時軸:過去
設定:身請けが決まった日
「つばき」
窓から届いた声に、枕元に置いていた燭台を持ち上げ主を照らす。空の高くで輝く三日月より遥か手前で男は笑った。事の最中だったらどうするのだと眉を寄せるが、すべて分かっての事なのだろうと息をつく。窓枠を軽々と越えた男は辺りを一通り見回してから、おや、と、白々しくもすっとんきょうな声を上げた。
「今夜の相方さんは?」
「いない」
「ああ、お馬?」
「お馬もお客ももう来ないよ」
薄く開いた目蓋から瞳の色が覗き私を捉える。枕元に置き直した蝋燭に視線を戻すふりをして目をそらした。この男に嘘を吐くのは得意じゃない。
「身請けが決まった」
言葉は返らない。私は勝手にしゃべる。
「身籠った」
「尾黒の子だ」
「私は解放される」
「お前にではなく、宗次郎様に」
胸に衝撃が走り、世界が回る。気が付くと私は銀を見上げていた。少しは取り乱すかと思いきや、銀の表情は何時もと何ら変わりやしなくて。思い上がりに赤面する。
まるで女だ。私は、遊女だと言うのに。人を妬かせるのは仕事であって、本能ではないの。
私は一夜の間だけ彼らの女になる。私が彼らを金子としか見ていないように、彼らもまた同じなのだ。
「銀。だめだよ。もう」
「何故?」
「説明が必要なほど幼くはないだろう」
「説明なんて、いらへん」
起こした半身を再び押し倒し、銀は首元に噛みついた。甘噛みなんて生易しいものではなく、生々しい痛みに息を止めれば銀はふふ、と息を吐くように笑う。
ああ、酷く気分が悪い。
頭が融ける。身体が火照る。
禁忌に燃える?違う。そんなんじゃない。私は何時だってこの男に…。
「つばき」
目蓋をあげる。目が会うと、銀は私の腹にその骨張った掌を当てた。過剰に身体を揺らす私を笑うでもなく銀は私を一心に見つめる。私は指の先すら動かせなくて、思わず喉を上下させた。
「此が落ちたらどうなるの?」
「……其は、宗次郎様次第だ」
「あれは、意気地のなさそうな顔をしてはったね」
「………銀。私にも、傷は付くよ」
私たちは見つめ合う。笑うでも、泣くでも、怒るでもなく、ただただお互いの瞳の色で視界を染めた。
「ひどいおんな」
珍しく、彼は苦しそうに笑う。笑っているのに瞳からは涙が零れそうで、言葉を詰まらせれば、放たれたままの窓から夜風が吹き込み蝋燭の火を消した。
お互いの顔すら見えない暗闇の中、銀は行為を再開する。
「(ひどいのは、どっち)」
心の中で呟いた問い掛けに言葉は返らない。暗いのを良いことに、私は一筋なみだを流した。
必要悪の存在
(そんな必要は、欲しくない)20090902