後の心(4)



ベルゲングリューンが部屋を出ていったのを見届け、ロイエンタールはゆっくりと体を起こした。体を動かす度に此処彼処に感じる違和感。その甘い痺れが先程の行為を思い出させて、気恥ずかしい。
気を失っている間に、体を清められてはいるが、愛撫の感触はまだ生々しく残っている。ロイエンタールは自分の体を見下ろした。愛しい、と初めて思う。あの男に愛されたこの体が愛しいと。これは、ロイエンタールにとって、初めての感慨だった。
その眼のせいで両親から疎まれ、その容姿のために常に搾取される側に立たされていた。地位が高くなってらは、力づくで奪われることはなくなったが、それでも求めに応じて与える身体に、嫌悪感を抱いてきた。疎ましかった。この体は自分のものではあるが、自分ではないような、そんな感覚。だから、どのような危険な状況にも平然としてこの身をさらすことができたし、あの、セラミック片が胸を貫いたときも、これでこの身と別れられるのかと、清々した気持ちになったものだ。
それが、愛されているという実感は、あの男が愛しげに切なげに触れるこの身体にも及ぶようだ。ベルゲングリューンが愛する我が身が愛しい。
ーーそんなことを自分の『死後』に知るなんて、つくづく俺は神に見放されているようだ。
自嘲しながらも、ロイエンタールは一つ覚悟を決めた。今までの迷いが吹っ切れたような、すかすがしさを感じながら。


××××××××××××××××××××××××××××××


日が傾き始めた頃、一眠りしてスッキリしたロイエンタールは居間に二人の姿を見つけた。冷めたカップをそのままに談笑している様子に、微笑ましさを感じる。そうか、ハンスも寂しかったのかも知れないな、と傍にいるのが当たり前と思っていた人物の気持ちに、初めて気づいたような気がした。
「ああ、もうそんなお時間でしたか」
ロイエンタールに気づいたワグナーが立ち上がった。
「ん、随分と楽しそうじゃ無いか。何を話していたんだ?」
「はい、それはもう、いろいろとです」
ワグナーの言葉にベルゲングリューンも笑いながら頷いている。
「なんだ、俺は仲間はずれか」
口ではそうは言ったが、ロイエンタールは疎外感など少しも感じてはいなかった。ただ、自分の大切な者たちが親しくしていることに、喜びを感じていた。しかし、そんなことはおくびにも出さず、ロイエンタールは厨房に向かった。

「意外ですな………」
器用に魚を捌くロイエンタールに、ベルゲングリューンは感心しきりだった。あまりにも見詰められるので、やりにくいと肩でベルゲングリューンの身を押しやる。
「閣下が料理をされるとは、思ってもみませんでした」
しつこく付き纏うと手に持つ包丁で刺されかねない。ベルゲングリューンは相手をワグナーに代えて話し掛けた。
「そうですか? 旦那様は昔からお上手でしたよ」
「信じられません」
「まあ、以前はお忙しくて、キッチンに立たれる時間などはございませんでしたでしょうね」
「それはそうなのですが、官舎のキッチンは使われたあと一つありませんでしたので、そういうことは一切出来ない方なのだと………」
「フフ、しかし、料理に関しては、私は旦那様の足元にも及びません。近頃はお食事の準備は旦那様がしてくださっているのですよ」
「閣下がですか?!」
「ベルゲングリューン!」
白いシャツを捲り上げた腕が、鋭い言葉と共にベルゲングリューンの前に伸びてきた。習い性で「はっ」と直立不動の姿勢になる。
「何もすることがなければ、これでも剥いておけ」
笊一杯のジャガイモを突き付けられた。


自分の自己満足の犠牲者に、あの方をしてしまったのではないか。あの時は、死なせたくない一心だった。あのような死に方をさせてはならない。この思いはあの方の身近にお仕えする、全ての者に共通するものだったと確信している。しかし、その後のことを考えた者が、あの時いただろうか?あの方が生きていてくださるだけで、自分は嬉しい。だが、あの方は? 自分はあの方に不本意な生活を強要しているのではないのか………。
「またその顔をしている」
「閣下………」
夜風と共に忍び込んできたロイエンタールが、ソファーに座るベルゲングリューンを見下ろしている。もう寝てしまったのかと思った、と態々ベルゲングリューンの部屋まで様子を見に来たのだという。ベルゲングリューンは目の前の細腰に腕を回し、抱き寄せた。
「お前は間違っているぞ」
優しい声色と髪を撫でる手に、ああ、この方には敵わないなと思う。
「俺は『可哀想』ではないぞ」
裕福な貴族の家に生まれ育ち、多くの人に傅かれてきた人。
「今の方が、余程人間らしい暮らしをしていると思う」
数多の艦艇を率い、余人には真似し難い幾多もの戦功をたてた人。
「毎朝目覚めると、今日は一日何をしようかと考えるんだ」
宇宙の半分を支配し、この世界の未来図を描き、実現させつつあった人。
「料理をしたり、馬の世話をしたり、壊れた棚の修繕をすることもある」
奸計に陥れられ、絆を断ち切られ、裏切りに遭った人。
「こんなに丁寧に毎日を過ごすのは、生まれて初めてだ」
そんなに、調理場に立つ俺は落ちぶれていたか? とからかうように言う人の腹に、グリグリと顔を擦り付けた。
「明日の朝にでも、その棚を見せていただかなければなりませんな」
「ん? 何故だ?」
「貴方は不器用ですから、直ぐにまた壊れてしまいます」
「………………。棚ぐらい、俺にも直せる」
そろりと顔をあげると、憮然とした表情のロイエンタールがいた。
「ずっとお側にいましたのに、私の知らない貴方がまだいらっしゃっるのですな………」
顎を上げて少し目を伏せてみた。目の前が翳り、唇に柔らかいものが触れた。
ああ、これも初めて、初めてのロイエンタールからの口づけだ、とベルゲングリューンはうっとりとした。


××××××××××××××××××××××××××××××


「俺もお前が欲しい。抱いてはくれないのか?」
昼間のことがあるので、躊躇うベルゲングリューンを、ロイエンタールの一言が撃沈した。それでも、昼に比して余裕ができたベルゲングリューンは、今度こそ優しくしようと心に誓う。
肩に置いた手に力を入れ、ベッドに押し倒した。口づけを交わしながらシャツの釦を外していく。啄むだけの口づけが、互いの舌を絡ませあうものになったときには、ロイエンタールはすっかり裸にされていた。
「随分手際がよいものだな。それに………」
金銀妖瞳が妖艶に煌めいた。
「ハッ」
まだ履いたままのズボンの上から、しっかりと形を成したものを撫で上げられて、ベルゲングリューンは息を飲んだ。
「こちらも準備万端のようだ」
揶揄するように見上げてきたロイエンタールが、愛しくてたまらなかった。

どんなこの人も愛している。

怜悧で、明敏で、高潔で、寛雅で、孤独で、我が儘で天の邪鬼なこの人を愛している。
だから、この人がこの世から失せてしまうことを想像しただけで、喩えようのない絶望感に襲われた。
意識を飛ばすことなく共に果て、体を繋げたままの愛しい人を見下ろした。不穏な想像は、淫らな疲労に目を瞑るその顔を、死相に満ちたあの時の顔にダブらせる。世界が終わるような冷たい感覚に襲われ、ベルゲングリューンはロイエンタールの胸にすがり付いた。
「どうした?」
「恐いのです」
「ん?」
優しく髪を梳く手に、癒されつつも、甘やかされついでに甘えてみたくなる。
「貴方がいないことを思うと………」
「俺はここにいる」
少し頭を持ち上げて、赤茶色の髪に口づけした。ロイエンタールに迷いはない。愛に愛を返すことに躊躇いはない。ベルゲングリューンが望む限り自分はここに、この世に留まる。そして、
「ハンス、お前を愛しているから」
自分の存在が、ベルゲングリューンの為にならない時には命を絶つ。その覚悟は、ロイエンタールをこの上なく優しくさせていた。

時間は無情に流れ、別れの時が来る。

この時を、こんな凪いだ心で迎えられるとは思わなかった。離れている距離も時間も、もう恐ろしくはなかった。そんなものなど軽く埋めてしまうほどの、想いがあると思うから。


××××××××××××××××××××××××××××××


「ベルゲングリューン閣下ですよねぇ?」
空港で突然声をかけられ、ベルゲングリューンは身構えた。振り返ると、人の良さそうな青年がにこにこして手を振っていた。
「何の用だ?」
「用? 用は特にないんですが、あれ? あれはどうしたのですか?」
「『あれ』?」
「そう、でっかい蜂蜜買ったんでしょう? あれは瓶詰めなんですから、手荷物にしないといけませんよ」
「…………」
「ああ、そうか。彼女は此方の人なんですね! でも何で態々遠距離なんてしてるのかな? 私には理解できないな」
ベルゲングリューンは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
ーーこの男、何を知っているんだ?
「何のことだ…………」
「あれぇ、心当たりありませんか? じゃ、そういうことにしておきましょう!」
ヒラヒラと手を振って去っていく男の背中を、ベルゲングリューンは見送った。
言い様のない不安を感じながら、ハイネセンポリスに帰るしかなかった。


<第一部 了>



back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -