槙島
「あの女性......どんな方なんです?」

西日の差し込む美術室、王陵璃華子の問いに槙島は手にしていた本から顔を上げる。
璃華子のキャンバスには首のない女が裸体で自身の首のようなものを抱えている様子が描かれていて、槙島は璃華子の肩越しにそれを眺めた。
女の首にあたる部分は鉛筆で軽くデッサンされたのみで、女の顔の部分のみが白く、穴が空いたようだった。


チェ・グソンが別件で手が空かない昨夜、璃華子の元へとプラスティネーション溶液を運んだのは若い女だった。はじめはチェ・グソンのホロコス姿かと思ったが、それにしては小柄なその女は璃華子の挨拶に軽く会釈を返すのみで、無言で薬剤を運ぶ姿に、璃華子はそれがはじめて会う人物だと気付く。

『槙島先生にあなたのような協力者がいるなんて知らなかったわ』

そう言う璃華子にちらりと視線をむけるが、口を開かない。愛想のない女に構わず璃華子は語りかける。

『ご存知かと思うけど私は王陵璃華子。』

ローファーの踵を鳴らしながら女へと歩み寄る。そんな璃華子に構わず女は無言だった。

『あなたと同じ、槙島先生の協力者よ』

よろしくね。

端正な顔立ちに美しい笑みを浮かべる璃華子に、はじめて女が手を止める。おや、と思うと女はそこではじめて体ごと璃華子の方を向き、2人は正面から向き合った。
璃華子も華奢な方ではあるが、女はそれ以上に小柄で、リップラインで切り揃えられた黒髪が動きに合わせて小さく揺れる。
女を強く感じさせない、中性的な容貌だな、と璃華子は思った。年齢は恐らく槙島とそう変わらない(最も、槙島の年齢など聞いたこともないが)と思われるが、小柄な背たけが女をやや幼く見せる。キメの細かい肌は、璃華子が思わず触れたくなるような滑らかさだった。
女はややツリ目がちな瞳で璃華子を上から下まで観察する。女の視線に混ざる侮蔑を鋭く感じ取り、璃華子は心の奥でチクリと不快感が芽生えた。
女は璃華子の瞳と目を合わせ、はじめて口を開く。

『馬鹿な子』

よく通る声が璃華子の鼓膜を揺らす。
言われた内容に、璃華子は眉を顰める。

『長生きしたかったら、自意識過剰をやめることね』

女はそう吐き捨てると、唖然とした璃華子に背を向け、足音を立てることなくゴミ処理場のホログラムの壁の奥へと姿を消した。
璃華子の元に残ったのは、ポリタンクに入ったプラスティネーション溶液と、胸に燻る微かな不快感だった。


経緯を聞いた槙島は、くつくつと面白そうに笑みを漏らした。

「彼女らしいな」

親しさを滲ませた言葉に、璃華子の不快感は増す。

「親しいんですね」
「まぁ、それなりに長い付き合いだからね」

パレットの上の色をキャンバスに撫で付ける。槙島は手にしていた本を閉じると、寄りかかっていた身を起こし、璃華子の背後へと歩み寄った。

「彼女は育った環境が少し特殊でね」

濁りない墨色をキャンバスに塗りつける。それを見つめながら、槙島は楽しげに口の端を持ち上げた。

「シビュラの恩恵を受けない環境に長くいたせいかな。目の前の人間の本質を見抜くことに長けているんだ」
「では私は自意識過剰だと......?」
「外れてはいないんじゃないか?僕から見ても君は自分に自信のあるタイプに見える」

璃華子は自分の容姿と頭脳が人並み以上だという自覚はある。評価に相応しいだけの努力はしてきた自負がある。故にそれを『過剰』と称されたのは不快だった

「気分を害するということは、少なくとも君はそれを心のどこかでは自覚してるということだ。君のような人間は下された評価が見当違いなら、意にも介さないだろうからね」
「......あの方、槙島先生のことはなんて?」
「僕?」

槙島ははじめて出会った時に言われた言葉を思い出し、くつくつと笑う。槙島の珍しい姿に、璃華子は筆を止めて思わず振り返る。
目を細めて笑う槙島と目が合うと、彼は楽しげに口開く。

「話が長くて面倒臭い男、とのことだ」
「......口の悪い方なのね」
「彼女は言葉遊びを嫌うからね。僕みたいにまわりくどい物言いの男は嫌いらしい」

面白そうにそう言う槙島に、璃華子はなんて返せしていいのか言葉を濁す。璃華子は好ましく思っている槙島のそれだが、人によってはそう感じるのも無理はないことも理解できる。

「ずいぶんと、お気に入りなんですね」

再びキャンバスに向き合い、ブラシを動かす璃華子は自身の言葉に微かな嫉妬の色が見え隠れするのに、内心で驚いている。
らしからぬ小娘らしい感情だわ。
槙島がそれに気付かぬ訳もなく、璃華子は羞恥心が沸き起こるのを感じた。

「お気に入り、ね。少し違うかな」

色の乗った首の部分を、璃華子の肩越しに見下ろす。濁りない黒髪のその顔は、槙島にとっては身近に感じる顔そのものだった。

「彼女はね、僕にとって理想の人間なんだよ」

キャンバスに描かれた彼女は、槙島でさえそう多くは見ていないほほ笑みを浮かべ、こちらを見詰め返している。黒硝子のような瞳には、何も写ってないのが、ほんのすこし不満だった。

「彼女は生きることに必死なんだ。シビュラシステムからの恩恵を受けていない彼女は、その人生において、シビュラの判断を仰いだことが一度もない。最も、シビュラシステムに彼女が組み込まれたらその時点で潜在犯として隔離施設に収容させるだろうからね。徹底してスキャナーを避けて生きている姿はいっそ甲斐甲斐しいくらいだ」

切り揃えられた黒髪は、キャンバスの中では揺れることはなく、艶やかな光沢を見るものに見せ付けている。

「食べるもの、着るもの、行くところ、やること。全て彼女は自分で選び、決めている。僕の手伝いもそのひとつだ。多少リスクが高くとも、僕はそのリスクに見合った報酬はきちんと払う。彼女はリスクとそれに対する報酬を秤にかけて、どちらを選ぶか自分で決めて、判断している。ただ生きていくために、彼女は日々選択を迫られている。シビュラに法の下、生きている君たちには有り得ない生き方だろう。この社会に生きる人間はそんな彼女を不幸というかもしれないが、僕にはそんな彼女が眩しく見える」

槙島はそっと腰を屈めると、璃華子の耳元に唇を寄せる。微かな吐息を感じて、璃華子は身を固くする。

「彼女に手を出すのは、いけないよ」

低めた声で、囁く槙島の声には甘さは一切なかった。背筋を走る悪寒に、璃華子の手からブラシが落ちる。軽い音を立てて床に転がったそれは、木製のフローリングに墨色を塗りつけながら数度回転し、止まった。
槙島は身を起こすと、手にした本を小脇に抱えて、璃華子へ背を向けドアへと向かう。
ドアノブへと手をかけるタイミンクで、思い出したように振り返ると、硬直したままの璃華子へと声をかけた。

「その絵、完成したら出来栄えによっては買い取るよ」

柔らかいトーンでそういうと、槙島はドアを開けて、夕色の美術室を後にした。

一人取り残された璃華子は目の前のキャンバスを見つめる。
首のない女が裸体で自身の首を抱えている。リップラインで切り揃えられた黒髪は黒く艶やかで、恍惚としたほほ笑みを浮かべて、身を固くした璃華子を黙って見つめていた。
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