時軸:未来
設定:結婚後




 本が好きだ。どんなものでも構わない。小説でも伝記でも随筆でも絵本でも。紙に文字が印刷されてきちんと綴じられていれば、私はそれを愛おしい本として愛でることができた。現世ではそう言ったたぐいの人間にはちゃんと名前がつけられていて、びぶりおふぃりあ、書物崇拝狂などと呼ぶらしく、あんたはきっとそれよ、と、うず高く積まれた本を前にした友人に言われたことがある。それは愛書家とは意味が異なり、書物そのものを愛することを言うそうで、すとんと腑に落ちた。たしかに私は書物崇拝狂だし、私をこんなふうにした彼女は正しく愛書家で在るのだろう。
 彼女は――緋真は、本が好きだ。他の女たちは着物や装備品、もしくは甘い食べ物なんかを好んで客にねだったものだが、愛書家で有名な緋真に対する客からの貢物の大半は書物だったし、それでも飽き足らず緋真は自分でも本を収集していた。皆、彼女の本の虫っぷりには首を傾げたものである。本は腹を満たさない。本は己を輝かせない。本は己の実力にはならない。本は学ぶために読まされるものだ。手に入れた金を費やしてまで紙切れの束を買うだなんて、と女たちは眉をひそめたが、そんな緋真に惹かれる男はたくさんいて、緋真は気づけば冬の間で一番の女となり柊の名を冠していた。
 私は彼女に一度だけ尋ねたことが在る。どうしてそんなに本が好きなのか、と。彼女は私を見つめる眼差しをほころばせ、そっと目を伏せる。象牙色の頁を白磁のような指先で愛おしげに撫ぜながら彼女はこぼすように囁いた。

「本は私を何処へでも連れて行ってくれるから」

 それを聞いて納得する。そうか。彼女は遠くへ行きたいんだ。この籠のような冬から逃げ出したくて仕方がないのだろう。だからこそ私は彼女の読み聞かせてくれる物語に惹かれてたまらないのだ。私も逃げたいと思った。逃げる場所なんて皆目検討もつかないけれど。

「この物語が私たちにもあり得た世界だと想像すると、わくわくするでしょう?」

 彼女は悲しみを抱えていた。悲しみを寂しさを胸にしまいこんで笑う彼女は物語に登場する美しきものよりもずっと美しい。彼女が優しく物語を読み上げるその声を子守唄に微睡みながら私は願った。どうか、彼女が逃げるときには私もその隣にいられますように、と。彼女がいてくれれば逃げる先が地獄でも構わなかった。何処へでもいい。彼女と何処までも逃げてみたいと思った。結局、彼女は逃げ出すようなことはしなかったし、お姫様のように攫われて行ってしまったのだけれど。お姫様の都合を差し置いて、王子様のように助け出したいと私は思ったものだが、運命も同じことを考えていたのか、彼女は私たちの手の届かない所に行ってしまった。
 彼女がいなくなってしまったあとも私は本を手放しはしなかった。零番隊当主ではなくただの死神、隊士として無為に日々を消費しながらも、読書だけは依存するように続けた。もう誰かが私のために本を読んでくれることはないけれど、それでも、彼女の愛した世界に縋るくらいのことしか私には出来なかったのだ。彼女を失って初めて、彼女の言っていたことを本当の意味で理解できたように思う。本の中の誰かの人生は私たちにもあり得た未来であり、そこには確かに彼女の面影があった。
 広い空。透き通る海。無条件の愛。引き離されない家族。変わりゆく季節と気まぐれに移りゆく天候。人を虐げずに済む世界。誰にも侵されない自由。私たちが知り得ることの出来なかったたくさんの幸福の形。本だけが私たちに未知の希望を与え、意義のない人生を手折らないための支えになってくれたのだ。緋真の残した本たちは、緋真と私の生きた証だった。

 ばさばさ。慣れ親しんだ音に目を覚ます。五番隊宿舎に住んでいたときにはよく本が雪崩を起こしていたものだ。目を開けば済まなそうな翡翠の眼差しと目が合った。抱えていた本を一冊落としたらしく、彼はちょうどそれを拾い上げるところだった。

「悪い。起こしちまった」
「……いえ、私こそ。また、読み散らかしたまま寝てましたね」

 ゆっくりと労るように身を起こし、自分の周りに散らばった本の数々を見回しながら嘆息を吐く。読み散らかしたままうたた寝をする子供のような私に、この人は何も言わず片付けてくれていたらしい。文句の一つを言うどころか起こしたことを謝るだなんて、どこまで人ができているのだろう。こんなに優しい人を私は物語の世界にだって知らない。

「それくらい構わねえよ。たまの休みだろ」
「ごめんなさい、ここのところずっと任せきりで。彼女、寝ました?」
「これで、やっとな」

 本を一冊差し出される。私の読んでいたものではない。それは絵のついた本だった。緋真が特に大事にしていた一冊で、妹によく読み聞かせていたのだと寂しそうに語っていたことをよく覚えている。彼女が懐かしむように優しく読み上げてくれるその本が私は一番好きだった。彼女の蔵書の殆どを私は受け取っているが、この本に関してはいつか会うことが出来たらルキアに譲ろうとずっと考えていた。ようやくその機会を手に入れたその日、大事そうにその本を読んだルキアはほんの少し目を赤くしながら、私に本を返した。私にはもう必要ありませんが、あなたにはまだ必要そうだから、と。緋真のように優しく微笑むルキアに私はようやく自覚した。私の読書癖は現実からの逃避だが、この収集癖は緋真への依存にほかならない。姉と同じくらいに聡明なルキアにはすべてお見通しだったようだ。私は自分のことを慕ってくれる彼女に対して姉のようで在れたらいいと思っていたのだが、これでは彼女のほうが姉のようである。

「……彼女もこの本がお気に入りだから」
「ああ、随分と助けられてる」

 一緒に本を片付けていれば、また増えたか? と彼が尋ねかけた。非難の色はない。私にとって本がどういう存在なのか、彼はこの上なく正しく理解してくれているのだろう。彼は、あまりの蔵書量に書斎の床が抜けたその日ですら文句どころか嫌味の一つも言いはしなかった。

「これでも少し、読書量は落ちているんですけどね。蔵書も減らしてますし」
「そうなのか?」

 蔵書量に関しては、まあ、手の届く範囲の話で、今でも私の本たちは零番隊の私室に保管されているのだが。この家からという意味なら間違いなく事実である。

「そう言えばうちの隊に来たときに引っ越しを嫌がっていたのは蔵書量が理由だったな」
「そ、その話を掘り返しますか……!?」
「それほど筋金入りのビブリオフィリアが一体どんな心境の変化だ?」

 茶化すような尋ね方だったが、その瞳の奥に滲んだ憂いの色を見逃しはしない。この人はいつだって、私になにか変化はないか、私がなにかを抱えて苦しんではいないかと注意深く見守ってくれているのだ。私の過去の所業が彼を未だに縛り付けている。心苦しいが、少し嬉しく思ってもいた。誰にも言えはしないけど。

「以前より忙しくなったというのも当然ありますが、多分、前ほど物語に惹かれなくなったんだと思います」

 今でも本は好きだ。本に触れれば、緋真のことを、失った人たちのことを思い出すことができる。懐かしい香りが遠い日の記憶を呼び覚ましてくれるのと同じように。その文字列を追えば読み聞かせてくれた優しい声を、物語の登場人物になぞらえて私を呼んだ切ない声を、鮮明に思い出すことができるから。それでも、以前のように頁に刻まれた誰かの人生に思いを馳せて自分を重ねるような没入感を得ることはなくなっていた。もう、逃避先にはならない。だって私はもう、誰かを羨む必要がないのだ。

「私はいま、どんな物語の主人公よりも幸せだから。あなたのおかげで」

 私はもう最高の幸福を手に入れていた。羨むまでもなく、世界中の何処へでも行ける。たくさんの人に支えられたおかげで、私は本当に世界の美しさを知ることが出来た。
 愛と感謝を込めて微笑めば、彼は眉根を寄せる。私は彼の照れた顔が大好きだった。昔は不機嫌な表情との差が解らなかったけれど。それでもずっと昔から確かに、その表情が好きだった。

「俺には負けるだろうよ」

 冗談めかして肩をすくめた彼が静かに笑う。幸福度で争えば私は絶対に誰にも負けていない自信があるが、不毛な口争いに発展する未来しか見えなかったので口に出しはしない。

「ねえ、冬獅郎さん。私にも本を読み聞かせて」
「あ?」
「この子も聞きたいって」

 まだ平らな腹をそっと撫でて見せれば、彼は大げさにため息を付き、その場にあぐらをかいた。許可である。私は子供のようにはしゃぎながらまんざらでもなさそうな彼の膝へと転がり込む。最近はすっかりあの子に奪われてばかりだけれど、この膝は、この人は間違いなく私のものだ。忘れてもらっては困る。
 私は本が好きだ。
 何より、愛おしい人に読み聞かせてもらう特別な時間が好きだった。きっと幸福の形とはこういうもののことを言うのだろう。私は本を通して与えられる誰かの愛が好きだったし、今は、そうやって誰かに愛を捧げながら生きている。
 私はきっと愛書家ではない。



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