escape(1) |
敬愛する、いや、実はそれ以上の想いも抱いている上官が、完徹の上休日返上で仕上げた書類を各所に提出して回ったレッケンドルフは、誰もいない執務室を見渡したあと、「しまった」と自分の見込みが甘かったことに臍を噛んだ。もう何日も根を詰めてデスクワークに勤しんでいた上官に、そろそろ息抜きをお勧めしなくてはと思っていた矢先のことだった。 「どうした?」 ドアノブに手をかけたまま立ち尽くすレッケンドルフの背後に、首席幕僚の声がかかった。彼もまた、上官の命でどこかに行ってきたのだろう。 「やられました」 「なに?」 「もぬけの殻です」 半身になってベルゲングリューンを室内に招き入れた。状況を把握したのだろう、ベルゲングリューンは大きく溜め息をつき、よろけるように主不在の大きなデスクに手をついた。 「まだしてもらわねばならんことがあるのだ」 髭面の男は額に手を当てて、唸るように言った。 「お探ししろ。心当たりをあたるんだ」 実はまだこの時、すぐにロイエンタールは見つかるだろうと二人はなかった思っていた。今までにこういうことは何度もあったし、その度毎にちゃんと見つけ出してこれたからだ。しかし、一通り心当たりを回ったあと、これはいつもと違うぞと顔を見合わせるしかなかった。 「ミッターマイヤー閣下のところから、ファーレンハイト閣下、ミュラー閣下から念のためにビッテンフェルト閣下のところも覗いてみたが、いらっしゃらなかった」 「小官はお庭の方を回って、元帥閣下の方まで行ってみましたが………」 「お屋敷にも戻っていらっしゃらないようだ」 「閣下の行動パターンは、掴んでいると思っていたのですが」 「ああ………」 レッケンドルフは項垂れるベルゲングリューンを慰めるように言った。 「でもまあ、今日はもともと閣下は休日の予定だったのですから、このままそっとしておいて差し上げても、宜しいのではありませんか?」 ベルゲングリューンはうーんと唸ると、重々しく首を振った。 「それが、駄目なんだ」 ベルゲングリューンは、先ほど提出したはずの書類をレッケンドルフの方に押しやった。 「これがなにか?」 ロイエンタールが手掛けていた書類は、レッケンドルフから見れば、それは本当に閣下がされなければならないものなのか、首を捻るようなものも数多くあった。しかし、それが元帥閣下から振り分けられたものであれば、口を挟むことなどできるはずもない。ロイエンタールも不満と苛立ちと疲労を滲ませながらも、黙々とそれらをこなしているのもそのためだろうと思っている。そんな思いで仕上げたものながら、ロイエンタールの仕事は手を抜くことなど一切なく、レッケンドルフの見るところ完璧だった。 「小官も目を通させていただきましたが、不備などありませんでした」 「確かに。それは俺も同感だ。しかしな、盲点があったのだ」 ベルゲングリューンはペラペラと書類をめくり、ある箇所を示した。そこはロイエンタールが直筆でサインをしてある場所だ。プリントアウトした書類を3人で目を通し、最後にロイエンタールがサインをする。 「このサインがどうかいたしましたか?」 「よく見てみろ」 レッケンドルフは書類を手に取り目を凝らす。いつもの流麗な筆とは似ても似つかない、なおざりな手だ。 「確かに、閣下らしくない書かれようではありますが、閣下が書かれたものに間違いはありません。ちょっと汚いから書き直せと言うのですか?」 そんな細かいことを言うのは誰なんですかと問えば、参謀長閣下だ、とベルゲングリューンは憮然とする。 「それだけならば、俺もそう押し通すさ」 だがな、と署名を指先で指す。 「間違っていると言うんだよ」 「まさか、ご自分のお名前をですか?!」 「そうだ」 閣下のお気に入りの堅物提督の碧の目は、真剣そのものだ。レッケンドルフは判別するのも難しい署名を凝視した。 「オ・ス・カー・フォ・ン・ロ・イ・エ・ン・ター・ル・ル?」 「勢い余って、『l』をひとつ多くお書きになったのだろうな」 「でも、しかし」 「卿の言いたいことはよくわかる。しかし、今日は普通の状態ではなかったし、それに、これは最後の書類だった」 「……………」 「『l』ひとつくらい多くても、わからんだろうとか、どうでもいいとか、面倒くさいとか、そういうお気持ちだったのさ」 「ええ、わかります。で、提出先はどちらでしたか?」 「参謀長閣下だ」 「………………。お探しいたしましょう」 二人は捜索の範囲を元帥府外に拡げることにした。ちょうど昼食時だ。手始めにロイエンタールが一人で立ち寄りそうなレストランを当たることにした。候補を絞りながら、連絡先を調べる。数はそう多くない。しかし、そのどれもが空振りに終わった。 「一度、官舎を見に行くか」 なにか手掛かりがあるかもしれないし、もしかしたら、睡眠をとっているロイエンタールを見つけるかもしれない。「そうですね」と出掛ける準備を終えたレッケンドルフは、ロイエンタールのデスクに出されたままのコーヒーカップを洗うことにした。 「提督が閣下にコーヒーを出してくださったのですか?」 珍しいこともあるものだと、からかい半分に声をかけると、 「なに? 俺は卿だと思っていた」 「私でもありません」 「では誰が………?」 「閣下がご自分で淹れられた、とか?」 「ないない、それはない」 「では誰が?」 一瞬の間の後、二人の脳裏に同じ人物が思い浮かんだ。 「ランベンツか……」 この日を、先日の休日出勤の振替に決めたのは、ロイエンタールだった。皆も休めよとの有難いお言葉で、ロイエンタール艦隊は、この日は休業になった。 その日は、幼年学校は定期考査明けの休校日だった。ロイエンタールはそれを知り、可愛がっている従卒を、他の生徒達と同じように休ませてやろうと思った。しかし、結局ロイエンタールは夜を徹して残業することになり、そのまま休日返上で今に至る。その状況を、試験終わりで律儀に顔を出したランベンツは知っている。「休めよ」と言われても、上官が働いているとわかっていて休めるような子供ではない。 「幼年学校に、ランベンツが出掛けたかどうか、確認の電話を入れてみます」 「そうだな。それと、やはり官舎の確認だな。着替えに戻られているようなら、ランベンツを連れてどこかに行かれたとみて間違いない」 「でも、それなら見つかりませんね」 「ああ、不味いことにな。閣下は俺達に行動を読まれているとわかった上で、ランベンツに合わせていらっしゃるのだろう。さすがに、子供の思考など、俺には読めん」 卿にはわかるか、と尋ねられレッケンドルフは首を振った。 「しかしまあ、ランベンツでよかったと思うべきだろうな」 「ええ、知らない女と何処かにしけ込まれるよりは、よっぽどね」 二人は苦い笑いを噛み殺すと、次の手を打つべく立ち上がった。 仕上がったばかりの書類を、休日出勤に付き合わせている幕僚長と副官に持たせ、各所に送り出した。二人の姿が扉の向こうに消えたのを見計らい、ロイエンタールは急いで帰り支度を始めた。悪いが、もう限界だ。ベルゲングリューンの「では、まずは、とりあえず」はこのあともまだ仕事が残っていることを表している。そんなのに付き合ってなどいられない。逃げよう。逃げるしかない。そう心に決め席を立とうとしてはたと気付いた。一体俺は何処に行くのか、と。元帥府内に留まれば見つかり連れ戻されるのは時間の問題で、官舎も屋敷もすぐに手が回るだろう。女のところに転がり込むのが確実だが、ここのところ女以外で性欲を満たしているので、その当てもない。かといってで行きたいところも行けるところもすぐには思い浮かばない。ロイエンタールは浮かした腰を、大きな溜め息とともに再び椅子に沈めた。 その時、執務室の重厚な扉が開いた。こんなに早く戻ってくるとは、書類に不備でもあったのか、と我知らずドキリとした。しかし、扉の向こうから現れたのは従卒のランベンツだった。幼年学校生でもある彼のために、今日という日を休業にいていたので、この出現にロイエンタールは正直眉を潜めた。 「ランベンツ、今日はお前は休みのはずだ。なぜここに来た」 「あ、はい。せっかく頂いたお休みですが、閣下が夜通しずっとお仕事をなさっているのかと思うと、居ても立ってもいられなくて………」 執務室を覗いてみて、誰もいなかったら帰ろうと思ってきたのです。案じるような目付きで言われると、さすがのロイエンタールも、小言を重ねることは出来なかった。 「お疲れ様です。今コーヒーをお淹れしますね」 甲斐甲斐しく立ち働くランベンツを見て、ロイエンタールは妙案を思い付いた。お気に入りの従卒が淹れた薫り高いコーヒーを啜りながら、ロイエンタールはランベンツを見詰めた。 「ランベンツ、これから予定はあるのかね?」 「いえ、何もございません」 「そうか。それならお前、せっかくの休みなのだから何処か行きたいところがあるのではないか? 」 「行きたいところ、ですか」 「ああ、何処でもいい。お前の行きたいところに行こう。俺が連れていってやる」 「は、はい」 賢いランベンツだが、この時はロイエンタールが何を企んでいるのか掴めなかった。 「では善は急げだ。行こう、ランベンツ」 目を白黒させたままのランベンツを引き摺るように、ロイエンタールは元帥府を後にした。 将官服は目立つので、着替えるために一旦官舎に立ち寄ることにした。ランベンツをリビングのソファーに座らせ、 「15分で用意をするから待っていろ」 と、ロイエンタールは寝室に駆け込んだ。もちろん、電話が懸かってきても絶対に出るなと言っておく。 ランベンツは一人になった広い部屋を見回した。綺麗に整えられたシンプルな部屋。ここで大好きな閣下が生活をいているのだと思うと、自然と顔が熱くなる。今も幽かに聞こえる水音は、ロイエンタールがシャワーを浴びているのだと思うと、なぜだか居たたまれない気持ちになって困る。意識すればするほど、胸のドキドキが大きくなるのに困惑していると、突然電話が鳴り出した。出るなと言われてはいたが、何処からのものなのか確認だけはと思い、電話機に駆け寄る。と、そこには『ベルゲングリューン』と表示されていた。大事な連絡ではと思ったが、閣下の命令に背くわけにもいかず、ランベンツはただただ早くベルが止まることを待った。漸く静かになったとき、ランベンツは自分の状況を落ち着いて考えることにした。まもなく約束の15分が経とうとする。時間はない。ランベンツのような子どもに、ひねくれたロイエンタールの意図を察することはできそうもないので、こちらの方は考えることは諦めた。今はただ、自分がすべきことのみ考える。閣下は自分が行きたいところに行くことを望んでおられる。しかし、何処でもいいというわけにはいかない。閣下は疲れていらっしゃる。いい感じに休息がとれて、悪目立ちするロイエンタールを連れていっても騒ぎにならない、ここからそう遠くない安全な所。そして、 「僕が『行きたい』って思いそうな所か………」 ランベンツの頭には、ある場所が思い浮かんでいた。そこでいいのかわからないけれど、他には何処も考えられなかった。 〈続く〉 |