ヤハズエンドウ




ーー子供ができると、幼年時代のいろいろな楽しみが甦ってくる………

とは、誰の言葉だったか。それとも、何かの本の一節だったろうか。世の多くの父親にとってはきっとそうなのだろう。しかし、真っ当な子供時代を送った記憶のないロイエンタ−ルにとって、フェリックスとの生活は新しい発見に満ちていた。

「ファーター、みてみて! ピーピー豆があるよ」

フェザーンで手にいれた屋敷の裏庭に、フェリックスのお気に入りの『原っぱ』があった。何事にも手抜かりのないロイエンタ−ル家の敏腕執事が、そこだけは手をつけずに荒れ放題になっている一画だ。フェリックスは手入れの行き届いた庭よりも、この野放図に雑草が伸びている『原っぱ』がいいらしく、この日も、珍しく家にいる父親の手を引いてここに来たのだった。

「ピーピー豆?」
「うん、これ!」
手荒にむしりとられたフェリックスの手の中のものを見ると、小さいながらも見慣れた豆の形をしたものがあった。
「これは、ヤハズエンドウか……」
「やはずえんどー?」
ロイエンタ−ルはフェリックスの隣に身を屈め、生い茂る「雑草」に目をやった。小さな紫の花が二つ並んで咲いている、ツルを絡ませているその植物は、確かにロイエンタ−ルの知っている「ヤハズエンドウ」だった。
「『やはず』ってなあに?」
えんどうは分かるのかと問えば、お豆のことでしょ、と答えるので、よく知っているなと頭を撫でてやると、嬉しそうに笑った。ロイエンタ−ルは小さな葉をひとつ摘んで、小さな手の載せてやった。
「あっ、はぁとだぁ」
「成る程、ハートにも見えるな。昔の人はこれを『矢筈』に見立てたのだ」
矢筈や矢柄、弓弦と言ってもフェリックスにどこまで分かるかと思いつつ、できるだけ噛み砕いて説明をすると、
「ファーターすごいね」
と、父親の左目とよく似た青い瞳をキラキラさせた。その目の輝きに目を細め、ロイエンタ−ルは地面が乾いているのを確認すると、そこに腰を下ろした。そうすると、眼前には子供の頃によく見た景色が広がっていた。


ーーオーディンの屋敷にもこんな場所があった。


ロイエンタ−ルの子供時代は、お世辞にも幸せとは言い難いものだった。そんな不幸の中にも幸せな時間があった。たとえ他人がどう思おうとも、ロイエンタ−ル自身がそれを幸福と感じていたことは揺るがせない。
母が自ら命を絶ってから、父親からの肉体的精神的な虐待は目に見えて激しくなった。物心つく前はただただそれに耐えているだけであったが、分別がつく頃合いになると、父親が酒に呑まれて暴力を奮うことがわかってきた。それからは、父親が帰宅しているときは静かに身を潜め、家にいないときは僅かばかりに羽を広げる術を覚えた。
父親が落魄した貴族から叩き買ったあの邸宅には、珍しく図書室を備えていた。紙の本自体が珍しくなったこの時代に、これだけの蔵書を抱えていた貴族がどのような人物だったかは知るよしもない。だが、幼いロイエンタ−ルにささやかな楽しみを与えてくれた、その一点だけで彼はロイエンタ−ルの恩人であった。
家庭教師を付けられ、家から出ることも許されない幼いロイエンタ−ルにとって、この図書室と雑草が僅かに生い茂る裏庭が唯一の遊び場だった。特に寂しい心をなぐさめたのは色鮮やかな図鑑で、まだ見たことのない屋敷の壁の向こう側を、それらを通して想像した。中でも植物図鑑は特別だった。
初めはよく手入れされた庭で、植木や薔薇の名前を確かめていたが、足元に踏みつけられている雑草にも、それぞれ名前があることを知ると、それらを見つけることに夢中になった。他にすることもないので、ロイエンタ−ル少年はそこいらの植物学を専攻する学生よりも、それらに詳しくなっていた。まさか、この時もののついでに覚えた花言葉が、後々女性を口説くのに役に立つとは思わなかったが。


「そうだ、フェリックス。これにはもうひとつ名前があった」
「ピーピー豆?」
「いや、あれを見てごらん」
ロイエンタ−ルは、枯れ始め草草の一角を指差した。フェリックスはちょこちょことそちらに歩み寄り、
「わあ!」
と、声を上げた。
「ファーター、これ、おんなじの?」
フェリックスの目の前には、枯れて黒くなった小さな豆のサヤがあった。
「ああ、そうだ」
「真っ黒、クロクロだね」
妙な節をつけて歌うように言うので、余りの可愛らしさに、ロイエンタ−ルは長い腕を伸ばし幼い我が子を抱き締めた。
「まるで烏の羽のように黒いから、カラスノエンドウとも言うんだ」
「ほんとだー。カラスカラス」
フェリックスは抱き締める父親の腕の中から伸び上がって、黒いサヤを掴もうとした。
ーーパチッ
何かが弾けたような、乾いた軽い音がした。
「??」
フェリックスの手の中には、捩れた黒いサヤが残っていた。
「あああ、あれえ?」
再び黒いカラスノエンドウに手を伸ばし、小さなサヤがはぜる様を確かめるようにするフェリックスに、幼い日の自分の姿が重なった。そっと指でつついては、豆がはぜる様子を飽きもせず眺めていた。未知な物に触れて感動する我が子の側にいられたことを、この上なく幸せに思えた。
パチパチパチ、と小さく微かな音も重なると、まるでどこかで火が燃えているようにも聞こえる。
「すごいね」
「すごいな」
舌足らずな言い様を真似してやると、「ねえファーター」と、首を巡らせた。
「ピーピー豆、ならせる?」
「ピーピー豆とは鳴るものなのか?」
「うん」
フェリックスは、今度はまだ若い豆に手を伸ばした。子供らしい乱暴さでそれを引きちぎると、無造作に筋を取り、豆を掻き出した。ちょっと先っぽをちぎると、ぱくっとくわえた。
『フゥーフゥーフゥー』
顔を赤くして懸命に息を吹き込むが、聞こえるのは空気が通る音しかない。ロイエンタ−ルはフェリックスの口元から『ピーピー豆もどき』を取り上げると、意図を観察した。そして、サヤを振動させて音をならす、要はダブルリードのようなものかと見当をつけた。
先程のフェリックスのやり方を思い出し、ロイエンタ−ルはヤハズエンドウをひとつもぎ取った。今度は丁寧に筋と豆を取り、オーボエ奏者のように、少し深めに豆をくわえた。
『フゥーフゥーフゥー』
吹き方を色々と試す様子を、フェリックスが期待と不安の混ざった表情でじっと見ている。ロイエンタ−ルはもう一度、頭の中でリードの仕組みを確認し、少し唇に力をいれてくわえ直した。
『フゥーフゥー』「プゥッ」
「わぁ! なった! なったよ、ファーター!」

飲み込みの早いフェリックスは、要領がわかるとすぐに音を出し始めた。
「プゥプゥピー」
「ピーピーピー」
何の加減か、フェリックスのは少し高い、ロイエンタ−ルのは少し低い音がした。
ロイエンタ−ルは唐突にこの草の花言葉を思い出した。自分の隣で得意気にピーピー豆を鳴らす息子を見た。そして、納得した。
確かにそれは訪れていた。二人が鳴らすその音が、それを告げているようだった。


おしまい



【ヤハズエンドウ】花言葉
絆 小さな恋人たち 喜びの訪れ


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