escape(3) |
ランベルツが友人達と別れるほんの少し前、ロイエンタールは左手に感じる違和感に、意識を浮上させた。まだはっきりしない意識のままに、その手を引き寄せようとするが、思い通りにいかない。 「お目覚めかい? 美人さん」 「………………」 「こんなところでうたた寝してちゃあ、悪い狼に食べられちゃうよ?」 「………………」 聞き覚えのない声にはっきりと目覚めたロイエンタールは、目の前に見知らぬ男がいるのを認めた。そして、その男にガッチリと握られている自分の左手も。 「放せ」 「やだなぁ。こういう時は、『誰?』とか『何してるの?』とか訊かないかなあ? いきなりそう言っちゃう? 自己紹介もさせてくれないの?」 冷たいなあとニヤニヤ笑いながら、手を放そうとしない饒舌な男に、ロイエンタールは呆れ返った。話の通じない相手と判断し、握られた手を取り戻そうとぐいっと引くもびくともしない。どうやら見かけによらず、馬鹿力であるようだ。 「だーかーらー、自己紹介!」 「………必要ない。手を放せ」 「いーやーだ! だって放したら逃げていっちゃうってわかってるんだもん」 「………………」 「ねーねー、こういうのから始まる恋があってもいいと思わない? 目を瞑っているときから綺麗だなって思ってたけど、君スッゴい美人だねえ。あ、男同士って抵抗 ある? 大丈夫だよ。女とヤるなんかより気持ちよーくさせてあげるからさ。本当に、天国見せてあげるからさ!」 握る手を剥ぎ取ろうと、右手も動員するが、その上から手を重ねられてしまい、男同士手を握りあう奇妙な絵が出来上がってしまった。 「放せ」 ロイエンタールはこれ以上ないほどの嫌悪感を露にし、共通の言語を持たない相手を睨み付けた。士官学校出たての1年目の少尉なら、すぐさま故郷へ帰る算段を立てようとするに違いない目付きであったのだが ………。 「あれ?! カラコン1つ落としたの? でもそれもステキだよ。美人さんの魅力をさらに引き立てる感じ?」 ねーねー、このままホテルに行っちゃおうよの言葉に、このときまで穏便に事を済まそうと善処していた、ロイエンタールの堪忍袋がはち切れた。 「貴様!」 握られた両手をそのままに、男を壁に叩きつけ、その鳩尾に膝蹴りを食らわそう、としたとき、 「何してるの?」 と、その場に不似合いな長閑な声が掛けられた。 大切な上官が窮地に陥っている。しかし、いつものように感情の赴くままに、いや、もっと的確に言えば怒りに任せて相手をボッコボコになさってはいない。と言うことは、珍しく閣下は周囲に気を使っていらっしゃるのだろう。確かに、家族連れの多い長閑な昼下がりに、殺伐とした暴力沙汰など起こすなど、良識のある大人のすることではない、といえばそうなのだが。 もう何度目かわからない状況確認をする。しかし、得た結論は変わらない。俗にいうところのナンパだ。それも閣下は相当な変質者に捕まっている。通路を挟んだ席にいた小さな子供が、訳もわからず泣き出すほどの殺気に晒されながら、それに動じない神経を持つ………。 ああいう輩には、幼年学校の制服なんて何の意味もない。変にこじらせてストーカーなどになられても大変だ。ここは穏便に、向こうから諦めてもらうようにしむけなければ。 ーー閣下、ごめんなさい。 心の中では謝ると、ランベルツは二人のテーブルに近づいた。 「何してるの?」 平静を装って出来るだけ無邪気な声を出した。意表を突かれてロイエンタールと、馴れ馴れしくその手を掴む男がランベルツを見上げた。彼を認めてロイエンタールが何かを言いかけたが、それを遮ってランベルツは話を続けた。 「どこに行ったのか探してたんだよ。こんなところにいたんだね、『父さん』」 「『父さん』?!」 変質者はパッと手を離し、信じられないものを見るように、目の前の年齢不詳の『美人』を見た。ロイエンタールはヘテロクロミアの目を見開いて、ランベルツを見ている。 「俺は、ここにいると言っただろう? ……ハインリッヒ」 探り探りながらも、合わせようとしてくれるロイエンタールに、ランベルツは改心の笑顔を見せた。 「えー、そうだったかな? さあ、早く行こうよ。妹たちも探してるんだ」 えっ? 父親なの? それもこんなに大きな子ども? 一体幾つだよ、と目を白黒させる男を全く無視して、ランベルツはロイエンタールの手を取った。その手を引いて立ち上がらせると、「早く早く」と急かすようにして、そのままカフェから駆け出た。追いかけてくる心配はないとは思ったが、念を入れてそのまま水族館からも出てしまった。 「ハインリッヒ」 手を繋いだまま先を行く従卒に、ロイエンタールは堪らないという様子で声を掛けた。 「おい、 俺の『娘たち』はどこにいるんだ?」 ランベルツは立ち止まり、手を離して頭を下げた。 「閣下、申し訳ございません」 「何を謝る?」 頭の上から降っていた声が、あまりにも優しかったので、ランベルツはおずおずと顔をあげた。 「閣下を危険な目に遭わせてしまいました」 「あんなもの、危険でもなんでもない」 「それに………」 「それに?」 「失礼な口を利いてしまいました」 「失礼なとは?」 クスッと笑ってロイエンタールはランベルツの頭に手を置いた。 「俺を救ってくれたのだろう? 何を謝ることがある?」 「でも……………」 「ランベルツ、敵の意表を突き出鼻をくじくのは、兵法にも叶う。また、相手が想像だにせぬことを考え出すことは、なかなかに骨の折れることだ。お前はよくやってくれた。俺こそ、礼を言わねばならん」 「閣下………」 叱責を覚悟こそすれ、誉められるとは思いもしなかったランベルツは、それだけで泣きそうになってしまった。 「お前がもう少し遅ければ、俺はあの男を叩きのめしていただろう。逃げ出した上に、暴力沙汰まで起こしては、明日一日ベルゲングリューンの小言を聞かなければならなかったところだ」 その様子を想像したのか、心底げんなりした表情を浮かべたロイエンタールに、ランベルツも釣られてようやく笑顔になった。 「でも、あんな口から出任せ、よく通ったものだと思います」 と言えば、 「そうだな。ところでお前、幾つになった?」 と尋ねられ、 「15です」 と、ランベルツは朗らかに答えた。彼にしてみれば、あり得ないことと笑い話になるはずのことだと思っていたのだが、 「15か………」 と、ロイエンタールは黙り込んでしまった。なぜだか遠い目をするロイエンタールがランベルツには得体の知れないものに見えた。 幼年学校を訪問したベルゲングリューンは、校長室で彼の上官の帰還を待ちわびていた。事情を聞いた幼年学校の校長は、彼の上官をよく知る人物でもある。快く無茶な頼みを聞き入れてくれた。同行したがったレッケンドルフを官舎前に待機させ、彼は上官の士官学校時代の担任に、若き日の上官の武勇伝を聞きつつ、長く思える時間を潰した。間を開けて携帯を鳴らすが、相変わらず電源は切られたままだ。確信を持ちつつも不安が頭をもたげてきたその時、校長室の扉がノックされた。ベルゲングリューンに断りをいれ、校長が対応に出てみると、緊張した面持ちの幼年学校生が3名立っていた。 「どうしたね?」 来客の札の掛かったこの部屋を訪れるのだ。彼らは重大な用件を抱えているに違いなかった。 「失礼いたします」 「来客中だ。用件のみ言いなさい」 「はいっ!」 堅苦しく敬礼をした子どもたちは、小さく折り畳まれた紙片を校長に差し出した。 「ランベルツから預かりました。必ず校長先生にお渡しするようにと」 ランベルツという言葉に腰を浮かせたベルゲングリューンに、校長は紙片を開いて一読した後手渡した。 「提督宛てです」 ベルゲングリューン急いで手紙を読み、胸を撫で下ろした。 『校長先生へ 僕は今ロイエンタール閣下と水族館に来ています。5時には幼年学校に戻ります。このことをベルゲングリューン提督にお知らせしてください。 ハインリッヒ・ランベルツ』 「提督のお見立て通りでしたね」 「ええ。ランベルツが賢い子で良かったと思います」 ベルゲングリューンは時計を見た。あと小一時間もすれば、ロイエンタールは戻ってくる。実のところ、仕事のことなどどうでもよかった。ただ、突然消えてしまったロイエンタールの無事を、自分の目で確かめたいだけだ。 「しかし、水族館とは………。思い付きもしませんでしたな」 ベルゲングリューンの呟きに、校長は目を細めた。あの幸薄そうな士官候補生は、今は随分大切に思われているらしい。長年の気掛かりが解消されたような思いがした。 「いい気分転換になっているといいですね」 「はい」 ベルゲングリューンは、苦笑した。 「これに味をしめられても困るのですが ………」 もしも、またロイエンタールが過密日程に音を上げ、エスケープするようなことがあるならば、今度は自分をつれていってほしい。そう思うベルゲングリューンだった。 〈おしまい〉 |