時軸:未来
設定:裏切り




「浮気されている気がする」
「またですか、乱菊」

 貴方ほど魅力的なひとが恋人でありながら他の女に心移りする男がいるものですかね。そう、言うつもりだったのだが、ついつい先に本音が溢れてしまった。
 三時のおやつ休憩。少し渋く淹れた煎茶と桜餅をいただきながら窓の外の桜には目もくれずに恋話に花を咲かせる十番隊副隊長、松本乱菊に零番隊隊長、朝倉春樹は困ったように眉を下げる。おなじみの展開。彼女は恋人を作っても暫くするとこんなことを言い始めるのだ。

「ひどい、春樹。信じてくれないの?」
「信じていますとも。私は何が在ろうとも貴方の味方です。でも、杞憂に終わることが多いのもまた事実でしょう? どうしてそんなに疑り深いんですか、乱菊。もっと自信を持ったらいかがです。魅力的である自覚はあるのでしょう?」
「そりゃあ、私ほどゴージャスで美しい女性はそうそういないけど、性格はまぁ人を選ぶと自負しているし」
「自負していたのか」
「多少のわがままはこの美貌で補えたとしても、心変わりはどうしてもあることだと思うのよ。豪華なものばかり食べてるとたまに質素なものが食べたくなる、みたいなこともあるじゃない? だから可能性はなくもないと思うのよ」

 浮気、などと彼女は容易く言うが、要するに別れるきっかけを探しているのだ。恋多き彼女の恋愛はいつも長くは続かない。頃合いが来るとこうして何かしらの理由を見つけ出してはすぐにその恋を終わらせてしまうのだ。長い月日を生きる死神にとってそれは特段珍しい生き方ではないのだが、春樹はほんの少しばかり勿体なく思ってしまう。春樹は彼女の美しい花嫁姿を見る日をとてもとても楽しみにしているから。

「春樹は疑わないの?」
「誰をです?」
「隊長に決まってんでしょ。ちんちくりんだった最年少ちびっこ隊長時代のときに比べて背もだいぶ伸びて、春樹のお陰か分からないけど物腰も随分と柔らかいし、小生意気さも減って大人の余裕がたまらないだとかなんとか、まあ相変わらず細かくて口うるさいけどそういうところまでまあ素敵とか言われちゃって、まったく、所帯持ちのくせにアホほどモテるでしょう、あの男」
「あの男?」
「失礼、『アホほどモテるでしょう、日番谷隊長』、慎んで訂正とお詫びを云々」

 訂正するのはそこだけでいいのか甚だ疑問ではあるが確かに、彼の人気は絶大である。春樹が十番隊に入隊した頃からその人気は凄まじく、女性死神協会の三大資金源と謳われるほどだったが、今はもうその比ではない。強く、美しく、優しいとなれば大抵の人間は魅了される。それは致し方のないことだ。それを禁じるなど、花に咲き誇るなと言うようなものである。

「なんであんたがドヤ顔してるのよ、春樹」
「おっと、失礼しました。つい」
「不安じゃないの? そんなにおモテになられる日番谷隊長様が浮気しないかとか、疑わない?」
「疑いませんね」
「即答。自分に自信があるからそんな風に信じられるのかしら?」
「私がそう言うたちの人間ではないとわかってるでしょう?」
「わかってる。わかってるから気になるのよ」

 そろそろ休憩を切り上げる時間である。だから、こうやって話を伸ばしているのだろうなあ。湯呑みに残った茶を飲み干せばすぐさまおかわりが注がれる。仕事、したくないのだろう。新年度が始まったばかりだというのにどうしてこんなにも仕事が山積みなのだろう、この隊は。いや、理由も原因も百年前から知っているのだけれど。いくら零番隊とて年度始めはやることが多いと言うのに。口直しのお煎餅を割りながら春樹は小さなため息と共に語り始める。

「かつての私は自分のことを信じていなかったので、当然誰かを信じることも出来ませんでした。常に誰かを疑いながら生きていたと言っても過言ではないほどです」
「それって零番隊が復活する前の話?」
「ええ、そうですね。もっと正確に言えば、あなた方に会うまでの話です」
「私たちに?」

 目を瞑り、あの日のことを思い出す。十番隊に入隊してからまだ二十四時間も経っていない、二日目の昼のこと。今居るこの部屋で起きた衝撃。髪から伝う水の冷たさを昨日のことのように覚えている。

「『部下を疑ってどうする』」
「!」
「……覚えていますか? 私が美杞に花瓶の水を掛けられた日のことを」
「忘れるわけがない」

 まあ、あんたはあの時そうだとは言わなかったけどね、と乱菊は少し膨れたように呟いた。あの日、春樹は二人から示された「頼れ」のサインを思い切り無視したのだから、まぁ、当然である。あの頃の所業に関しては未だに怒られることも多く頭が上がらない。

「入隊して二日目のことですよ。私の事なんかなにも知らないはずのお二人が、この隊の最高権力者であるあなた方が、私を信じると言う。部下だから、と言うだけの理由で。昨日異動してきたばかりの何処の馬の骨とも知れない私のことをかばい立てる。どうかしていると思いましたよ。端的にって在りえません」
「そうかしら?」
「そうです。その時点で私は数え切れない人に疑われていましたからね。誰も私のことを信じるどころかまともに話を聞こうとすらしない。同僚も上司も部下も。でもそれは仕方ないことです。私は味方を作る努力を怠っていた、いえ、放棄していたのですから。それなのに、あなたたちと来たら、それまでの私の日々を否定するかのようにあんな言葉をかけて。怖いくらいですよ、あんなの」

 乱菊の翡翠色の瞳が透き通る。春樹は彼女のこの瞳が好きだった。何もかもを見通す聡明な瞳がわらべのように幼く透き通る、その瞬間が。彼女はもう、春樹の言わんとすることを理解している。

「裏があったほうがまだよかった。それでもあなた方の瞳に嘘は一切なくて。本当に恐ろしかった。だから私はあのとき、私が誰よりも信じていない私のことを信じた二人のことを信じたいと思いました。私はお二人のことを疑いはしません。絶対に、何があっても。私はあの日のあの言葉を一生忘れません」

 乱菊は美しい瞳を細めて綻ぶように微笑む。花が咲きこぼれるような美しさに目眩を覚えた。彼女の美しさはどんな花にも勝る。満開の桜も彼女の前では引き立て役にしかならないのだから。

「私もあんたのこと愛してるわよ、春樹」
「話の流れがおかしいですけど、まぁ、そういうことです。私も愛していますよ、乱菊」
「ふふ。やだぁ、私と浮気する?」
「しません。ていうか、あんな得体の知れない部下のことも信じたんですから恋人のことも信じておやりなさいよ」
「イケズ。でもそこまで言われちゃあ隊長も春樹のこと疑えないわね」
「疑うはずないじゃないですか? そもそも隊長のように疑う理由が私にはありません」
「そんなことないと思うな〜。だってほら、去年の夏、女性死神協会のさあ」
「松本」
「あらやだ、いたんですか、隊長」
「ずっといただろうが」

 おやつ休憩中も席から離れず、給油のように菓子と茶を掻き込みながら仕事に追われていた日番谷が苛立たしげに声を荒げた。今日も書類の塔が大量に机から生えている。どれが処理分でどれが未処理分なのかあまり考えたくない。
 気づきませんでしたあ、と今まで会話にも時々参加していたと言うのに堂々としらばっくれる乱菊は日番谷の制止など全く気にもとめずにその軽い口をするすると滑らせる。

「春樹の水着グラビアで巻頭飾るって話をしたらね」
「は? 聞いてませんが? なにそのトチ狂った発案!? こんな年増を掴まえて、正気ですか!?」
「たしかにあんた最近、言動が若干年寄りくさいと言うか説教臭くなってきたけど見た目は変わってないんだから不穏な発言は控えなさいね?」
「はい」

 彼女こそ、その美貌は熟成はすれど衰えなどこれっぽっちも見せないくせに、最近やたらとこの手の話題に敏感で、繊細で困ってしまう。目が本気なのだ。近頃はえいじんぐ化粧品とやらを買い集めているがあれは開発に浦原が関わっているらしいからあまり期待はしないほうが良いと思うのだが、やはりこの圧にはなんとも逆らい難いものがあるので春樹は今日も口をつぐみ、誤魔化すように煎餅を咀嚼する。

「知らないのも当然よ。隊長が企画を握りつぶしたんだもの」
「松本。てめえ、口止め料を返す手筈は整ってるんだろうな」
「えっ、本当のことなんですか? え? 何故?」
「そりゃー気が気じゃないでしょうよ。あんたの美しい生肌を紙面越しとは言えどこの馬の骨ともわからん死神たちに晒すなんて! 職業柄、会う相手が限られてるあんたを大々的にお披露目して隊員たちのアイドルにでもなってみなさい。スキャンダル! スキャンダルよ!! 夢見る少女エスケープよ!!」
「なにを興奮してるの?」

 大丈夫ですか、このひと、と同意を求めるように日番谷の方へと春樹が振り返れば分かりやすく目をそらされた。

「違う」

 追求するより先に返ってくる否定の言葉。よかった。あんな露骨な態度は少し傷ついてしまう。疑うわけではないけれど、その真っ直ぐな瞳が好きでたまらないのだ。逃げるような真似は出来ればよしてほしい。夢見が悪くなってしまいそう。春樹が魘されて困るのは隣で眠る貴方なのですよ。

「お前を疑ってるわけじゃないが、その紙面を見た連中のことまで信じられるほど俺はお人好しじゃねえ」
「はいはい、ごちそうさまでーす」
「ああ。まあ、江住みたいな物好きの前例もありますしね」
「春樹、あんたそういうところよ」
「何が?」
「もういいからさっさと仕事しろ。いつまで休憩してんだ」

 へーい、とやる気のない返事をこぼしながら乱菊は気だるげに片付けを始める。ようやく仕事を再開してくれるらしい。春樹とて毎日残務整理のために十番隊に来るわけにもいかないのだ。長く続く平和のせいで大した仕事もないし、昔馴染みの隊員が間違って朝倉三席などと素で呼んで来ることもしばしばなのだが、これでも零番隊の隊長なのである。いまや雑用請け負い隊などと揶揄されることすらある零番隊隊長はいそいそと卓上の片付けを始めた。

「たいちょー、桜餅ひとつ残ってますよー」
「もう食った。結構だ」
「えぇー。私はさすがにカロリーオーバー。春樹食べたら?」
「私もお腹一杯です」
「ほな、僕がもらお」

 窓の外から陶器のような白い腕がひょいと伸びてくる。ぎょっとして春樹が振り返れば狐のような笑みがこちらを見上げていた。

「銀!」
「十番隊さんはええなあ。やつどきにええもん食べられはって」
「ちょうどいいときに来たわね、銀。お茶淹れるから入んなさい」
「ええの? おおきに、乱菊」

 休憩時間延長の兆しを見つけた乱菊は早速お茶の用意を始める。近所の子供が遊びに来た日曜の昼下りのようなまったりとした空気が流れるが、違う、そんな場合ではない。今は平日の就業時間だ。春の日差しが暖かくて、お腹が一杯で身体もほっこりと温かくて、春の匂いに包まれたその時間は麻薬のように甘美だけれど、それに惑わされるわけにはいかないのだ。芽生えたのは零番隊隊長としての意識と言うよりは保護者としての意識に近い。

「銀、こんなところで何してるの」
「おお、こわ。そんな顔せんでもさぼっとらへんよ。書類配り中や」
「三席がわざわざ書類配り?」
「お前がそれを言うのか」

 茶化すような声色に春樹ははっと肩を震わせる。確かに、春樹は三席の頃、積極的に書類配りなどの雑用を請け負っていたし、もっと言えば隊長である今ですら他隊のためにそのような雑用をやっている、やっているのだが。

「今言わなくても良いじゃないですか!」
「すまんすまん」
「味方してくれてもいいのに……!」
「母親面しているお前見てるとついな」
「つい!?」
「はいはい、ごちそうさん。乱菊、こんなのいつも側で聞いてはって胸焼けせえへんの?」
「するけどまあ慣れね。大体、四半世紀くらいで慣れるわよ」

 好き勝手に言いながら道明寺の桜餅にかぶりつく銀と再び自分の分までお茶をいれておやつの時間を再開する乱菊を春樹は強く睨めつけた。ふたりはさっと目をそらして、そう言えばと話をさらりと変える。息が合うからたちが悪いのだ、このふたりは。

「そうそう、さっきあいつおったで。ほら、六番隊の、乱菊のええ人」
「ええ?」
「隊員詰所の方で誰か探してはる感じやったな」
「詰所?」

 なんてことだ。噂をすればとはまさにこのことである。わざわざ会いに来たのだろうか。平日の業務時間内だが。銀と言い我々と言い、まともに働いている死神は居ないのだろうか。しかし今はそんなことはどうでもいい。なんだかぱっとしない男だと思っていたがいいタイミングで現れるではないか。

「乱菊、ほら、やはりあなたの勘違いでは?」

 春樹は喜んで乱菊を見るが、乱菊は春樹の声に気付かなかったかのように、どこか神妙な顔で銀を見つめていた。いつも口元に浮かべた完璧な微笑みは鳴りを潜めている。それはどこか、納得したような表情だった。

「乱菊?」
「ん? ああ。そうねえ。うん。良い頃合いだわ」
「頃合い?」

 首を傾げる春樹に乱菊は微笑みかける。春樹はその微笑みを知っていた。今まで幾度となく見てきていた。咲き誇る花のような強かさ。戦いに赴く前の、武装のような微笑みだ。

「隊長ぉ、ちょっと顔出して来ても構わないです?」
「あまり長引かせるなよ」
「ご忠告どうもでーす」

 就業時間中に業務外の離席許可を求めた乱菊に、日番谷は意外にも快く了承した。じゃ、ちょっと行ってくるわ、とひらり手を振って執務室を後にする乱菊の後ろ姿に、不穏なものを感じながら春樹は黙って彼女を見送る。何故だろう。陰りを見せた恋心に光が差したんだと思ったのに、彼女はちっとも心が弾んでいる様子ではなかった。ああ、心の機微には未だ疎い。

「なんや、乱菊も気付いてはったんか」
「気づく?」
「あのおとこ、浮気しとるやろ」
「は?」
「お前もそう思うか、銀」
「え?」

 待って欲しい。話の展開についていけない。何故、そうなる。そしてどうして彼まで同意した?

「え、どうして? もしかしてさっきの話聞いてたの?」
「なんの話か知らんけど、言わいでもわかるわ。気付いてへんの春樹だけとちやう?」
「だろうな」
「ちょ、ちょ、冬獅郎さんまでなんで」

 少し考えればわかる、と二人は推理小説の探偵のように朗々と話し始める。案外、馬が合うのだ、この二人。

「そも、詰所をうろちょろする理由があらしまへん」
「松本はいつもこの執務室で仕事をする。松本を探しているんだったら此処にまっすぐ向かってくるのが筋だろ」
「僕がまっすぐ此処に来たんと同じよに、な。せやけどあのちょぼやき、ふらふらと若い隊員に話し掛けよって、此処をどこやと思ってはるんやろか。窓の外にいる僕にもまったく気づかへんし」
「そもそもあの男、誠実さが足らねえんだよ。まあ誠実さで言ったら松本も大概だが」
「いけすかん」
「それだ」
「いや、乱菊なんてたいていサボってて執務室なんかにいないじゃないですか」

 意気投合する二人に春樹は水を指すような異議を唱える。

「詰所でだべってることも少なくないし、普通なら銀みたいに窓からではなく入口から入って、途中で詰所を覗いてからここに来るのでは? 少なくとも私はいつもそうしています」
「あー」
「うーん」
「ふたりとも、ただ彼が気に食わないだけでしょう」

 春樹の指摘にふたりは揃って言葉を濁す。しかし二人は納得したような顔はしていなかった。意味ありげに視線を合わせ、困ったように笑うそのさまはなんとも馬鹿にされているようで感じが悪い。

「春樹は見る目があらへんからなぁ」
「ああ。こいつはひとの可能性を信じすぎるきらいがある」
「それをあなたが言いますか!」
「育て方間違ったんとちやいます?」
「かもわからん」

 朝倉春樹の人格形成に大いなる影響を与えたふたりの軽口に春樹は思い切り顔をしかめる。ああ、ああ、言ってくれるではないか。それならばその喧嘩、買って差し上げましょう。

「じゃあ賭けましょうか? 乱菊が仲直りして戻ってくるか、別れて戻ってくるか」
「へえ。何を賭ける?」
「なんでも」
「太っ腹やなぁ春樹! さあ、なにしてもらお」
「あまり無茶は言うなよ、銀」
「まったく憎たらしいですね……! 覚えていてくださいよ、絶対に負けませんから」

 取らぬ狸の皮算用とばかりに指を折りながら願い事を考える銀を春樹は敵愾心たっぷりに睨み付ける。数分後、あっけらかんとした顔で戻ってきた乱菊は「別れてきたわよお」とどこか振りきれたような、機嫌が良さそうな笑みを浮かべながらそう宣った。その瞬間のふたりの勝ち誇った顔と来たら。
 認めよう。完全敗北である。見る目がない。そんなことは何百年も前から知っていた。
 項垂れ、人間不振になりそうだと春樹が呟けば、なれへんくせにと銀がからり笑う。
 そして、いつかの彼の笑みを思い出した。やはり、見る目がないこともないのでは、と思う。まぁ、すっかり騙されたりもしたのだけれど。
 その晩、賭けの支払いとして、春樹は花見の幹事を命ぜられた。どれほど大々的な大宴会を開かされるのだろうと戦々恐々したのもつかの間、求められたそれは花見と言うほどのものでもなく日番谷邸の庭に咲く桜の木を四人で眺めながら酒を嗜む、ささやかな夜桜会だった。
 春樹は月明かりを浴びて光る桜の花弁が散る様を眺めながらひっそりと思う。このひとたちさえ私を裏切らずにいてくれたのなら、私はこの先どんな不幸にも立ち向かえるだろう、と。そして、彼らが裏切らないことを知っている春樹は永遠の幸福を保証されているのだ。ああ、なんて恵まれているのだろう。永く生きられることを喜ぶのは何千年と生きて来て、これが生まれてはじめての事だった。
 嘘みたいにしあわせだなぁ。そう呟けば三人が笑ってくれたので、少し泣きそうになりながら春樹は彼らと共に微笑んだ。



2018.4.14



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