opportunity
※2年生の時の話
その日、珍しく朝から登校していた三井は当然授業など出る訳もなく、屋上で睡眠を貪っていた。
三井をはじめとする不良のたまり場にされることが多い屋上は、一般の生徒や教師が近づくことはほとんどなく、邪魔をする者もいないため、三井が目を覚ました時、既に日は真上に登っていた。
寝すぎたな。
コンクリートの床に横たえた身体を起こすと、腰や首が強ばっているのを感じる。首をぐるりと一周まわすと、筋がぴきりと鳴った。
なんとなく学内が騒がしい気がして、三井は目をひそめる。階下から聞こえてるざわめきに時刻を確認すると昼休みを指していた。昼時を意識した瞬間、空腹を感じる。
飯でも食いに行くか。
堀田が登校していることを思い出した三井は、彼を探して昼食をとりに行くべく立ち上がった。大きく伸びをすると、関節がミシミシと音がたて、血流が勢いよく身体を巡るのを感じる。
梯子を伝い給水塔の上から屋上へと降りると、ズボンのポケットへ右手を突っ込み、反対の手で校内へ続くドアに手をかけ瞬間だった。
「っ」
「えっ」
外開きのドアが思い切り開かれ、中から一人の女子生徒が飛び出してきた。勢いよく開いたドアを、すんでのところで慌てて避けた三井は、飛び出してきた女子生徒を怒鳴りつけようと口を開いたが、視界に入れた女子生徒の顔を見た瞬間、凍りついた。
「……藤野」
「三井」
そこにいたのは、バスケ部のマネージャーの藤野周だった。おおよそ1年前、部に顔を出さなくなってからまともに対面するのはこれが初めてのことだった。目を丸くして自分を見上げる周に気まずさと、苦々しい気持ちが膨れ上がり、三井は顔を背けた。
驚いて目を丸くしていた周は次の瞬間、ふわりと微笑んだ。
「今日学校来てたんだね」
1年前の春の、バスケ部で初めて出会った時のように。まるで昨日も一緒にいた、そう思えるほどあまりにも自然に微笑まれて、胸を突き破るほどの苦しさが三井の胸のうちで暴れた。
全てに背を向けてしまった三井、差し伸べられた手を振り払い続けた結果が、今だ。持て余した怒りを周囲にぶつけ、どんなにぶつけたところで消え去ることのない感情。
ちっぽけなプライドと、つまらない意地を張り続けたために、あの尊くも眩しい世界へ、自分はもう戻ることなどできない。
もう、どうでもいいんだ。諦めた。
何度もそう自分に言い聞かせた。何度も、何度も。しかし頭では理解はしていても、心の底ではバスケットを諦めきれずにいる。その事実に、三井は震えるほどに腹が立つ。
最後に会話を交わしたときより、頬の丸みがなくなり、年相応に成熟さを増した周。しかし女らしさが浮かび始めた顔に浮かぶ微笑みは、一年前に見た時と何も変わっていなかった。
周が右手に下げていた籠を胸の前に抱え直すと、そこではじめてそれに気付いた三井は、籠へと視線を向ける。中に入っていたのは湿ったタオルだった。バスケ部が普段使っている洗濯場は部室棟の裏手にあったはず。日当たりが良くないので乾きが悪い、そう1年前にぼやいていたのを覚えている。それなのになぜ屋上に。三井の疑問を察した周は、苦笑した。
「洗濯物、朝練終わってから干すの忘れてて」
ここなら日当たりもいいから午後までに乾くかなって。そう話す周に、ふと我に返った三井は、胸を満たしていた懐かしさを無理矢理振り払い、周の横を素通りして、再び校内へと足を向けた。
「三井」
すれ違う瞬間、名を呼ばれ思わず立ち止まる。頭のどこかで立ち去るように警告している自分がいたが、心が、細胞が周の言葉に耳を傾けていた。
「土曜日ね、地区予選の初戦があるの」
告げられた内容を理解した瞬間、自分の奥底の欲求を見抜かれた気がして、頭に血が上る。気づいた時には周の襟首を掴み、その衝撃で胸の前に抱えていた籠が落ちて、真っ白なタオルが屋上の床へと散らばった。
「テメェ……ぶっ殺されてぇのか」
予選がなんだってんだ。バスケ部を離れた自分には関係のないことだ。
長身の三井に掴まれて、つま先立ちになった周は苦しげに顔を顰めたが、次の瞬間表情を消して、間近に迫った三井の瞳を見つめ返した。
「怒ったらダメだよ、三井」
諭すように、静かに言う周。その丸い瞳に鏡のように映る自分の姿があまりにも滑稽で、三井はそれ以上そんな自分と周の瞳を見ていられなくなり、突き飛ばすように周を離してて、踵を返した。僅かにたたらを踏んだ周はなんとか踏みとどまると、逃げるように校内へ向かう三井の背へ声をかけた。
「自分が許せなくなるから、怒ったらダメだよ」
決して大きくなかったその声は、不思議と鮮明に三井の耳に届いた。
これ以上聞いていられない。
一刻も早くその場を離れるため、三井は人目もはばからず、息が乱れるのも構わず、階段を駆け下りた。伸びた髪が顔に張り付いても、構わない。すれ違う生徒達は何事かと目を向けるが、それが三井だと気付くと慌てて目を逸らす。
心臓を素手で握られたような、苦しさ。ずっと昔になくしてしまったものを、思いがけないところで見つけてしまった気がした。
周と最後に会話をしたのは1年前、当時入院していた病室でのこと。あれから三井は一度もバスケ部に顔を出すことはなく、まともに登校すらしなくなる。髪を伸ばし、よくない連中とつるむようになった「スーパースターの三井寿」。かつての友人達は離れていき、教師や大人からもやっかまれるようになった。 最初は戻ってくるように言っていたバスケ部の連中も、三井にその意志がないことを悟ると、自然と接点はなくなっていった。時折赤木や木暮を学内で見かけても、目が合うことはなく、お互い存在しないものかのように振る舞う。バスケをしていたのが、まるで夢だったような気さえする。
それなのに。ほんの一瞬、一年のはじまりに少しだけ接点のあった、バスケ部のマネージャー。喧嘩をする赤木と三井を笑っていた、その微笑みが1年経った今も変わらずにそこにある。苦しくも煌めいていたあの日常が、全て、あの微笑みに詰まっている。そんな気がした。
全てが変わってしまった中で、唯一変わらないもの。それに気付いてしまった時、抗えない感情が三井の胸を焦がした。
あそこに帰りたい。
自分から離れておきながら、そんな都合のいいことを願うことは許されないと知りつつも、三井は芽生えた想いを消し去ることなどできなかった。