手を、俺はあの方以外に選ぶことなんて、できなかったんだ。認めてもらえるはずがないと思っていた。だがら、黙っていようと考えていた。孫も、跡継ぎも出来ない。母さんの期待に応えられず、申し訳ないと思っている」
ベリンダは、影になった息子の背中に手を伸ばした。記憶にある背中よりも、一回り大きくなったそれには、ベリンダの想像もつかないほどの重責を背負っているのだろう。しかし、掌から伝わる温もりは、昔と変わらない我が子のものだ。
「孫が欲しくて結婚してほしいと思っていたわけじゃないわ。あなたが幸せでいてくれることが何よりなのよ」
「母さん………」
ベルゲングリューンは振り返ると、おずおずとベリンダを抱き締めた。
「ごめん。ありがとう」
不器用なのは父親譲り。しかし、そこを愛しく思うのは、どうやら自分だけではなかったようだ。あの『帝国の双璧』と謳われたロイエンタールが、と思うと現実味に欠けるが、ベリンダが自分の目で見て感じた、ロイエンタールから伝わるものは、確かに息子に対する深い愛情だった。
「ねえ、オスカーさんから聞いたのだけど、結婚式を挙げたんですってね」
オスカーさんという呼び方には引っ掛かるものがあるが、そこは不問に付すことにした。
「ああ、内輪だけで、細やかにな。………写真もあるぞ。見るか?」
「見せてくれるの?」
「もちろんだ。是非見てくれ。すっごく綺麗なんだ。今まで誰にも見せられなかったのが残念なくらい」
「まあ!」
月はそろそろ中空に差し掛かろうとしていた。ベリンダはその月にそっと心の中で祈った。この平和がいつまでも続きますように、そして、彼女の息子たちがいつまでも幸せに暮らせますように、と。

<おしまい>


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