時軸:未来
設定:銀のおはなし





 目を覚ましたその時、世界は灰色に滲んでいた。
 何も見えない。目を凝らそうにも酷く乾いていて、目を開けているのにも苦労をした。それでも、その空虚な灰色はどうにも恐ろしくて、少しでも視界を晴らそうと何度も何度も瞬きをしていれば、ようやく世界が黒と白に分かれていることに気が付いた。右側が白くて、左側が黒い。どうやら己はその中間に横たわっているようだ。ぼやけた視界が鮮明になると、つられるように他の五感も回復し、いろんなことを理解した。
 頬に触れる、ざらざらと刺すような感触が砂によるものだということ。起き上がるどころか唇に付いた砂を払うことも出来ないくらい身体が重たくて仕方がないこと。聞こえる微かな風音が自分のか細い呼吸音であること。それ以外には何も聞こえてこないこと。其処には誰も居ないこと。自分しか居ないこと。そこまで理解して、ようやく気がついた。自分が誰であるかわからないということに。
 己が誰かということも、この場所が何処かということも、今がいったい何時なのかということも。なにもわからない。目を覚ますより前のことをなにひとつとして思い出せないのだ。されど、特段取り乱す様子はない。何故か不思議と、それが正しいことであるかのように思えたのだ。
 自分が獣のような類ではなく、人の形をしているということは漠然と理解していた。視界の端に自分の白い指先が見えていたからかもしれない。どうやら身体は重たいどころか痺れるように全身が麻痺していて、指先を動かすことすら出来ないようだった。真っ先に感じた乾きも、瞳だけではなく身体中に及んでいた。生きる源が枯渇している。崩れかけた指先を見て自覚した。
 白い砂と黒い夜闇の狭間で傀儡のように横たわり、命を繋ぎ止めるためだけに宛もなく息をしていれば黒が一つ増える。突然、視界に現れた黒い着物姿の女性が死神であると言うことは、己の素性も知らないくせに理解できた。その死神は己に向かって何か懸命に呼びかけたが、彼女の呼ぶその名が自分のものではないということだけはわかったので返事はしなかった。己の名前は知らないし、知っていたところで声を紡ぐことなど到底できる状態ではなかったのだけれど。

 虚圏で倒れ伏し、霊圧を枯らせて灰になりかけていた少年は死神に救出されながら意識を手放す。薄れ行く中、死神が涙を零すのを見て、思った。己も誰かを助けなければ、と。使命感などではない。どうやら、この得体の知れない魂にはそう刻まれているようなのだ。救出された後、少年は白衣を着た死神に治療されながら意識を手放したり、取り戻したりを繰り返していたが、その要求だけはいつだって抱いていたように思う。まるで、縋りつくように。必死に、必死に。
 眠っていても、起きていても、いつだって意識は酷く混濁していて、実を言えばこの頃のことはあまり覚えていない。まるで水の中で生きているかのように世界は白く濁り、ただひたすらに苦しかったことだけを漠然と覚えている。霊力が回復し、身体中に繋がれていた管が外れると、少年は病室から抜け出し夢遊病のように院内を徘徊し始めた。宛もなく朝から晩まで、ふらふらふらふらと。何かを求めて彷徨っているようだった、と、その自由を与えた死神は後々そう振り返った。

 それは、何時のことだっただろうか。時間の感覚なんてあるはずもなく、白と黒の狭間で目を覚ましたあの日からどれくらいが経っていたのかはわからないがとにかく、その時はようやく訪れた。
 その日、少年は病室を抜け出して、緑の生い茂る中庭を彷徨い歩いていた。夏だと言うのに酷く色褪せた色の庭を歩いていればふと、少年は花の香りを嗅ぐ。このとき、匂いというものを初めて理解した。理解したその瞬間、夏の緑の噎せ返るような青臭さや、太陽に熱せられた足下から立ち上る土臭さ、風が揺らした己の髪から香る病院独特の薬臭さ。世界に溢れる霊子の香りが押し寄せるように鼻腔を通り、情報として脳に刻み込まれる。今の今まで思考すらまともにしていなかった脳はそれだけで許容を越え、苛むような鋭い痛みがこめかみを襲ったが、靄がかかったような頭の中が少しばかり透き通ったように感じられた。少年は足下をふらつかせながらも振り返り、先刻嗅いだ花の香りの根源を探す。その庭にはたくさんの花が植えられていたが、顔を近づけてみればどれも青臭いものばかりであの芳しさの足元にも及ばない。程なくして、あの香りはこのちんけな庭からではなく、建物の方角から届いていたのではないだろうか、と思い至った。
 少年と同様に、何らかの疾患に苛まれ入院を余儀なくされた人々が住まう病室の窓が数え切れないほどに並ぶ白い壁面を見上げながら、少年はあの香りを探し出す。途方もなく感じられたが、一階の病室の開いた窓から白いレースのカーテンが羽衣のように舞う様を見て、少年はあたりをつけた。
 覚束ない足取りでその部屋に近づくと、自分の胸の高さまである窓枠によじ登り、真っ白い病室内へと脚を踏み入れる。瞬間、噎せ返るほどの甘美な香りに包まれ、思わず酔いしれた。大当たり。心臓が異様な速度で鼓動するのを感じながら室内を見回せば誰かが白いベッドに横たわっているのに気が付く。陶器のように白い肌は今にもシーツに溶け込んでしまいそうなのに、鮮やかな緑の黒髪は光を吸い込むかのように暗く、その陰影に目がくらんだ。思わず目を瞬けば、はらはらと涙が溢れ出た。思えば涙を流すのはそれが初めてだったが、そんなことを考える余裕は一切あるわけもなく、少年は押し寄せる涙に、止まらない嗚咽に胸を押さえる。

 もう、この瞬間には理解していた。
 自分が何のために生を受けたのか。何のために生を全うするのか。
 全ては彼女に起因する。己の人生の全ては彼女にかかっているのだと、その瞬間に理解した。

 縋るように手を伸ばす。陶器のように冷たく見える彼女のその肌に触れて、その熱を確かめたかった。彼女が生きているのか、確かめる必要があった。

「何をしている?」

 指先が彼女の頬に触れるその寸前、突如鼓膜を震わせた声に少年は肩を揺らす。ひと目見た瞬間から目を奪われていた彼女から視線を上げれば、彼女を挟んだその向こう側に少年が座っていることに気がついた。黒い袴に白い羽織、そして眩しいほどの銀髪は彼女と同じように目を痛めつけるようなコントラストをしていたが、不思議な事に今の今までその存在に全く気がつかなかった。彼女のことしか目に入らなかったからだろうが、もしかしたら、彼が小柄なのも理由の一つかもしれない。

「生きてはるか、確かめとうて」

 馬鹿正直に応えたその声は少し枯れていて喉に滲みた。当然である。声を発するのはこれが初めてだった。発声して初めて、自分の話す言語に訛があることに気がついたが、何処でその言葉を覚えたかまで思い出すことはない。

「生きてる」

 求めても居ないのに与えられた答え。触れる理由が絶え、少年は彼女の目前で行き場を失ったその指先を握り込む。彼は紐で綴じられた紙束を難しい顔で見つめるばかりで、少年の方を一瞥もしない。

「あんた、どちらさん?」
「……日番谷冬獅郎」
「けったいな名前」
「おまえこそ、名前はなんて言うんだ」
「銀」

 即答だった。今の今まで自分の名前なんか知らなかったはずなのに。銀。名前はわかる。書き方もわかる。だが、誰かにその名を呼ばれた覚えはなかったし、その名前を付けたであろう人物に関しては皆目見当もつかなかった。

「銀。それだけか?」
「それだけ。苗字ならあらへんよ」
「何処から来た?」
「上の病室から」
「それより前は何処にいたんだ?」
「砂漠」
「それよりも前は?」
「……覚えてへん。なんにも」
「そうか」

 息付く間もないほどに投げかけられた尋問めいた問い掛けは意外にも、銀が躓けば共に立ち止まってくれた。更に追いつめられたところで答えようがないのだが、相手はそれを知る由もないし、得体の知れない侵入者相手なのだから追求されても仕方あるまいと思う。もしかして、この銀色の少年は銀のことを知っているのではないだろうか。虚圏で拾われた得体の知れない己のことを。
 随分と幼く見えるその少年が羽織る純白の意味を、銀は知っていた。

「あんた、死神の隊長さん?」
「そうだ」
「見かけによらず、大層なお方ですこと」
「うるせえ」
「……彼女は?」

 二人の間で尚も穏やかに眠り続ける女性について尋ねる。空気越しに彼女の肌の温度を感じられるほどに迫っていた指先はとっくに離れ、今は乾いたシーツを手持ち無沙汰に握っていた。

「眠ってる。おまえが目覚めるよりも前から」
「目、覚ますの、待ってはるの?」
「ああ」
「いつ起きるか分からへんのやろ」
「待つのには慣れてる」

 今度は銀が問いかける番だった。彼もまた躊躇うことなく答えたので、銀は矢継ぎ早に質問を重ねる。

「あんた、彼女の恋人?」
「違う」
「そんなら親族?」
「違う」
「親族でも恋人でもあらへんのに待ってはるん? なして?」
「恋人や親族ではないが、それ以上にこいつのことを大事に思っている」

 恥ずかしげもなく言いのけた彼の伏せられていた眼差しが初めて銀を捉える。相も変わらず見目に似合わぬ小難しい顔をしていたが、その瞳は不思議と優しい。その緑の鮮やかさに、自分の褪せた世界が色彩を取り戻していたことを知った。
 きっと、彼女を見たその瞬間から。銀の世界は何時だって彼女から始まる。

 この日を境に銀の世界は色を変えた。彼女と、そして、この少年と出会ったその瞬間から。

『なあ、なんで泣いてはるの?』
 彼女の目覚めを見届けたのは彼の緑ではなく、己の緑だった。彼女の声を聞いた耳はずっと詰まっていた水が落ちたみたいによく聞こえ、彼女に触れた指先は火が灯るように熱を生み、すべての温かさと冷たさを知れるようになった。涙に濡れた彼女の椿色に見つめられた瞳は世界を輝かせて見せる。色の失われた世界が色彩と輝きに満ちた。
 視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、霊覚も、全ては彼女を識るために研ぎ澄まされるものなのだと確信した。己は、彼女を求めるために生を受けたのだと。彼女の幸せこそが己の幸せに通じる。彼女の幸福を手助けすることが銀の使命なのだと、記憶の失われたこの身に刻まれた生きる意味を痛感した。
 しかし、銀の使命など彼女には関係がない。彼女の幸福は既に、銀以外の他人と通じていた。あの日、病室で出会ったあの少年と。
 彼女は銀の手助けなどこれっぽっちも求めてはいなかった。彼女の幸福は、銀の幸福に寄り添うものではない。それでも銀は幸福だった。彼女が幸せであれば、それだけで世界は輝くのだから。銀は何も求めない。銀が誰かから何かを奪うことがあるのなら、それは彼女の幸せが阻害された、そのときだけだ。

「銀!」

 彼女に名を呼ばれると、いつも鼓膜からぱちんと泡の弾けるような音がする。そして途端に聴覚が研ぎ澄まされるのだ。彼女の声を、彼女の呼吸音を、出来ることなら彼女の心拍音まで聞き取れるように、身体が意思を差し置いて、真っ先に彼女を求める。
 振り返れば、今日も月のように美しく輝く彼女が天女のように袖をひらめかせながら銀の元へと駆け寄って来た。その様を網膜に焼き付けた瞬間に身体中の細胞がたちまち活性化するのを感じながら、銀は喜びに満ちたその名を声に紡ぐ。

「春樹!」
「銀、探したじゃない! どうしてこんな裏庭にいるの?」

 一体どこから走ってきたのやら、前髪が僅かに乱れ白い肌が垣間見えた。それでいて彼女は息一つ乱さず、髪を手櫛で整えながら呆れたように眉を顰めながら銀を見上げる。

「みんな桜の下に集まっているのに貴方の姿が見えないから、もう帰ってしまったのかと」
「ボクが春樹に会わんまま帰るわけあらへんやろ?」
「じゃあもう少し分かりやすいところにいてよ。ほら、ちゃんと顔を見せて」

 春樹の手が伸びてくるのを銀はそのまま受け入れる。彼女のひんやりと冷たい小さな手に両頬を包まれ、やわやわと熱を共有する心地良さにただでさえ細い瞳を細めて微笑めば、会うなり説教モードだった春樹もつられるようにして微笑みを返してくれた。木漏れ日が、まるで彼女自身が発光しているかのように肌の上で輝く様は、もはや神々しいまでに美しい。

「元気そうで安心した。少し痩せた?」
「痩せへんよ。こないだ会うたばかりやないの」
「こないだって正月じゃない。三月も前よ。貴方が浦原のところにいたときより物理的にはずっと近くにいるはずなのに、会う機会はすっかり減ってしまったんだから」
「あの頃は扉一つで繋がっとったしなぁ」

 そう。浦原喜助の元へ預けられてからと言うものの、銀は毎日のようにあの扉を通って春樹に会いに行っていた。浦原の家に不満があったわけではない。それどころか彼らはこの上なく銀の助けになってくれた。しかし、銀は会わずにはいられないのだ。春樹に会わないままその日を終えられない。そういう習性だったと言うだけの話。身体が大きくなり子供ではなくなるにつれて会いに行く回数も減ったが、それは未来を作るためにも必要な期間だったと銀は思う。週に一度は必ず顔を見せていた相手と年に四回ほどしか会えなくなってしまったこの日々も、全ては今日と言うこの日のために。

「霊術院、卒院おめでとう。銀」

 銀は死神を志した。誰に強制されるでも、誰に反対されるでもなく、自らの意思で。

「貴方が霊術院に入るって聞いたときは驚いたけど、一年で卒業が決まったと聞いたときにはなんだかもう、腑に落ちてしまった。当然のように席官入りも決まっているし」
「育て親が揃いも揃って隊長格なんや。期待に応えなあかんやろ」
「期待の上を行き過ぎてこっちは置いて行かれている気分よ」

 頬に触れていた春樹の手が銀の耳に触れ、銀糸のような細い髪を優しく梳いていく。その指先が銀の後ろ頭を捕らえ、そのまま引き寄せられた。彼女の肩に顔を埋めれば噎せ返るほどの花の香りに包まれ、酩酊しそうになる。酒とは比べ物にならないほどの夢心地。抱き返すこともせず、ただただ甘い香りに酔いしれていれば彼女の囁きが耳元をくすぐる。

「背は伸びたでしょう」
「そやな。ちいとばかし」
「こんなに屈ませないとならないだなんて。目を離すとすぐ大きくなってしまうんだから」
「ええやないの。春からはいつでも会えるんやし」
「うん。でも、こんな風に子供扱いできるのは今日限りかな」

 ぽつり、そう零した彼女はさらさらと銀の後ろ頭を撫でる。名残惜しむようにやさしく、やさしく。なんて心地よく、なんて切ないのだろう。ぎゅうぎゅうと胸を締め付けるような感覚に、銀は彼女の肩に顔を埋めたまま眉根を寄せる。ふと、視線を上げればこちらへと向かってくる人影を見つけた。薄暗い裏庭にいても、その人は陰らない。彼女ほどではないがその人もまたこの世界では際立って明るく見える。

「ほら、もうええよ。相方が鬼の形相でこっち向かって来はる」

銀が彼女の薄い背を優しく叩きながら語りかければ、春樹が答えるよりも先に「誰が鬼だ」と怒声が飛んできた。今の今まで浮かべていた穏やかな表情はどこへやら。いつもの不機嫌そうな眼差しが容赦なく銀を睨めつける。

「冬獅郎さんも来てくれはったん?」
「まあ、一応な。卒院おめでとう」
「おおきにすんまへん」
「冬獅郎さん、先生とのお話は終わったんですか?」
「世間話が長えから抜け出してきた」

 春樹の腕が解け、彼の方へと振り返る。前屈状態から開放されたのは有り難いが、何処か勿体無いような気分で名残惜しく思っていれば、彼女の右手が銀の袖を摘んでいることに気がついた。全く、どっちが子供なのやら。別に、置いて何処かに消えたりなんかしないのに。

「そうだ、銀。今日はこのあとどうするの? 浦原のところでお祝い?」
「そういや、そないなこと言ってはったような……」
「それ、私達も一緒してもいいかな」
「それはええと思うけど。そや。祝いと言えば、春樹にひとつ借って欲しいもんがあるんやった」
「私に? 貴方がねだるなんて珍しい。何が欲しいの?」
「『朝倉』って苗字」

 二人が息を飲む気配を確かに感じた。前々から思っていたが、ふたりともつくづく顔芸が下手そうだ。こんな調子で隊長格が務まるのだろうか、と思うが、きっとそれは銀が彼女たちにとって特別であるからこそなのだろう。ふたり分の困惑の眼差しに晒されながらも銀は狐のような微笑みを絶やさない。

「ボクには苗字があらへん。霊術院はともかく、死神でそれは流石にあかん。銀だけじゃ締まらへん」
「う、ん。だから私はてっきり、浦原姓を名乗るのかと……」
「それも一応は考えたんやけど。やっぱ、春樹の『朝倉』が欲しゅうなった」

 惑う春樹の少し後ろで、冬獅郎が察したように僅かに微笑んだのを銀は見逃さなかった。しかし春樹は深刻そうな表情でしばし黙り込み、それから意を決したように銀をまっすぐと見つめる。

「……銀。今まで言ってなかったけれど、私の朝倉春樹と言う名は生まれ持った本当の名ではないの。私が死神になる時に適当に付けた名前で、」
「知っとる」
「……え?」
「知っとる。春樹が自分で付けた名前。最後に選んだ名前で、一番大切にしてはる名前やろ。そやからボクはその名が欲しいんや」

 微笑みながらも真摯に、優しくしっかりと語りかける銀の様子に春樹は顔をしかめる。怒っているわけではない。何処か切なそうに、何処か寂しげに、泣きそうな顔をくしゃりと崩して笑う彼女は果てがないほどに美しい。

「……浦原に聞いたの? それとも乱菊?」
「あー。どないやったかな」
「そんなことを言われるなんて思いもしなかった。そんな嬉しいこと。そんな泣きそうなこと。本当に、私の苗字でいいの?」
「そやから、それがええ。それでないとあかんのや。ボクに、『朝倉』をくれへん?」

 何かを貰うときのように手を差し出す。銀の薄い掌に、春樹のすべらかな指先がおずおずと触れた。合意の握手。

「あげる。貰って」
「おおきに。そう言ってくれはると思っとった」

 思っていた。されど、そのまま抱きつかれたのは、少し予想外だった。
 胸の中にすっぽりと収まる春樹の華奢な体躯に一瞬面くらいながらも、銀はからりと笑って彼女の小さな頭を軽く叩くように撫でる。ふと、銀は思い出した。以前、悪い夢に魘されていたその時、彼女が優しく頭を撫でて、その夢を晴らしてくれたことを。汗ばんだ額に張り付いた銀糸を冷たい指先でかきあげながら、とても穏やかな声で「大丈夫」と囁いた彼女のことを。表情の少ない彼女があんな風に優しく笑うのを、銀はその時初めて見たのだ。その美しさは絶対に忘れられないと思っていたのに、今の今まですっかり忘れていた。思い出した今となっては嘘のようだけれど。
 遠い昔に思いを馳せていれば、胸の中で春樹が水っぽく鼻を鳴らす。流石にぎょっとして、思わず彼女の後方に佇む冬獅郎を見やれば、彼は何処か慣れたように笑って肩をすくめた。
 そうか。彼女は、ちゃんと彼の前では泣くことが出来るのか。当然のことながらも、実感して、少し安堵した。銀は彼女の涙をほとんど見たことがない。見たいとも思わない。銀は首を傾げながら冬獅郎に笑い返す。

「冬獅郎さんも構しまへん? この名、貰ても」
「俺に確認することじゃあないが、いいんじゃねえか? 俺も失くすのは惜しいと思っていた。おまえが朝倉と言うのは些か妙な感覚ではあるが」
「ほんま。母親が出来たみたいや。母さんて呼んでみよか?」
「……そういうのは浦原家の役目だったから、ちょっと嬉しい、かも。でもやめて。急に老け込んだような気分になるから」
「ええ年して何言ってはるの……」
「うるさい」

 どすん。胸に拳骨。むせるほどではないが、適度な鈍痛に銀は大げさによろめいた。年下の彼氏がいると気になるものなのよ、と以前、乱菊がおちょくるように笑っていたのを思い出す。そこいらのじじばばよりよっぽど長生きしておいて何を今更。老いなどこれっぽっちも感じさせないくせに。
 顔を上げた春樹の目元は濡れてはいなかったが、長いまつげの先に星明かりのような小さな水滴がひとしずく、木漏れ日を浴びてちかちかと輝いていた。その星も貰えたら良いのに、なんて。思ったりはしない。せえへんよ。

「朝倉の名はボクが守ったるさかい、春樹は安心してお嫁にお行き」

 軽口のつもりだったのに。ついぞ、ガラス玉のような雨粒が彼女の椿色の瞳からこぼれ落ちる。花弁のような薄紅色の唇が小さく震えるが、銀は春樹を抱き寄せはしない。冬獅郎がそっと寄り添い、彼女の細い肩を抱く様を銀は心底幸せそうに見つめる。初めて会ったその日、彼は彼女よりずっと小さかったのに、冬獅郎はあっという間に春樹の身長を追い越し、彼女を心身ともに支えられるほどまでに成長していた。
 銀は知っている。この世の誰よりも強いこの死神が此処まで脆く在れるのは、彼の隣りに居るからこそだ。そして、彼女が前を向いていられるのも彼の支えがあってこそ。彼女は彼なしには在ることが出来ないのだ。
 ぐっと息を詰めて、再び銀を真っ直ぐと見つめる春樹の煌めく瞳を見て、不覚にも銀まで感極まった。

「『朝倉』は任せた。私の宝物、大事にしてね」
「任せとき」

 彼女は涙に濡れた目元を細めて微笑む。ようやく笑った。銀は彼女の笑みを生きがいにしている。泣いているところは出来ることならあまり見たくない。ずっとずっと笑っていて欲しい。そのためなら銀は道化にだってなれる。

「そやけど、そないに大事なら冬獅郎さんに婿入りしてもらえばええんとちゃうの?」
「いや、それはだめでしょ」
「俺はそれでも構わんが」
「!?」
「ボクら三人で朝倉トリオや」
「それだといよいよ息子みたいだな」
「うわあ、あかんあかん、冬獅郎さんの息子は堪忍や!」
「おい」
「冬獅郎さんは、兄さんくらいがちょうどええ」

 にまり。狐のような笑みとともに溢せば、冬獅郎は一瞬たじろいだ後、居心地が悪そうに鼻を鳴らした。しかし、案外まんざらでもなさそうだ。

「そうだ、春樹。浦原と松本と写真を撮るんじゃなかったのか」

 冬獅郎はこれまたわかりやすく話を逸したが、銀が茶化すより先に春樹が「ああ!」と静かな裏庭にはおおよそ不釣り合いな大声を上げた。どうやらまた何か再点火されてしまったようだ。

「そう、写真! みんなで撮るためにあなたを探していたのよ! みんな校庭の大きな桜の下で写真を撮ってるのに、貴方と来たらこんな薄暗い場所に……!」
「ええ、めんどくさ。桜の下なんて人集りやろ。写真ならここでええやないの。こっちだって花、咲いてはるし」
「花って、落ちかけの椿じゃない」
「椿、好きやで。椿でええやないの。なあ、冬獅郎さん」
「ああ」
「ええ……卒業式と言ったら桜の下って本で読んだのに……」
「ええからええから、喜助さんと乱菊さん呼ぼ。ボクは喜助さん探すさかい、おふたりさんは」
「銀は此処に居て」

 特に宛もなく歩き出そうとした銀を春樹がぴしゃりと呼び止める。その不思議な威圧感には覚えがあった。こういうときの春樹には逆らってはいけない、そもそも逆らえないことを銀はよく知っている。冬獅郎もまた察したように銀へと目配せを送る。

「また見失っても困るから。冬獅郎さんは乱菊を探してください。私は浦原を」
「分かった」
「銀はこの木の下から動かないこと」
「動くなって無茶言わはるなあ」

 小さくぼやく銀を視線で一蹴した春樹は冬獅郎を連れ立って足早に去って行く。隊長格ふたりが揃いも揃って慌ただしい。黄金の光が差し込む美しい裏庭は彼らが立ち去ったその瞬間、薄暗くて湿ったありふれた裏庭に戻ってしまった。あの二人が居ない世界なんて何時だってこんなものだ。一年間、この場所で褪せた日々を送っていた銀はとっくに慣れていたはずなのに、どうして今日に限ってこんなにも物寂しく感じられるのだろう。
 ふと、空気の動く気配を感じる。
 反射的に持ち上げた掌の上に椿の花が落ちてきた。銀がその下に佇む椿の木を見上げれば、今にも零れ落ちそうな満開の花々が銀を見下ろしている。ああ。彼女の香りが残っているのだと思っていたが、これは、この花々の香りだったか。この一年間、この裏庭が銀にとって落ち着く場所だった理由を今更ながらに思い知る。彼女の霊子と同じ、愛おしい香りを春になりきっていないひんやりとした空気とともに胸いっぱい吸い込む。掌に咲く薄紅色の乙女椿を見つめる銀の眼差しはただただ優しい。誰に届くことなく溢れたその声色も、また。

「幸せになり」

 それは、銀の願い。銀の生きる意味。銀は彼女の幸福のためならばどんな犠牲でも払うことが出来る。
 されど銀は知っている。彼女は銀の犠牲を望まない。そもそも、彼女の幸福を護るのは銀の役目ではないのだ。銀が彼女の幸福のために出来るただひとつのこと。それは、銀が幸福で、健やかであること。不思議なことに彼女はたったそれだけのことで喜ぶことが出来るらしい。それだけで幸福を感じられるのだ。それに気が付くまで随分と時間がかかったが、よくよく考えてみれば彼女の幸福を望む銀のそれとよく似ている。だから銀は幸福でいられるのだ。色褪せたその世界で光を見ることが出来る。
 銀は幸せを祈った。彼女の幸福を。彼女の最愛である男の幸福を。そして最後に、己の幸福を。
 その祈りを、銀は臆すことなく言葉にする。彼らもまたその言葉を真っ直ぐに受け止めてくれた。春樹は隠し事を嫌うから。銀はなんでも話す。銀は彼女に隠し事はしない。たったひとつの隠し事だけは除いて。
 ひたすらの幸福を詰め込んだような微笑みを浮かべながら、銀は椿の滑らかな花弁に弧を描いた唇を寄せて囁く。

「ボクのかわいいつばき」

 それは、銀の唯一の秘密。彼女をつばきと呼ぶその瞬間だけ、彼の瞳にはほんの少しばかりの恋情が滲む。その眼差しを知るのは彼の手元でまるで彼女のように美しく咲き誇る乙女椿だけ。それでいい。
 銀は幸福だった。彼女に出会ったその瞬間から、かつてないほどの幸福で満ち溢れていた。
 それは誰しもが思い描く幸福の形とは異なっているかもしれない。それでも彼はようやく手に入れたかけがえのない幸せを一生手放すつもりはない。
 誰かの幸福のために自らを犠牲にして生きて来た二人は、己の幸福を肯定することで幸福を与える権利までをも手に入れたのだ。それはもはや救済に近い。

 そう。彼らは、ようやく救われた。




到達点

2017/2/14




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