そこからの記憶は酷く朧げだ。
覚えてるのは凄い勢いで白夜の頬を打った銀八と、一度だけ顔を上げた時に知った自分に向けられたなんともいえない侮蔑というよりは哀れみにも似た銀八の表情だった。
『お前が先生のこと好きっていうのは嬉しいけどな』
正直ないわと、それは正常な反応だろう。予想通りであったからその結果に然程の落胆は感じていなかった。しかも、大体において彼の実の弟とセックスをしながら弟ではなく、彼が模した先生が好きとか言っている姿は正気の沙汰ではなければ、どうしてそれを受け入れるこなど出来る筈がない。
昨日が金曜日で、週末に突入した為に学校に行かずに済んだのは幸いだった。銀八の対応を如何よりも、どんな顔をしてあの教室の自分の席にすわればいいのかと身悶えする程だった。
それでも銀八は土方に酷い言葉を吐くことはなかった。だから自分が想像していた露見した時の最悪の状況よりは全然マシで、それは銀八の対応が所謂大人の対応で教師然としたものだったからかもしれない。
土方にしてみればそんな上辺の落ち着いた対応などよりも、本心を曝け出し気色悪いとでも罵ってくれた方がよかったのだ。尤もそんなことをしてしまえば、あと二ヶ月程の担任と生徒としての学校生活が破綻するとでも思ったのだろうか。
もしくはあの行為も、ただの子供じみた愚かなものだと捉えているのかもしれない。銀八にしてみれば自分も白夜もただの子供でしかなく、たとえ恋情を抱いているのを把握したところで、鼻で笑われてもおかしくはなかった。
だから罵倒するというよりも、何を悪戯を二人でしていたのかとその程度のものであったのではないだろうか、それが一番想像に難くなかった。
ふうと、うつ伏せで寝ていたベッドの上で身じろぎをすると、昨日帰って来てから片時も離していない携帯を手に取り、しかし目当ての着信がないことに落胆しシーツに重い息を吐く。
(大丈夫なのか)
あの後、土方があの家を逃げるように辞した後に銀八は白夜にどんなことを言ったのだろう。
平手打ちをくらい紅く腫れ上がっている頬を押さえながら、目だけで大丈夫だと言わんばかりに頷いてみせた白夜の姿が銀八より何よりも今、自分の心を支配し、消えなかった。
だからとにかく家に帰るなり、まず大丈夫なのかとメールをした。ホントは電話をしたかったのだが、現在のあの家の状況が全く掴めないままの状態でかけるのは危険だと思い止めたのだ。
そのまま洗面所に向かい、手を洗うと鏡に映り込んだ自分の顔は泣いた所為で瞼が腫れ上がり酷いと呆れ、丁度夕方から週末の休みを使って両親が不在になってたのは幸いだった。
用意してあった夕飯も申し訳ないが食べる気にはなれず、行為で濡れたまま服を身につけてしまったこともあって風呂にも入りたかったのだが、それすらもおっくうで朝でいいやと部屋に籠ってとにかく白夜からの連絡を待った。
しかし結局その夜、白夜からのメールも電話もなく自分もまた様々なことが起こり過ぎて、思ったよりも身体が疲弊していたらしい。
気付けば携帯を握りしめたまま朝を迎え、慌てて起き上がり見たがやはり着信履歴にも受信箱にも白夜の名前は表示されておらず、不安は更に募る。
とりあえず昨日入り損ねた風呂に入り、テーブルの上に置かれたままの夕食を朝食と昼食の兼用で食べ、夕飯はこれも冷蔵庫の中にきっちりと用意されてあったものを食べてすませた。その間も携帯は常に手元に置いてあるがそれがあの二人で同じ着メロであったそのメロディーを奏でることは未だない。
「どうなっちゃってんだよ……」
その日はどこにも出掛けず、部屋の片付けやここのところサボり気味だった自分の勉強をして一日が暮れた。もしかしたら白夜がひょっこり家に来るかもと思い、外出してすれ違ったらと恐れ出来なかったのだ。
一人静かに机に向かって勉強など、考えてみればついぞ久しぶりでいつもの癖で顔を上げる時に、無意識に対面に座る白夜の姿を確かめてしまう自分に莫迦だなと呆れた。
勿論そこに誰も座ってなどいる訳がない。勉強を見てやっている時の、いつもとは違う真剣な眼差しで自分が書く数式を追う白夜の顔や、判ったと触れると酷く柔らかいあの銀髪を振って喜ぶ姿が、繰り返し浮かんでは消えた。
当然もうあの家で彼の勉強をみることはないだろう。子供のやった単なる悪ふざけと片付けて、また頼んでくるだろうか。そんなことはあり得ないと、自分が銀八の身に身体を置いて土方は首を振った。
大体、銀八がどう捉えているのかが判らない。
自分への対応がやや優し過ぎるのが、その分実の弟に向けられてはいないか、それがとにかく心配だった。自分の弟がそそのかしたとでも思って、彼を容赦なく責めてやしないかとか、仲がよくないとは言っていたが誰よりも弟を愛しいと思う銀八の白夜に向ける愛情は疑ってもいなかったので、それが壊れてやしないかと怖れた。
実際、最初のきっかけが強姦じみていたものであり、その後も取引と持ちかけられて、重ねていた身体は確かに自分が望んだものではなかったかもしれない。しかしはね除けようと思えば出来た筈で、大体白夜が銀八にあの自分の愚かしい行為のことを言ったところで、それを間に受けたかと考えればそこは甚だ疑問だ。
それなのになら何故と、ベッドの上でまた土方は身じろぎをする。ふうと吐いた息の熱さに、こんな時にと鳴らない携帯をまた手にして白夜が今、一体何を考えているのだろうと思う。
朝にもう一度メールを送ってみたのだが、やはり返信はない。そもそもメールを読んだのだろうかと、読んで送って来ないのかそれとも読んですらいないのか、一方的に送れる手軽さはあるがこういう時にメールの不自由さを思い知らされた。
それは恋愛にも似ているのかと、自分の一方的な想いを相手がうけとめてくれてるのかどうかは、上辺だけでは判らない。
(あいつは俺のことどう思っていたんだろう)
あれだけ身体を重ねても、その部分について考えたことがなかった自分に土方は慌てた。自分が銀八ばかりを見過ぎていた所為もあるし、取引を前提としていたあれを恋慕に結びつけることなど思いもしなかったのだ。
もしそうなら。
不意に浮かんで来た考えに、土方は血の気がざっと引くのを感じた。
(俺……莫迦なんじゃねえの?)
穿った考えだとは思う。でももし少しでも、ほんの少しでも自分のことを白夜が好いていたのだとしたら、どれだけ残酷なことをしてしまったのかと、今になって気付いた自分を莫迦野郎だと罵った。
特に昨日など最悪だ。
彼がそうしろと言ったのだが、彼に抱かれながら銀八の名を呼び続けるその声をどんな思いで受け止めていたのか。三つも年下の幼い彼に翻弄されているとそういう立ち位置で、その実、甘えていたのは土方自身だったのだと、白夜に対しての自分の仕打ちの酷さに今直ぐそれをも詫びたいのだが、叶わない。
思い切ってメールではなく電話を鳴らしてみたが、圏外か電源が切れているかのアナウンスが流れ、メッセージに土方だとだけ告げて切った。
時計を見遣ればもう日付の変わる頃で、今日はこのまま終わってしまうのかと焦燥感がぴりりと皮膚を灼く感覚に苛まれる。このままもう二度と逢えないのでないかと、いや彼の家にさえ行けばとも思ったが、あと二ヶ月、まだ銀八がいる家になど無理な相談だ。
これで明日、また一日何もなかったらと考えて、恐ろしさにぶるりと背筋が震える。それならばもういっそ二度と近寄らないから、最後にだけ一度だけ白夜本人にあって話がしたいと、そのくらいは許してくれないかと願う。
だから明日連絡がなければ懇願するまでと、土方がぐっと携帯を握りしめた途端、鳴り響いたあのメロディーにベッドの上で慌てて起き上がると、噛み付かんばかりにその電話に出た。
十四郎?と自分以外の誰が出るというのだろう。うん、と応えればあのさといつもと変わらぬ口調で白夜が告げて来る。
『今、家の外にいるんだけど』
「そういえば、旅行に行くって言ってたなあ」
よかったと土方がさっきまで寝ていたベッドに寝転がって、白夜は大きく伸びをした。その仕草がまるで猫のようだと思いながら、飲むかとインスタントでごめんと言いながらマグカップにいれたココアを手渡す。
「やった。ちょっと寒かったんだよねえ」
嬉しいと飛び起きて両手で受け取ると早速口を付ける。ココアなんて甘ったるい飲み物は白夜が時々遊びに来るようになってから買ったものだ。土方は自分にはやや濃いめのコーヒーを入れたマグカップを机の上に置くと、白夜の横に自分も座った。
「白夜」
「ん?何だ?」
至福だと目元を綻ばせながら美味しそうにココアを飲んでいる白夜の頬は片方だけが、未だやや腫れているように見える。
ついと伸ばした手をその頬に宛てれば、ついでに洗いものを軽くして来た所為で随分と手先が冷えていたらしい。冷えよと首を竦めた白夜にごめんと慌てて手を離したが、直ぐにまたその身体を今度は抱きしめた。
「ごめんな白夜。本当にごめん」
お前の気持ちを無視していたとまだ寒いのか、フード部分にふわふわのファーがついた黒いモッズコートを着たままの肩口に顔を埋めれば、ふわりと彼から冬のつんと鼻孔の奥を刺激する匂いがする。
「何言ってんだよ。謝らなきゃいけないのは俺の方だって」
あんな形で知れるなんてと、本当に酷いことをしたと白夜もまた自分を強く抱きしめ返して来た。
明かす気はなかったところを、しかも一番最悪な状況で知らしめてしまったと彼は何よりもそこを詫びた。大切な思いを踏みにじってしまったと、本当にごめんと何度も耳元で言う。
「ないわ、とか言いやがってあの莫迦兄貴」
お前のその言い方の方がないわと、自分のされたことよりも土方の感情を何よりも気遣うのだから、またごめんと零し一度手の力を緩めた。
「いいんだ白夜、そんなことは」
そんなことはと片付けた。それよりも知りたかったのは白夜自身がどういった扱いを受けているかということであり、そこに尽きた。そしてもうひとつ。
「大丈夫なのか。あの後どうなったのか気になって」
「ん?ああ全然問題ない」
白夜の顔の近くで甘いココアの匂いがふわりと香る。ぺろりと唇についているそれを舐めとる舌先に、反応する感情と身体を今日は素直に受け止めた。
触れたいと顔を土方の方から近づけようとしたが、気付いていないのか白夜はそのまま話を続ける。
「あの後、兄貴は部屋に籠っちゃったからさ」
よくするんだと白夜は笑った。自分の予想外のことが起きると、部屋に籠ってしまうんだと、それは昔からそうであるらしく慣れているといった印象を受けた。
ご飯もちゃんと用意してくれたと、まあそこでも何も言われなかったと、でももともとこんな感じだよとだから気にしないでと補足する。
「でもホントにごめん。俺が変なこと言わなきゃよかったよな」
いやそもそもその前かと、言われなんのことか判らないと把握出来ずにいれば表情で知れたのだろう。俺とのセックスと告げた唇の淫らさに、腰が揺れたが気付かれてはいけないとぐっと土方は堪えた。
自分が銀八のこと好きだということを判ってるのに、あんなこといっぱいしてホントにごめん、とひょこりと白夜が頭を下げる。だが、直ぐにまた顔を上げると、ホントにごめんねと何度詫びをいれるのかと、その唇を封じてしまいたくなる。
「でも、兄貴のこと好きなお前がセックスの時にじっと我慢して耐えてるのが、すんごく可愛くて」
それを滅茶苦茶にして俺がイかせるっていうのが、ホントやめられなくてと、およそ中学生が言う台詞ではないと土方が目を丸くしていると、ごめんとまた白夜は詫びた。変態じみているよなと誰とはなしに呟いた言葉を、心の中でいや違うと否定する。
それは多分独占欲だ。しかし、それが兄が持ち得ようとするものをその前に掠め取る弟の本能的な行動なのかと、兄弟がいない自分に判る筈もないのだが。
それに酷いのは自分の方で、いくらそこに恋情めいたものがなくただの欲望の捌け口だと思い込んでいたのをいいことに、白夜に抱かれながら兄である銀八のことを重ねて思っていた自分の方が余程最低だ。
「白夜」
名を呼んで何?と土方の方を振り返るのを待って唇を重ねた。舌先をちょっとだけ出してぺろりと口の端に付いているココアを舐めとる。やはり舌に甘いが、これも悪くないとは思う。
「ちょ、珍しい。どうしたの?」
そういえば昨日もそうだったと、白夜もまたちゅっと音を立てて重ねて来ると土方の唇を舐めた。なんだか動物じみてることをしていると思ったのは自分だけだろうか。
「なあ、お前さ俺のこと好きなの?」
思い切ってそう訊いた。いやまてどう思ってるのと訊くつもりがと、慌て土方の方が恥ずかしくなった。これではどうも強請っているみたいだ。
「うーん。どうなんだろうな」
暫くの間を置き、しかし判らないと白夜は舌を出してみせる。判んないってなんだよと突っ込めば、いやだってと困ったように笑った。
「十四郎のことは、一緒にいると楽しいし話も合うし、あと可愛いし、揶揄いたくもなるし、だからちょっとチューしたくもなるし、セックスもしたい」
「ちょ……その流れって、おい」
突然ぶっ飛んだぞと言えば、だってなあとまた重ねて来る。
「だから、十四郎が兄貴のこと好きとか思ってるかと考えると、悔しくてしかたがなかったりもした」
だからごめんねと、肩口にぽてりと頭が乗せられる。ホントにごめんと繰り返して、白夜はその言葉を吐露した。
「昨日、目の前で兄貴に振られた十四郎見て、嬉しいとか思っちゃったんだ」
でもこれが好きという気持ちなのかは判らないと、偽ったり誤摩化したりしない素直な気持ちを言ってくれたのが有り難かった。
だって自分もそうだ。お互い、御し得ない感情に振り回され、未だ消化しきれていない。
「ごめんな、土方は兄貴のこと好きなのにふられて喜んでたなんて」
だからメールに返事も電話も出来なかったのだと部屋着代わりにしているジャージの肩に染みる告白を聞いて、なんだと土方は安堵の溜め息を吐いた。
なあ、白夜と自分も彼の肩に顔を埋めるとフードのファーが頬に触れて、それが彼の髪の毛と同じような柔らかさで心地よいと目を閉じた。
「俺さ、先生にふられたんだけどそれあんまりショックじゃなくて」
そもそも昨日、彼の家にバイトでもない日に行ったのは銀八が学校を辞めるというその話を聞いたからだった。それが今の今まですっかり抜け落ちていて、時間が経って衝撃が薄れた所為もあるのかもしれないが、仕方がないというか今心に感じるとすれば寂しいなという気持ちが一番近しい気がした。
だって自分はそれほどキャパシティが広くはない。同時に二つなんて無理だと、だから今心のうちにあるのはただひとつのことだけだった。
「あれから、ずっとお前のことしか考えていない」
好きかどうかは判らない。
銀八に対して抱いていた恋情とはまた違う。だが、やはり自分も白夜が言ったのと同じように、彼といると楽しいし、年下の癖に大人ぶっているところも可愛いし、あの髪を撫で回したいし、さっき味わった見た目を裏切らず柔らかいその唇にキスしたいとは思う。無論その先もだ。
これは好きということなのか、やはり判らない。恋情というものを意識したのが銀八に対してが初めてで、他に知り得ないのだから自分で判断が出来ないのだ。
ただ白夜がこんな夜中に自分に逢いに来てくれて、今腕の中にいるのが嬉しくて、ずっとこうしていたいと思うのも確かであった。
「なあ、お前家に帰らないと駄目?」
ついと掴んでいる腕に縋るような形で訊けば、とんでもない口説き文句だと白夜は照れた笑みを浮かべた。それは年相応の幼い笑顔で、愛おしいと土方は笑うと、曖昧な気持ちごと白夜をしっかりと抱きしめたのだ。
その晩は親がいないのをいいことに近所迷惑にならない程度の大音量であのバンドの曲をかけたり、PVを観たりして過ごした。その中には白夜が観たこともないのが混じっていたらしく、ちょっとこれ何回か繰り返し観ていい?と真剣に見入る彼の横顔を眺めたりしているうちに気づけば寝てしまったらしい。
ふっと目が覚めると白夜はまだ起きて相変わらず繰り返し見ていたようで、土方が起きたのに気付くといい加減俺も眠いやと欠伸をしながら滲んだ目元で笑った。
見ればもう明け方近くて、その所為で外の気温が下がって来たらしくぶるりと寒い。ホットカーペットの上はほかほかと温かいが、布団に入ってしまった方がちゃんと寝れるだろう。
「って、どうしようか……」
生憎ベッドは一つしかないのは兄弟がいないのだから当たり前で、客用の布団がどこにしまってあるのかも判らない。じゃあ自分が床で寝るわと言えば、まあ別に一緒にくっついて寝ればいいんじゃね?と何を今更そんなことを気にしているのかと呆れたようだった。
「面白いな、十四郎は」
言われてみればその通りで、まあ寒いしと、どうしても言い訳が欲しくてベッドに入ると、ほらと傍を開けて壁に背を向ければ笑った気配が背中でした。続いてお邪魔しますと慇懃無礼な口調で滑り込んできた白夜に何それと土方も笑った。
その後の言葉を暫く待ったが、もう眠いねとぽつりと呟いた白夜の声を背中に聞いてそのまま何をするわけでもなく、二人で寄り添って寝た。キスのひとつもしなかったが、傍らにいるそれだけで充足し幸せな気分だった。
次の日起きたのはすっかりお天道さまが真上に上がった頃で、丁度白夜もほぼ同時に目が覚めたらしい。
一度起きたんだけどとあったかくてまた寝たわと布団に深く潜り込んでいたのか、ただでさえ天パで縺れがちな彼の髪は酷いことになっている。おかしくも可愛くて笑いながら梳いてやれば気持ちいいなと、目を閉じるからなんだかグルーミングしてるみてえだと言うと酷いなと尖った唇を近づけて眉を顰めてみせるからつい、重ねた。
「昨日から、お前どうしたの?」
「え、悪い。嫌ならやめる」
「莫迦。誰が嫌って言ったよ」
焦って返してきた白夜にもしかして十四郎はキスするの好きだろうと言われ、確かに図星でもあったからうん、まあなと言えば俺もだと重ねてきた。
軽く重ねているのを繰り返すうち少しずつ深くなり、一度だけ彼とセックスをした。こんな真昼間からと、なんだか悪いことをしているという罪悪感とこんな明るい日差しが入ってる部屋でという羞恥がそう言わせたのだが、いつやろうと同じだろと言いながら白夜が身体の中に入ってくるのを感じれば、後はもうどうでもよくなってしまった。
気持ちいい?と最中に訊いて来た白夜に声を出すと甘くなってしまいそうで、代わりに何度も頷いてみせた。多分そんなことを訊いて来たのは初めてだったかもしれない。
今までのお互いの欲望をまるでぶつけるようなそれではなく、とても穏やかに身体を重ねるやり方は、刺激よりも共にいるのを確かめるようで、ここ数ヶ月ずっと波立っていた心がすうっと落ち着いていくようだった。こんな日が来るとは思ってもみなかったし、それをこの自分を翻弄し続けた白夜によって与えられるとは想像できただろうか。
最後に達した時に目元から自然零れた涙は、今までのように悲しみでも苦しみがそうさせたものでもなかった。だが、泣いてることを知られたくなくて、押し付けた枕にそれを染み込ませ隠した。
その後、風呂に二人で入りちょっと狭めの湯船に二人で身を寄せ合って浸かっていれば白夜の腹がぐうと鳴った。
そういえば朝ご飯を完全に食い逃してるのだから当然至極の反応で、風呂から出たら何か食いに行くかと言えばあのオムライスを食べたいと白夜が言う。土方もすっかり空腹でもあったし外に出るのも億劫だったので作ってやることにした。
風呂上がりに着替えがないと、土方のパーカーとジーンズを貸してやればパーカーの方はやや大きめで袖口に手の先まで隠れる程だったが、ジーンズの方は然程の余りがない。
それに気付いてしまった土方に、悪いねとしかし笑みを浮かべ得意げな顔をしてみせるのだからまた憎たらしいのだが、煩せえと言いながら件のオムライスを手早く作って出してやれば、これこれと喜んで食べるのを見ているだけで幸せだと思った。
夕方になっていい加減帰らないとヤバイという白夜を勿論引き止める訳にはいかず、じゃあと玄関先で見送った。彼もまた帰り難いのか、そこで暫く、たわいもない話を交わしていたのは、またと彼とここで別れてしまえば、もうあの家には行けない以上、次に逢えるのは一体いつなのだろうとお互いに思っていたのだと思う。
だから土方は、今度はウチでと俯いたままの白夜に行った。明日からはウチで今まで通りに勉強見てやるよと、上がり框の分いつもより高い位置を見上げている驚いた白夜の顔に気づけば、この提案を先走ったかと思ったが今更引っ込める訳にもいかなかった。
だめかな、とその語尾にやや自信なさげにくっつければダメな訳がないと、首元に白夜が絡んできてあのふわふわの髪の毛に撫でられているような気分になった。
じゃあ、マジで早速明日からという白夜にいいよと返し、最後にもう一度だけキスを交わした。今度こそ笑顔で、白夜はすっかりひんやりと冷え込み出した初冬の夜の空気に、湯冷めしてはいけないと土方が貸したマフラーをぐるぐる巻きにして帰って行った。
部屋に戻ると、さっきまで彼がいた跡はあるが、もういないと物哀しくもなったことに自分の脆弱さに土方は呆れた。銀八に向けていた好きという気持ちに比べ、これは酷く優しくそして穏やかだとなんだか落ち着かなかった。
尤も、今はまだ二人の気持ちがよくわからない状態ではあるが、このなんとも言えない満ち足りた気分は何なのかと、それは持ち得ている恋情の程度はそれぞれ違うかもしれないが、とりあえずベクトルはお互いの方向を向いているのは確かだからなのかもしれない。
ベッドに突っ伏すと、ふわりとそこに白夜の残り香を鼻腔に感じた気がして土方はまた眠りへと落ちて行った。次の日には明けて、学校で銀八と顔を否が応でも合わせなければならないことすっかり忘れ、その夜は夢も見ずに寝た。微睡み身じろいだ時にまた彼の匂いがして、一緒に寝ているような幸せな気分のまま朝までぐっすり寝たのだ。
「土方、ちょっと」
不意に掛けられた声は、無事に一日終わったと安堵した土方の両肩を強張らせるのには十分過ぎる程だった。
話があるからと銀八に呼び止められたのは、六時限目の丁度彼の担当教科である現国の授業が終わり、黒板を消している時だった。背中合わせで白夜のこと、と言われひやっとした感覚が身体を突き抜けたが、覚悟もしていたから動揺を顔に出すような愚かな真似はしていなかったと思う。
大体銀八が言う話というのは一体何だろうと思ったが、あの日彼との行為のことを咎めてくるのか、それとも白夜が昨日ウチに泊まったことを連絡もしなかったことなのか、どちらにしても咎められるのは間違いなく、いい話ではないことは確実だった。
だがもう自分が責められるなら、そっちの方がどれだけマシかとも思ってもいたし、白夜との約束もあったから手早く片付け下校の支度をし、そのまま帰ることが出来る状態で銀八のいる準備室へと向かった。咎められるべきは他でもない自分なのだから。
銀八が職員室よりも常駐している準備室は校舎の別棟のしかも一番端に位置していた。渡り廊下を抜けて、やや小走りに足を速める。
短くなった日は、既に西の空を暮れさせていた。今日は雲一つない空で、それがオレンジとピンクのグラデーションで染め上げられ、無機質なやや薄汚れた校舎の壁も柔らかく色づく。ふと手を見遣れば自分の身体もその色で、なんだか背後から誰かにそっと抱きしめられている、そんな幻想が浮かんでぶるりと土方は身震いをした。
ノックをして名を告げるといつものように、おうとやや間延びした銀八の声が戻って来た。前はそれを聞くよりも早くこのドアを開けていたのに今日は酷く重く感じた。
いつもと変らず、積み上がった本が今にも崩れそうな中でひょいと銀色の髪がゆれると、おいでおいでと手招きをする。いつもの銀八の仕草であるそれが、自分は凄く好きだったのだ。
「白夜が泊まったみたいで」
邪魔して悪かったなあと告げてきた口調も表情も弟が迷惑をかけたというそのもので、いえと頭を振りながら土方は内心戸惑ってもいた。
咎める風でもなく、普通に迷惑かけたんじゃないかと、そっちの方を心配していた。
あの光景を見ていてこの態度ということは、容認されているのだろうかともおもいつつ、連絡もしなくてすみませんとつづければ、それは全然構わないよとわらわれる。
「もう人の言うこと聞く歳じゃねーじ。お前のとこにいるだろうなとも思ってたから」
そういう意味では心配はなかったと全く銀八の態度は前と変らず、もしかしたらあの現場を見られたことは夢だったんじゃないか、そんな気さえした。それかやはり子供同士の衝動的な一時の悪戯めいたことと、処理されているのだろうか。
「でさ、用件はもうひとつあってだな」
はい、と机の引き出しから一通の封筒を出して椅子から立ち上がると、机を挟んで銀八の前に立っていた土方の傍らにわざわざ近づき向き合った。
幾分自分より背が高い彼を少しだけ見上げれば、いつも身に纏っている白衣もやわらかな色に染まっている。ああとても先生に似合っているなその色などとぼんやり思っていれば、その封筒をありがとうと土方に渡してきた。何がありがとうなのか把握できずに、なんとなくそのまま受け取ると手にした感触で気付く。
「今月分のバイト代。本当にありがとうな」
今までありがとうともう一度繰り返し続いた言葉に、ああやっぱり夢ではなかったと思い知らされた。大体まだ月半ばで、支払う時期ではない。要するにはっきりと口にはしなかったが、弟をたぶらかすような奴に勉強など見てもらうなんて冗談じゃないということだろう。
「ホント、土方には感謝してるんだ。勉強のやり方とかコツとか教えてくれたんだな。お前、案外教師向いているんじゃね?」
冗談まじりにそう言って、いつものように頭でも撫でようとしたのか。しかし途中でそれを止め、ぐっと指を握り込んでしまったのを視界の端に見てしまえば、言いようのない哀しさが胸の内に広がった。
やはりもう、銀八の中の自分はきっと触れたくもない穢わらしいものに変貌してしまったのだ。それでも、表面上は以前のように接してくれるだけでもありがたいと、しかしその優しさすら土方の胸を余計に抉る。
余程ろくなことばかり教えてしまってすみませんと、そのくらいの嫌味が吐ければよかったのだが、結局口を吐いて出たのはこちらこそ今までありがとうございましたと、ありきたりのつまらない言葉でしかなく、しかも語尾が微妙に震えた。どうしてか涙が滲み、銀八の背後のオレンジ色の空がぶわりと揺れた。
鼻の奥がつんとして、それでもまだ銀八に嫌われたくなかったのかと必死で押し込めていた本心が零れ出してしまいそうで、一刻も早くこの部屋を出ようとじゃあ俺は帰りますと土方は踵を返した。
だって白夜が自分を待っている。時間がお互い読めないから途中の本屋で待ち合わせをしているんだ。
中学の方が終わるのが随分早いんじゃないかと言えば、その間マンガ立ち読みしてるから大丈夫だという。どうせなら参考書立ち読みしてるって言えば褒めてやったのにと、わざと眉を顰めて返せばそうかしまったと殊更大仰に振る舞った白夜の笑顔が散らつく。
(早く行かなきゃ)
逢って顔が見たい。逢って話をしたい。そうすればこのもう棄てた筈の得体の知れない焦燥感などいとも簡単に吹き飛んでしまうだろうと、自分の心に今だ存在していた残滓めいた感情に動揺し慌てた。一刻も早くと、文字通り逃げ出さんばかりに準備室を後にしようと、受け取った封筒を鞄に押し込み、がらりと入り口のドアを引き開けたその時だった。
「土方、ちょっと待って」
ぐいと半身を廊下に出したところをぐいと腕を掴まれ、また閉ざされた部屋へと引き戻される。腕をしっかりと握っている銀八の手の感触に、それだけで土方の心臓が破裂しそうになった。
あのさと耳元で声がしたかと思うと、一体何と振り返る土方を待っていたのだろうか。銀縁眼鏡をかけた彼の顔がやけに近くにあると思っていれば、それが更に近づいて唇に触れた覚えのある感触に土方の息が止まる。
(え……)
開けたままの目には銀八の顔しか映らなかった。
重ねられたそれが離れたことを知れば、ひゅっと息を吐く。しかしまた直ぐに確かめるかのように今度はやや深めに口付けられては、自分の口内にぬるりと入り込んで来た舌先に全ての思考をごっそりと奪われる、そんな気さえした。
「食わず嫌いはよくないと思って」
銀八の声はいつものように、やや間延びした感情をあんまり感じさせないそれではあったが、掴まれた腕に絡んでいる指先は強い。
だから、と前置きをし一体何がどうしてこうなって、その言葉の意味も計りかね惚けている土方に、銀八は口の端だけで笑ってみせた。
「先生、これからの予定は全部キャンセルしたんだ」
それを何故自分に言うのか。それが何を意味しているのか、判ってしえば、顔にそれが全て現れたのか。銀縁眼鏡の下の眇めた瞳も笑ってないことに気付いてしまうと、冗談めいた揶揄いでないことも知り得てしまった。
「土方」
違う。やはり違うと頭の奥が痺れてつきんと痛む。この息も出来なくなるような思いは、他にありようがない。名を呼ばれただけで胸の内が引きちぎられ、あまつさえ口付けなんて落とされたと今更ながらに実感してしまえば、早鐘を打つ心臓が破裂してしまいそうだった。
「お前に選ばせてやるから」
十分だけ駐車場で待ってると、ぽんと髪をいつものようになんでもない風に撫でるとほら閉めるぞと自分が引き込んだ癖に、廊下にいけとその背中を押される。触れられた場所が火傷するように熱いから、もうそこで灼かれる火から逃げ出してしまえばいいのに、強張った足先は促されてやっと歩を進めた。
どうしてこう、大人は卑怯なのだろう。
途中まで無言で廊下を歩き、生徒用と職員用の玄関は違うから途中で違えた。じゃあなと、また髪を撫でられ今から十分だけなと最後に念を押される。
土方は堪らず、一度も銀八の方を振り返らず廊下を走った。オレンジ色に包まれた廊下は異世界に迷い込んだようで落ち着かない。まるで夢の中で出口を探し彷徨っているようだ。
白夜と、無意識にその名を懇願じみた響きで呼んでいた。
早く玄関に行って靴を履いて自転車に飛び乗って本屋に向かう。何度もそれを暗示のように心の中で繰り返しながら土方は逃れるように走り続けた。
「あれ?白夜、早くね?」
居間と繋がっているキッチンから聞こえて来る物音にいるのだと知り、ひょいと覗くと金色の髪が訊ねる声と一緒に踊った。
丁度夕食の支度の途中だったらしい。濡れた手をシンクでかけてあるタオルで拭くと、おかえりと言いながらちょっとこれ食べてとほくほくに湯で上げられた一口大サイズのじゃがいもを楊枝に指して渡された。
友達んところで勉強してくるって言ってなかったっけ?と訊く声に、渡されたじゃがいもを口の中にほうばりながらうん、と白夜は頷いた。バター醤油で軽く味がつけてあり、それが空腹の胃をぎゅうと引き絞る。
「急に都合悪くなっちゃって」
本屋に着いたところで、土方から借りたパーカーを重ねて着ていた上着のポケットに入れてあった携帯が鳴った。十四郎の文字に、慌てて出れば電話口の土方はもっと慌てていた。
ごめん、今日は無理と謝る声が何故か泣きそうな響きをしていた。もしかしたら泣いていたんじゃないかと、白夜が聞き返そうとしたのだが、旅行から帰って来た両親と出掛けなきゃならなくなったとにかくごめんとだけ一方的に言われ電話はそこでぷつりと切れた。
「へえ。まあ銀八がメシいらないってさっき連絡してきやがってさ。折角作ったのにって思ってたから、お前がその分食べてよ」
ゆるりとやや薄手の襟元が開き気味の所為か、肩からずり落ち気味のそのカットソーを引っ張りながら金時が全く酷いと唇を尖らせながら言う。
「へえ……そうなんだ。よし食う!」
でもとりあえず今のをもう一つくれと強請れば、はいはいと笑って口の中に入れてくれた。じんわり甘しょっぱい味が、食欲をそそり立てる。
「あいつ食わず嫌い多くて面倒くせえんだよ。お前は何でも食ってくれるから正直有難い」
いつも夕飯を作るのは夕方から仕事に出る、銀八の下の兄、金時の役目だった。店が捌けて昼過ぎまではどこかで寝て、ふらりと戻って来ては夕飯を作ってまた出て行くから、未だ金時と土方は顔を合わせたことがない。今日はたまたま店が休みだから一旦荷物を家に置きに行くのを口実に逢わせようと思ったのにと、目論みが外れたことと、金時の言った言葉が妙に心にひっかかる。
突然、今日は無理だと電話をかけてきた土方と、メシはいらないとやはり電話をかけてきた銀八。これは偶然なのか、それとも符号で結ばれているのか、嫌な予感が白夜の心を掠めた。
携帯を取り出し電話を掛けてみるが、直ぐに電波の届かない場所にというアナウンスが聞こえて来て駄目かと切る。実際、旅行から帰って来た両親と食事中なのかもしれない。だとすれば、電話など煩わしいだけだろうと肩にかけていた鞄を床に放り投げると、今日は寒いなと零し炬燵へと身体を滑り込ませたのだが、驚いたことにスイッチが入っておらずここもひんやりと冷たい。
「ちょ、なんだよこの炬燵寒い」
「誰もあたってないのに電気の無駄でしょー?それよりさ、白夜。二人だけだから簡単に作れるヤツにしようかと思って。何がいい?」
好きなもの作ってやるよ?と届いた金時の声が、いつか自分に向けられた土方のそれと重なり、反射的にオムライスと返していた。
「オムライス?俺の作るヤツは甘くてとか文句言ってなかったっけ?」
「その甘いのが食べたい」
弟の気紛れな我が儘にはいはいと、歳の離れた兄は笑った。スイッチを入れじんわりと温まって行く炬燵の上の天板にぐったりと顔を横向きに押し付け、弟のリクエストに応えるべく冷蔵庫から必要な材料を取り出している金時の背中を見つめる。
「なあ、金ちゃん」
「何?」
更に何かあるのかと訊き返しながらも手は止めていない。ああ、やはり土方もそうだったなと思えば、急に訳も判らず寂しくなった。
「俺、振られたら金ちゃん慰めてくれるかな」
ホストだからそういうの得意だろう?と言えば何どうしたのと笑う声がする。
「白夜、振られたのか。っていうかいつ彼女出来てたんだよ」
俺聞いてないと、やや拗ねたような口調に変わる。
「振られてねえけど……なんか駄目かも」
偶然の一致だと思いたかった。しかしどうしてもそれを完全に否定する材料が見つからない。とはいえそうだと確信するものもないのだから同じことだ。
「なんだまだ振られてないんだったら、諦めるなよ」
そこでぐっと押すのがコツだと言う割には、ホストの癖に振られっぱなしの兄が言うことであるから説得力など皆無に等しい。はあと、溜め息をあからさまに炬燵の天板の上に吐けばそれが一瞬息で白く曇った。
(諦めるも何もなあ……)
敵わない、それは最初から判っていた。
一目で判った。土方が兄である銀八のことを好きなことなど、あの初めて顔を合わせた時に、判らない筈がなかった。
だから余計不愉快でもあった。ただでさえ気に入らない兄に懸想している相手など、勉強を見てくれるなど単に兄に褒められたり気に入られたりしたいだけじゃないかと、全くもって面白くなかった。
しかしそんな印象は土方の真摯な対応でややも払拭され、そしてあのバンドの一件で完全にその垣根は外れた。
話をしてみれば意外と気さくで心地よかったのは、彼が殆ど自分のことを年下扱いしなかった所為だろう。何よりもバンドの話が出来るのが嬉しく、同年代の級友が子供っぽいと思っていた自分には丁度よかったのかもしれない。
だが、常に土方の想いは兄に向けられているのを目の当たりにすれば、それは気に入らないの一言に尽きた。どうしてあれで気が付かないのかと、鈍感過ぎる兄にも苛立った。
どうにかして手折ってやりたいという凶悪な衝動が、あの土方の自慰行為を偶然目にしたことで発露し、一気に歪ませてしまったのだ。
兄のことを想っている土方を無理矢理抱くことは、心の中に酷い毒をまき散らし止められなかった。嫌だと口では言ってるのに、相反して反応する土方の身体に容易いものだと侮蔑したりもしたが、彼がそれを兄に無意識に置き換えているのだと気付けば余計乱暴にもした。
泣きながら自分の穿った熱で達する土方を見ては、なんとも言えない愉悦で自分もまた彼の中に何度爛れた熱を零していったのかと思う。
(ホントひでえ)
自分の仕打ちに吐き気すら催し、これが恋情だとするなら冗談じゃないと舌打ちをする。しかも、こんなことをしていた自分をどうして受けれいてくれたのか、土方の心も未だに判らない。
兄を見上げて笑っている土方の顔が一番好きだったなんて思えば悔しさに身悶えもしたくもなるが、未だ人を好きになるという感情が判らない自分にとって、恋に恋している状況だったのかとも温もって来た炬燵に身体が徐々に緩むのを感じながら思う。
しかし冷えきった指先だけがなかなか温もらず、炬燵の中でやや強めに摺り合わせる。いつもは自分の手の方が温かいから、よく温めてやったあの冷たい指先を温めているみたいだ。
級友の恋愛事など子供じみていて、しかもすぐに日ごとに揺らぐのを知っていたから、あれほど真っすぐに一人を見つめる瞳に出逢ったことはなかったし、憧れた。兄の放つ言葉や仕草に一喜一憂している様は、傍目にも明らか過ぎて可愛いと言えばきっと怒っただろうが、その素直さが欲しかった。
あれだけ人を好きになれば、このいつもどこかぽっかりと大きな穴が空いたような感覚が消えるのかと、土方に寄り添えばそれが埋められるのではないかとそんな錯覚に囚われていたのかもしれない。
「何、ホントに振られたの?」
すごい弱ってないかと、いつの間に背後に立っていたのか金時の困惑した声が零れてきた。それと一緒に、はいと、手にしていたオムライスが目の前に置かれる。ふわりと立ち上る湯気に卵とバターの香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、ぐうと鳴った腹にこんな状況でも腹は減るのかと自分でもおかしかった。
「振られるも何も……考えてみれば好きとか言ったことねえや」
「何それ。じゃあ始まってもないんじゃないの?」
自分も食べるともうひとつの皿を向かい合わせに置くと、炬燵の中に足が滑り込んで来た。あったけえなあと言う兄に、感謝しろとスプーンを掴んで言えば、ありがとうと言いながらも炬燵の中で蹴り飛ばしてくるのだから酷い。
そうだ。始まってもいなかったと、もし昨日始まっていたとしてもお互い判らないと自分の感情を把握出来ずの見切り発車だった。だから終わったと思うのも、妙な話だとふんわりと形よく卵に包まれたオムライスに容赦なくスプーンを指して口元を歪めた。
金時の作るオムライスは土方のとは違って、フライパンの上で器用に形よく包み込むそれで、これのやり方知りたいんだけど出来ねえからと言ってたのを思い出し、いつか金時からそれを彼に教えてやりたかったなあと思う。
いや可能性は潰えていないのだろう。ただそれを金時に告げるのが自分ではなくて兄の銀八に変わるだけのことだ。
「人を好きになるってよく判んねえや」
「……俺だって、まだよく判んねえよ」
ぽつりと零せばそれに重なるように自分より十も年上の金時が言うのだから、余程難しいのだろうか。口の中に広がるケチャップライスの味も微妙に土方の作るそれと違う。材料は同じなのにな、と料理などしたことがない自分にはその理由が判らない。
「ほんと、もう判んねえや」
土方のように人を好きになりたいと思った。泣いてしまう程にそんな胸の内を震わせて身悶えするような感情はある意味、麻薬みたいなものなのだろう。熱に浮かされているあの漆黒の瞳が何度も揺れるのを見ているから尚更、それを自分も持ち得たかった。
「お前はまだ子供なんだから仕方ないだろ」
俺は流石にそろそろヤバいと金時が笑う。飄々として特定の恋人を持つ気配がない兄もまた、同じように探しているのだろうか。
大体銀八にしたところで、とっくに土方の気持ちに気付いていたのではないかと思う。兄が彼を見遣る視線だって、一度だけ顔合わせで逢ったことのある婚約者に向けたそれとは全く違う。あれでいて意外と常識の枠から飛び出さないでいた兄が自らをがんじがらめにして律していたところを、その柵を破らせたのは恐らく自分だと思い至れば、酷いお節介をしてしまったと呆れた。
と、同時に偽りの心で縛られ続ける責め苦から解放してやったのだと、感謝しろ莫迦と一番不器用な兄を心の中で罵る。
(どーすんだろうね)
どうおとしまえをつけるのか、恐らく一時の激情に身を任せている銀八がはっと我に帰った時にどうするのか。棄てでもしたら許さないと、しかしそれを期待もしている酷い心も感じては、嫌悪感が喉元までせりあがり慌ててそれを呑み込んだ。
これは恋ではない。だって自分は泣いたりなんてしない。
泣く程辛いのが恋なんだろう?だとしたらその味を自分はまだ知らない。だからこれは違う。
そんな恋がいつか自分にも訪れるのだろうか。
「なあ、金ちゃん」
何と返ってきた声に顔を上げずに白夜は口いっぱいにオムライスをほおばりながらくぐもった声に言う。
「今日のオムライス、あんまり甘くねえよ」
ちょっとしょっぱいやと、何故か口の中にさっきから広がる味が頬を流れていく涙だと認めたくなくて、今度はもっと甘くしてと願えば、判ったとゆっくり告げた金時の声は優しく解け、オムライスから未だ立ち上る温かい湯気のように白夜の身体を包み込んだのだった。