後の心(1)



『んんッ………はぁ……あぁン………』
吸い付くような滑らかな肌。伝わる体温。熱い息遣いに、時折漏れる艶やかな喘ぎ。迫り上がる快感、止めようもない絶頂感。しなやかに反り返る白い肢体。心地よい気だるさとこの上ない充足感。

「はぁ……」
ベルゲングリューンは寝返りをうち、闇の中に両手を翳して見た。カーテンの隙間から漏れ入る眠らぬ街の灯りが、ぼんやりとそれを浮かび上がらせた。
「閣下………」
確かにこの手であの方を抱いた。それを鮮明に思い出すこともできるのに、どうしてだろう、鮮明であればあるほど、まるで夢の中で夢を見ていたように、現実味を失っていってしまう。思い続けた年月が長かったからか、現と夢が混ざりあってしまったようだ。
時計を見れば、もう既に日付が変わっていた。ベルゲングリューンはベッドから起き上がり、明日に響かぬ程度に薄く酒を拵えた。視線は自然にカレンダーに行く。あのことがあってから、まだ十日とたっていないことに、苦笑した。今月は駄目だ。空いている手でカレンダーを捲り上げた。
「んん?」
カレンダーには見慣れない祝日が記されていた。ああそうだった、とベルゲングリューンは思い出した。ここは旧同盟領ハイネセン、カレンダーも当時のものを踏襲していた。そう決めたのも、あの方だった。そのカレンダーが彼に取り敢えずの目標を与えてくれた。
一月の我慢だ。一月すればあの方に会える。
ベルゲングリューンは、漸く訪れた睡魔が再び逃げていかないように、ベッドに潜り込んだ。


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売れないルポライター。これが今の彼の肩書きだ。「売れない」というところが彼のアイデンティティーを表している。売れていないということはすなわち迎合していないということだ。自分は自分の信念と良心にのみ従っている。受けを狙って薄っぺらな言葉をペラペラと言っていた、自称エースとは一線を画するのだ。
しかし、と飛行機のタラップを降りながら空を仰いだ。食うためには信念を曲げることも必要さ、と曾ての彼の唯一の敬愛すべき上官の顔を思い浮かべた。あの人も、給料と年金のため、したくもない仕事に精を出していた、それも命懸けで。
「それに比べりゃ、この程度のこと何てことないさ」
アッテンボローはハイネセン・ポリスの裏側、シルフィートに降り立った。

彼の最近の仕事は、地方を巡り、その土地の歴史や伝説を、ウィットを利かせた語り口で紹介するもの。たまたま訪れた山村に伝わる怪談を、面白おかしく纏めたものが、たまたまある編集者の目に触れて、観光情報誌に連載しないかと誘われたのだ。その時、もう少し格調高く書けないか? と言われたことは癪に触るが、天才は理解されるのに時間がかかるから仕方がないか。
それで今回はハイネセンでも屈指の古い街、シルフィートを訪れた。ここは、湖の街としての有名だが、もうひとつ、精霊伝説でマニアの間では有名だった。
アッテンボローばホテルに荷物を置くと、早速取材を始めた。古い街並みは想像した以上に雰囲気がよく、いい写真さえ撮れれば、文章なんて適当でもなんとかなそうだった。彼はこれだけはと年金の何分の1かを注ぎ込んだカメラを構えた。ファインダー越しに見る古い街は、余計なものが削ぎ落とされて、ますます精霊の街となった。
ホテルに戻り、シルフィートの観光協会から貰っていたリーフレットを片手に、この日撮った写真の確認をしていた。妖精や精霊の存在を信じたことはないが、この街にはそれらを自然と受け入れるような雰囲気がある。都会の生活に疲れたハイネセン市民に向けて、これはいい「物語」が書けそうだ、と、アッテンボローは思った。大枚はたいた甲斐あって、写真もいい感じに撮れている。
「ン?」
彼は一枚の写真に目を止めた。観光客で僅かに賑わう商店街を撮ったものだ。そこに写り込んでいる一人の姿が、彼の記憶野を刺激した。確かに見たことはあるのだが、さて、どこでの知り合いだったか。愛すべき先輩の尊敬すべき奥方ならすぐに思い出せるのだろうが……。アッテンボローは写真から目を離し、ウーンと伸びをした。思い出せないということは、さして重要ではないということだろう。彼は午後からの取材に備えて、どうでもいいようなことから頭を切り換えた。


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あのことがあってから、十日も経たぬうちに、次の訪れを告げてきた元部下に、ロイエンタールは口許が綻びかけるのを必死で堪えた。殊更にしかめつらしい顔をして、
「何か問題でも?」
と問えば、
「お会いしたいのです」
と返ってきた。依然表情を変えないロイエンタールに、ベルゲングリューンはしゅんと項垂れた。まるで叱られた犬のようだ、とますます愉快になる。
「会うだけ、か?」
モニター越しに見つめると、苦しそうに眉値を寄せて項垂れる。それから恨めしそうにこちらの様子を伺っている姿は、お預けをくっている犬そのものだ、とロイエンタールは先程の己の認識を改めた。
「閣下………、からかわないでください」
「『閣下』、ね。まだそのように俺を呼ぶのか、ハンス?」
「あ、うっ、え、あの、あー、オ、オ、オス………」
たかだか名前を呼ぶだけのことに、いい年をした男が四苦八苦している。ロイエンタールは堪らず吹き出した。それは、長く側に仕えてきたベルゲングリューンも、初めて見るほどの朗らかな笑顔であったので、からかわれているのも忘れて、うっとりと見詰めてしまった。
「ベルゲングリューン、お前は……」
まだ笑いの余韻を残したまま、ロイエンタールはベルゲングリューンに更に追い打ちをかけるように言う。
「退っ引きならない状況に追い込んで、俺には言わせたのに、お前が俺の名を呼べぬとは、どうしたことだ」
ベルゲングリューンは日に日に鮮やかになる記憶にある、その場面を思い出した。顔が赤くなるのが抑えられない。
「クククッ」
からかわれても、ベルゲングリューンは幸せだった。愛しい人がこんなににこやかに振る舞ってくれる。そんな愛しい人はの姿に、自然と身体が熱くなる。
「はぁ………」
画面の彼方に気づかれないようについた吐息は、二人の距離を意識させた。


そんなことがあったので、ロイエンタールは年甲斐もなく熱に浮かれた愚かな男を、是非とも出迎えてやろうと、日課を取り止めにして居間に陣取っていた。ワグナーが意味ありげな視線を向けてくるが、無視する。あの普段は生真面目面の男が、どんな顔をして自分に会いに来るのか、面白くてならない。
ーー早く会いたいと言っていたんだ。息急ききって駆け込んでくるか?
しかし、いつもの時間になってもベルゲングリューンは来なかった。
「あ奴め、どこで道草を喰っているのだ」
苛立った声を残して屋敷を出ていったロイエンタールを、ワグナーは見送った。素直でない主人を持つことと、素直でない恋人を持つこと、どちらが幸せだろうか、などと思いながら。

<続く>


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