インスタント・インモラリスト

木瀬


銀八×検事



法に触れない背徳感ってお手軽でちょっとイイだろ?なァ検事さん。
いつか彼はそう云った。


帰宅してリビングの電気を点けると部屋で男が眠っていた。
合鍵を持たせているとはいえ、さすがにぎょっとする。
外されて傍らに置かれた眼鏡のレンズに電光が反射して眩しい。
全く、突然現れやがって。
溜息を吐いて背広を脱ぎ、ウォーターサーバーから注いだ水を一杯飲み干す。カーテンを閉めていると背後で衣擦れの音がした。

「……あれ、お帰り」
「お前来るなら来るで言っとけよ。学校から直接来たのか」
「そう。今日公判終わるって言ってたじゃんお前」
「裁判自体はもう言い渡しだけだな。控訴がなきゃ一段落だ」

話しながら寝室のドアを開けてクローゼットに脱いだ背広を掛ける。暗い室内には朝起きたままのベッドが一つ。背に影が差したかと思うと、ネクタイを解いた手が後ろから絡め取られた。男の指先はいつも乾いている。紙やチョークばかり触っているから油分が無くなってしまうのだと言っていた。こればっかりは仕方ないけどたまにすげー気になる時あんだよ、お前ちょっと濡らして。そう薄く笑って口に指を突っ込まれて以来それについて触れる気は失せた。
大体、どうせそんなことをしなくたってこの指が湿る瞬間があることを、土方は知っているのだ。

坂田銀八とは、ある学校法人の脱税事件の捜査をしていた折に出会った。品行方正とは言い難くも良い教師であったようだが、理事長と近しいという理由で散々に聴取を受けていたのを見掛けている。立ち会ったこともあり、顔を合わせる機会は何度もあった。――やたらとあった。
それは単なる偶然だったのか、或いは自分がそうなるよう無意識に動いていたのか。単に目立つ風貌の男だったからそんな気がしただけなのかも知れない。髪型や振る舞いは言うまでもなかったが、それにしても教師らしからぬ目をした男だった。
理由は様々に考えられるが正直な所、興味があったことは事実だろう。
男が恐らく、自分と同類だと思われたからだ。

立ち入り捜査に顔を出した際、常のように何となく目を向けていると、ふと近付いてきた彼は会釈して笑った。検事さんまた来てらしたんですか。

「どうも。ご迷惑お掛けしております。お話も何度も聞かせて頂いたようで」
「それは構わないんですが、理事長が逮捕されたらここどうなるんですかね、このご時世職は失いたくないもんですよ」
「はあ、そうですね、なかなか大変な世の中ですからね。でも学校は普通閉校なんてことにはならないですよ」
「それなら良かった」

心底安心したような顔で男は、一瞬、ちらりと辺りに視線を巡らせた。
気を付けて見ていなければきっと分からなかったであろうその瞳の僅かな動き。妙な不安感に駆られてその瞬間、何を思うよりも先に土方の背筋はぞくりと震えた。一部の犯罪者に相対した時の感覚に似ていた。
――しかし、ねえ。
低められた声と浮かべられたままの笑み。
教師らしからぬ、目。
奇しくも、その男は自分の目を真っ直ぐ見つめ返して、丁度自分が考えていたのと同じ単語を口にした。

「いつも思ってたんですが、目」
「……目?」
「事件の参考人そんな目で見て、良いんですかね?」

プライベートで会いましょうか。

紡がれた声に地面が揺らぐような目眩がした。
それは、心の内の静かな興奮に因る。

捜査中に出会った、事件の参考人の、教師。
温度の低い表情の裏に潜む性。
彼の云ったように、何の法も倫理も犯してはいないにもかかわらず。
問題は一つも無いにもかかわらず。
頭の奥を鈍く浸食してそれは確かに在ったのだ。

背徳。


「お前、明日は」
「死刑の立ち会いだけ」
「その落ち着きっぷりと来た。検事の癖に人殺せそうだよな」
「殺してるようなもんだろ。俺たちが公訴しなきゃ死なねーんだから」

リビングから漏れて来る光が室内を照らしている。
首筋に顔を埋めた男の跳ねた銀髪が頬に触れて擽ったい。
腹が減った。

「何つーかお前らの仕事って本当現実感がねーな」
「明日俺が立ち会うのは女子高生連続通り魔の奴だぞ」
「あー、あったな。懐かしい」
「他人事でもねーだろうが教師。人の死に触れる可能性なんてどの職業だってあるってこったよ」
「何、そんなことまで心配してくれてんの。痕つけていい?」
「見える所じゃなきゃな」

自分にとっては仕事は現実感の塊だ。公訴することも捜査に入ることも法廷に立つことも死刑に立ち会うことも、金銭と引き換えに行う業務。それに比べたら今この堕落した教師の男とセックスしていることの方がよっぽど非現実的だと思う。
男にキスマークを付けられていようが表面上さえ取り繕えていれば法曹として厳粛な顔で支障なく仕事に及べる。
しかし死刑に立ち会う人間にキスマークを付けたがるものか、普通。
倫理観というものが欠落しているのかも知れない。
もしくは敢えて、か。
背徳に溺れる興奮。人間とは斯くも浅ましい。

「てめーはどっちかっつーと死刑食らう側の方が素質あるかもしれねーな」
「何でだよ。この俺が犯罪やりそうに見えるってのか?」
「見える」
「は、そんな奴相手にしていいのかよ」

彼と相対した時のあの背筋の冷たさを覚えている。
良い教師のようだった。生徒に友達のように接され、それでいて慕われ、常に生徒に目を配っているような。
そんな素晴らしい先生様が見せる、犯罪者にも似た瞳の色。
あの瞬間、倫理とモラルが人生から半歩だけ遠ざかった。ほんの少しだ、支障は無い。
腹が減って仕方ない。終わったら風呂よりも先に取り敢えず何か胃に入れたい。
リビングから漏れ入る光を遮って己を見下ろす教師が笑った。
釦を外し終えた手が素肌を撫でる。

「生憎、これ以上後ろめたいことなんざ要らねーよ」

緩めた唇が晒された身体に触れる。
インスタントな熱を齎す、温度の低い表情の裏に潜む性。

腰骨を辿る指先は湿り始めている。

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