後の心(2)



フェルーラの蜂蜜。
たまたま知ったそれに興味を引かれ、調べてみると滋養強壮や腎機能に効くという。愛しい人のために手に入れようと、更に調べると、なんとシルフィート原産のものが、効能が高いらしい。

ベルゲングリューンは、シルフィートに降り立つと、借りている駐車場に向かう前に、調べておいた蜂蜜専門店に急いだ。開店したばかりのその店で、一番大きな瓶を購入したところ、久しぶりの上客に気をよくした店主に、この蜂蜜の蘊蓄を披露され、思わぬ時間を食ってしまった。
その時間を取り戻そうと急いだのがいけなかったのか、数日前に雨が降ったらしく、ぬかるみに足をとられてしまった。人が立ち入ることがない森の奥深くである。助けを呼ぶことは考えられない。ベルゲングリューンは車を下り、靴を泥に沈めながらトランクを開けたが、役立つようなものは入っていなかった。周囲を見回すと、暗い森の深淵に飲み込まれそうな心細さを感じる。あの人をして歴戦の勇者と言わしめた自分が、と気を奮い立たせると、ここが以前あの人と遠乗りに来た所だと気づいた。
ーー確か、あの向こうに小川があったはずだ。
ぬかるみを小石で埋めて脱出する。そう方針を決め、とりあえず体を動かすことにした。

 袖を縛ったシャツに小石を詰めて戻ってくると、立ち往生した車と対峙する馬上の人を見つけた。「閣下」と呼び掛けるが、耳には届かないようだ。ベルゲングリュ−ンは袋を肩に担ぎ直すと、荷物の重さも忘れたように歩きだした。


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 屋敷を飛び出し、芦毛を曳き出したロイエンタ−ルは、自然とベルゲングリュ−ンが通る道を辿り始めた。数日前に激しく降った雨のために、舗装されていない道は随分ぬかるんでいた。芦毛は泥が跳ねるのを嫌がって、道の端の草が生えているところを歩きたがる。馬は自ら危険な場所には行かない生き物なので、迫りくる木々の葉に付いた露に肩を濡らしながら、馬に任せて道を進んだ。開けた湖畔から森に入る。森が深くなるにつれて、道も悪くなっていく。
ロイエンタ−ルは耳を澄まして道を行く。微かにも人工の音がしないことに不安を覚えながら、しかし、その気持ちを落胆にすり替えながら。しばらく行くと、見慣れた自動車が道の中央で乗り捨てられているのを発見した。せっかく押さえ込んだ不安が無暗に膨らもうとするのを理性で抑えて、車の様子を観察する。更に近づこうとするが、芦毛が動かない。どうやら、ここから先はかなり道の状態がよくないようだ。
ロイエンタ−ルは馬から下りた。柔らかな泥に足が埋まる。
ロイエンタ−ルはそっと車に触れてみた。ボンネットには微かな熱が残っている。
「ベルゲングリュ−ン………」
思わず口をついて出た言葉に、続いて溜め息が漏れそうになった。そこへ、
「はい閣下」
と、返事があったものだから、ロイエンタ−ルは驚いて声のする方に振り向いた。
「ベルゲングリュ−ン! !………お前、何をしている?」
「ああ、これは、車がぬかるみにはまってしまいまして」
この日のためにと、下ろし立てのシャツはずだ袋に成り果てていた。アンダーシャツ一枚でそれを肩に担いだ姿は、決してこの星を動かしている高級将校には見えなかった。泥に汚れた髭面は、男らしい男を更に男臭く見せていた。
提げてきた小石をタイヤの回りにばら蒔いた。小石はみるみる間に泥の中に飲み込まれていく。
「あと何回それを繰り返すのだ?」
「そうですな、あと三回というところでしょうか?」
黙々と作業を進める背中に、ロイエンタ−ルは大袈裟な溜め息をついてみせた。
「三回! それまで俺を待たせるのか」
「あ」
受け取りようによっては、随分艶のある言葉に、ベルゲングリュ−ンは思わず振り返った。しかし、そこにあるのは、見慣れた人の悪い笑みだった。
「ここに二人いるんだ。持ち上げられるだろう」
「え?しかし」
確かにそうだ。だが、ロイエンタ−ルにそれをさせるのは、色々な意味で気が引ける。病み上がりでもあるし、それに、自分にとっては守るべき、いや、守りたい存在でもあるのだから。


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細身の体を知るものからすれば、信じられないことだが、ロイエンタ−ルは陸戦でも勇名を馳せていたらしい。トマホークを振り回している姿を目にしたことはないので、単なるロイエンタ−ルを彩る噂のひとつかと、ベルゲングリュ−ンは思っていた。しかし、自分の隣で、泥にまみれるのも厭わずに車に手を掛け持ち上げる姿を見れば、この方も自分と同じ『軍人』だったのだと、気付かされる。
車は無事ぬかるみから脱したが、二人は泥塗れになってしまった。乗馬用のブーツのロイエンタ−ルはまだよいが、ベルゲングリュ−ンは靴の中まで泥が入って、歩く度にグズグズと音がする。
「これでは、何のために靴を履いているのかわかりませんな」
と愚痴ると、珍しく声をたててロイエンタ−ルが笑った。

芦毛は大切な主人が汚されたことにご立腹のようで、頻りに前肢を掻いていた。ロイエンタ−ルはその鼻面を慰撫し鞍に跨がると、先導するように歩き出した。
ベルゲングリュ−ンはタイヤが滑らないようにそっとアクセルを踏む。芦毛の歩調に合わせるように進めば、車はそろりそろりと動き出した。

「これはこれは………」
二人の姿は出迎えたワグナーを絶句させた。風呂を勧められるが泥が乾かないうちに車を洗っておかなければならないと伝え、水栓の場所を教えてもらった。ロイエンタールも馬を洗うと言うので、一緒に裏庭に回った。芦毛の轡を取り厩舎に向かうロイエンタールを見送ると、ベルゲングリュ−ンは早速車を洗い始めた。こういう作業は嫌いではない。いつしか夢中になって泥のこびりついたタイヤを磨いていると、背後に人の気配を感じた。案の定、ロイエンタールが立っていた。手にはホースを持っている。嫌な予感を感じ、
「もう、終わられたのですか?」
と牽制の意味を込めて問うと、ニヤリと笑うのが見えた。
「手伝ってやろうと思ってな」
 いやいや結構と断る間もなく、過たずホースから飛び出た水がベルゲングリューンの顔面を直撃した。クツクツ笑い水を掛け続けるロイエンタールに、飛び掛かるとホースを取り上げようとした。取られるまいとするロイエンタールと揉み合ううちに、二人も周囲もあっという間に水浸しになってしまった。やっとのことで水を止めたベルゲングリューンは、碧の瞳をしばたかせながら、非難を込めた声を上げた。
「まったく・・・・・・何をなさるのですか」
「お前も汚れていたからな、洗ってやろうと思ったのだ」
 全く悪びれた風もない答えに、
「洗うどころか・・・、びしょ濡れになってしまいましたぞ」
と言うと、
「お前が暴れるからだ」
と、不満げな表情をする。ベルゲングリューンは気づかれないようにそっと溜め息をつくと、額に張り付き水を滴らせている長い暗褐色の前髪を掻き上げた。
「あなたもこんなになって・・・・・・。お風邪を召したらどうなさるのです?」
 現れた金銀妖瞳がすっと細められた。
「お前のせいだ。俺が風邪を引けば治るまで看病していくんだな」
 耳元に口を寄せそう言い捨てると、ロイエンタールはくるりと背を向けて行ってしまった。直ぐにでも後を追いたかったが、自分の周囲を見ればそれが許されないことは一目瞭然だった。ベルゲングリューンは逸る気持ちを抑えてほりっぱなしになっているホースを巻き取り始めた。


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出掛ける準備をしながら何気なくニュースを見ていたアッテンボローは、あっと声を上げた。今週の出来事を総まとめにした繋ぎのフラッシュ映像だった。画面は既に今売り出し中の若手の女子アナを映している。しかし、アッテンボローの目にはしっかりとさっき見たばかりの映像が焼き付いていた。鞄の中から仕舞ったばかりのカメラを取りだし、今朝撮ったばかりの写真を呼び出した。
「そうだ、間違いない」
しかし、その彼がなぜ、こんなハイネセン・ポリスの裏側にいるのだろうか?
「ベルゲングリューン軍事査閲……」
アッテンボローのジャーナリストの部分がざわめいた。


〈続く〉



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