ヘアゴム
「あ」
ふいに聞こえた呟きに、部活ノートに記録を書き込んでいた彩子が振り返ると、先輩マネージャーである周が先程までは後ろで一つに結われていた髪を抑えて、逆の手で千切れたゴムを摘んでいた。ヘアゴムが切れたようだ。
「うわ、完全に千切れてる」
「あー、これはもう使えませんね」
びろびろに伸びきった上に千切れたヘアゴム。ポニーテールのあとが残る、波打った髪は下ろしていたからといって邪魔になるものではないが、動き回ることが多い部活中はやはり鬱陶しい。
「今日に限って予備持ってないんですよ……」
「大丈夫。1日ぐらいなんとなるから」
申し訳なさそうに眉尻を下げる彩子。周はそんな彼女に気にしないように言うと、伸びきったヘアゴムをジャージのポケットへ突っ込む。顔の横に垂れる髪を耳にかけ、洗濯物を畳む作業を再開する。下を向くためはらりと視界に入る髪は邪魔なような気もするが、耐えられないレベルではない。
そんなことを考えていると、手元に影がかかり視界が暗くなる。何事かと頭をあげると視界いっぱいの、赤。
「……っびっくりしたぁ……桜木、どうしたの」
体育館の床に座って、洗いたてのビブスを畳んでいた周を見下ろしていたのは桜木だった。顔を上げて予想外の距離の近さに、周が仰け反ると、それを見ていた彩子は「あんた近いのよ」と桜木の後頭部をどこからか取り出したハリセンで思い切り叩く。その衝撃に桜木は「うっ」と声を上げ、叩かれた頭を痛々しそうに抑えた。
すっかりおなじみになったやり取りに周がくすくすと笑っていると、赤頭の問題児は「おぉ!」と閃いたと言わんばかりに手を叩いた。
「いつもと違うと思ったら髪を下ろされたんですね、周サン!」
「あぁ、ヘアゴムが切れちゃってね」
予備もないし今日はこのまんまかな。と笑うと「髪を下ろされてもおキレイです!!」と力強い上に、体育館中に響くほどの大声で言われ、気恥しくなる。
基本的に女子相手にはガチガチになる桜木だが、なぜか初対面から周に対しては素直に懐いた。まるで犬だな、とは赤木の言である。
「あれ、もう休憩?」
「ハイ!!」
そういえば静かだと辺りを見回すと、部員たちはコートから出てドリンクを飲んだり汗を拭ったりしていた。なんならぐったりと倒れ込んで肩で息をしている部員もいる。普段は騒がしい体育館だが、休憩中は、それなりに静かだ。
周は畳んでいた洗濯物の中からタオルをとり、汗だくの桜木に渡してやる。アリガトウゴザイマス!!と大声で嬉しそうに受け取る桜木の背中に、ブンブンと大きく揺れる尻尾が見える気がした。
「ほら、周さんの邪魔してないでスコアボード出すの手伝いなさい」
「イデデデデデ!彩子さん!痛いっス!!」
ノートを閉じた彩子は大柄な桜木の耳を摘むと、痛がる桜木を無視して体育館倉庫へ引きずった。
そんな桜木の背中に「彩ちゃんに逆らうなぁ!」と宮城が飛び蹴りをかまし、それをもろに受けた桜木が見事に吹っ飛ぶ。「なにすんだリョーちん!!」「やめなさい!」と怒鳴り声が体育館にこだました。今日も湘北バスケ部は平和だ。
周は髪を耳にかけ直して、畳み終えたビブスをすぐに使えるように色別に分けてベンチへ置く。ふぅと一息つき、体育館を見渡すと赤木と木暮はコートサイドで安西となにやら話し込んでいる。そこに三井の姿はなく、珍しいなと思い体育館を見渡しても見当たらない。
外で涼んでいるのかもと見当をつけて、休憩後のメニューを脳内で反芻しつつ、必要なものの段取りを組み立てていく。
今日は彩子が記録を担当しているため、備品の用意は周が行っている。休憩明けはミニゲームだということを思い出し、念のため予備のホイッスルも出しておくかと立ち上がった時、ぱしりと後頭部を軽く叩かれた。
「三井?」
「おう」
頭を抑えて振り返ると先程まで見当たらなかった三井が立っていた。なにかあったのかと口を開くと「ん」と手を差し出される。
その手に握られているものを見て、周は瞬いた。
「これ……」
「たまたま持ってるの思い出してよ、使うだろ」
差し出された手に乗ってたのは飾り気のない黒いヘアゴムだった。姿が見当たらなかったのは、わざわざこれをとりに部室へ戻っていたためだったのか。ほら、と胸の前にヘアゴムを突き出されて、条件反射でそれを受け取る。
「わざわざ取りに行ってくれたの?」
「サポーターの代え取りに行くついでにな。桜木あいつ声デケェんだよ、あっちまで会話丸聞こえだったぜ」
「これ、借りていいの」
「借りるっつーか、やるよ」
俺はもう使わねーし。三井はガシガシと頭を掻きながら気まずげに目をそらす。そうならばと、受け取ったヘアゴムを手首へ通し、礼を述べようとした時、ふと疑問が頭をよぎった。
「……なんでヘアゴムなんてもってたの?」
「…………」
女子がヘアゴムを持っていたというならなんら不思議はない。しかし男子、特に三井のように髪が短い場合、ヘアゴムを持ち歩く理由がない。髪が長いならともかくとして、今の三井の髪の長さではーーー、
思考がそこまで巡り、周はある可能性に行き着いた。
「……もしかして切る前に使ってた?」
少し前まで三井の髪が肩につくほど長かったのは、湘北バスケ部なら誰もが知っている。今でこそ短く切られているが、たしかに前までの長さなら結ぶことも可能だろう。
「……長いと夏とかあちーしうざいんだよ」
不機嫌そうに顔を逸らす三井。グレていた時代を散々ネタにからかわれているが、未だに慣れないらしい。以前のような引け目を感じている表情こそ減ったものの、ヤンチャな時代を知られて気恥ずかしいという感情は残っているのだろう。
体格のいい三井が、拗ねた小学生男子のように唇を尖らせていじけているのが可愛く思えて、周の悪戯心にほんのりと火が灯った。
「そう思うならロン毛になんてしなきゃよかったのに」
「ロン……!?おいロン毛って言うな!あれはな、」
ロン毛と形容されたのが許せなかったのか、いかにあの髪型が手のかかっていたものかを、前のめりになって熱弁する三井。それなりにこだわりがあったらしい。ムキになる三井が余計に可愛らしく思えて、周はくすくすと笑った。
「わかったわかった。じゃあ三井がまたあの髪型にするまで、ありがたく使わせてもらうね」
手首につけたヘアゴムを示しながら言うと、三井はぐっと言葉につまり、先程までの勢いを失う。からかわれたことに恥ずかしくなったようで、頬を染めながら「……もうしねーよ」と小声で言うと、丁度赤木の集合の号令が体育館に響いた。
周に背を向け、コートに向かう三井の背中を見つめて、周は暖かい気持ちが胸を満たすのを感じていた。少し前まで、こんなやり取りができるようになるなんて、思っていなかった。時折姿を見かけても喧嘩をしているか、ガラの悪い友人達とつるんでいたため、声をかけることなど、とてもじゃないけどできなかった。あの時は冷たく、刺々しく感じた背中を、今ではこんなにも温かい気持ちで見守ることが出来る。
三井の大きな背中を見つめていると、「あ」という呟きと共に三井が振り返った。
「それ帰ったら捨てろよ」
恥ずかしいから。言葉にこそしなかったものの、いじけた顔でそう言う三井の気持ちが透けて見えて、周は笑ってしまう。そんな周に三井はケッと唇を尖らせると、集まった部員達の輪に加わり、隣にいた木暮と「どうしたんだ?」「なんでもねぇよ」なんて言葉を交わしているのが聞こえてきた。
周は手を頭後ろに回し、髪を纏めながらホイッスルを取りに行くべく、体育館倉庫へ向かう。手首のヘアゴムで器用にも歩きながら髪を括ると、一つにまとめ髪がさらりと背中で揺れる。何の飾り気もないただのヘアゴムが、ほかのお気に入りの髪飾りより、ずっと特別な気がする。
絶対捨てたりなんかしないもんね。
何の変哲もないそのヘアゴムは、それから長いこと周の手首に存在し続けることになるーーー。