朝顔 |
新都の夏は、暑さの苦手なロイエンタールを苦しめた。戦争が終結し、地上勤務が主になった今は、暑く蒸せるような空気が屋敷と職場を繋いでいる。建物の中は冷房が効いていて快適なのだが、一歩外に出ると不快なことこの上ない。だから、休みの日などは一日中建物の中から出たくないのだが、そうは問屋が卸さなかった。 屋敷の主が休日でも、生活自体が止まることはない。使用人や女どもは変わらず忙しく立ち働いている。片付けや掃除の最中、休暇の主人や休日の子供などは、最も片付かないものの一つである。惰眠を貪るベッドから追い出され、新聞を読みながら、だらだらと啜っていた珈琲は下げられて、読みかけの本を片手にごろりと横になったソファーからは追い払われた。屋敷の中に居場所を無くし、ロイエンタールはテラスに放り出された安楽椅子に、この日も辿り着いていた。足元には、父親よりも早くこの場所に追い出されたらしい聞き分けのよい息子が、お絵描きをしていた。 「フェリックス、何を描いている?」 「これ」 フェリックスが指差す先には、このテラスに影を落とす緑のカーテンがあった。 「朝顔か」 「うん」 「お前が種子を撒いたんだってな」 「うん! ムッターとハンスと一緒だよ」 フェリックスとエルフリーデが撒いた小さな種子は、執事が掛けた麻紐に蔓を巻き付けて成長し、今やテラスの庇から地面までを覆うまでになっていた。緑の葉は朝日を遮り、青紺の花は爽やかさをもたらしてくれる。葉陰から吹き込む風は涼やかで、夏の暑さを少しは忘れさせてくれた。 「できた!」 フェリックスが掲げて見せた画用紙には、大きな朝顔が見事に咲いていた。 「上手に描けたな」 「うん。これ、ウォルフにあげるんだ!」 「ミッターマイヤーに?」 「うん。この前来たとき、朝顔ほしいって言ってたもん」 「……そうだったな」 よく覚えているな、と誉めてやると、フェリックスは嬉しそうにはにかんだ。 フェリックスが言うのは、先週の休みの日のことだ。その日、夕食にミッターマイヤー夫妻を招いた。食後、アイスクリームを食べながらお喋りに夢中になる女どもを避けるように、ウイスキーのボトルとグラスを持ってはこの場所に来た。 「これ、何て植物だ?」 風にそよぐ緑の日除けに、ミッターマイヤーは興味をひかれたようだった。 「『朝顔』だ。『東雲草』とも言う。知らないか?」 「知らないなぁ」 ミッターマイヤーは、細かな毛の生えた葉を弄びながら、首をかしげた。庭師の父を持つ彼は、植物に造詣が深い。しかし、朝顔は切り花にもならない一年草だ。知らなくとも無理はないのかもしれない。 「オーディンではあまり見かけなかったからな。フェザーンではかなりメジャーな植物らしいぞ」 「へー、親父に教えてやらんとなぁ」 それから、この朝顔の帷の効果を話した。このときのやり取りを、フェリックスは耳にしていたのだろう。 「へぇ、それはいいな。新都の夏は厳しいが、これがあれば産まれてくる赤ん坊も、少しは楽に過ごせるだろう」 ロイエンタールはその時のミッターマイヤーの、照れ臭そうな嬉しそうな顔を今でも鮮明に覚えている。長らく子供のできなかった親友が、漸く待望の赤ん坊を授かった。おそらくは病院から直接やって来たと思われる親友が、泣きながら「子供ができたんだ」と告げたとき、ロイエンタールは他人のことで自分がこんなに喜べる人間だったのかと驚いた。良い年をした男二人が、抱き合いながら涙を流す様は異様であっただろうが、そんなこと二人にはどうでも良いことだった。「良かったな、ミッターマイヤー。おめでとう」「ありがとう。卿には一番先に知らせたかったから」 まさかこのやり取りの後、自分も同じ報告をすることになるとは、ロイエンタールはこのとき全く思っていなかったのだが。 来年は、賑やかになっているのだろうな。 「フェリックス、もうすぐお兄ちゃんだな。嬉しいか?」 一人っ子の自分には、わからない感情を息子に聞いてみた。 「弟がいいな、ファーター。いっしょに遊べるもん」 「そうか………」 フェリックスの期待に添えるかどうかはわからないが、小さな息子の中で、兄になることは折り込み済みであるようだ。命が芽生え、産まれ、育っていく。自然の摂理をごく自然に小さな我が子は受け止めているのだろう。 ーーロイエンタール家は、俺で終いさ。 この言葉を発した自分が、今はとても恥ずかしい。脈々と絶えることなく続いてきた命の営みを、自分がここにいるという意味を、全く思いもしていなかった。 ロイエンタールは、立ち上がると手招きし、フェリックスを朝顔の帳に誘った。そして、ぷくりと丸い麦わら色の膨らみを千切った。乾いた薄い皮を押し潰すと、中から黒い粒が現れた。 「あ、これ、ぼくがうめたの!」 「そうだな。その絵と一緒に、この種子も持っていってやろう」 「種子も?」 「うん。この種子を撒けば、ミッターマイヤーの家にも朝顔が咲くよ」 「おんなじのが?」 「ウーン、同じと言えば同じだが………」 ロイエンタールはフェリックスを見た。そこには確かに幼い日の自分の面影があるし、おそらくは、自分の父や母の面差しもあるのだろう。同じだが、同じでない。似ているが、別のもの。かといって繋がりがないわけではなく………。 深遠な思考に嵌まり込んだ父親には構わずに、フェリックスはせっせと朝顔の種子を取り始めた。まだ上の方には花が残っているので、種子はもっぱらフェリックスの目線にできている。 ーー命は斯くして受け継がれる、か。 ロイエンタールは、我が子と朝顔をともに見て、我知らず、厳粛な気持ちになった。 <了> |