蒙武
闇の中からふわりと覚醒した蒙武は、己が泥のような深い眠りから目覚めたことを、数秒かけて理解する。ゆるゆると瞼を持ち上げると、闇に慣れた瞳が映し出したのは見慣れた自身の居室の天井だった。
函谷関での戦を終え、傷を癒す間もなく撤退する合従軍を斉まで追い、ようやく咸陽の屋敷へ戻ったのが昨日のこと。疲労が頂点に達していた蒙武は、治療を受けるなり寝台へ倒れ込みそこから昏昏と眠り続け、今に至るのだった。

流石に疲れたな。

このひと月あまりを思い返し、流石の蒙武もため息をつく。指先まで泥の中に埋もれたように重く、汗明との戦いの傷も痛む。負傷した右手首の様子を伺おうと持ち上げようとすると、何かが掌を握っていた。

「周か」

暗闇の中、目を向けると、蒙武の右手を握っていたのは妻だった。寝台の脇に置いた椅子に腰掛けたまま、うたた寝をしてしまったのだろう。普段は美しく整えている髪も乱れ、閉じられた目の下にはクマが浮かんでいる。
武家に嫁いだ宿命とはいえ、義父と夫、更には息子も兵士である周の心労は計り知れないものだろう。今回は特に長男の蒙恬が重症を負い、なんとか持ち堪えはしたものの死の淵をさまよったということもある。
蒙武とてあの瞬間、汗明に切られた蒙恬の姿を思い返すと未だに背筋に冷たいものが走るくらいだ。
戦地から離れた咸陽でその知らせを聞いた妻の心境を思うと、蒙武の胸の内には不甲斐ない気持ちが溢れ、無意識のうちに周の小さな手を握り返していた。
その僅かな感覚に、周はふっと目を覚ます。

「すまん、起こしたか」
「......殿!?目を覚まされたんですね!?」

ぼんやり寝ぼけていた周は、夫の声に覚醒すると、我に返り横たわった夫に取り縋るように詰め寄った。

「お身体の具合は?」
「問題ない」
「嘘ですね、少し熱がおありですね」
「............休めば、問題ない」

蒙武の額にぴたりと当てられた周の手は冷たく、心地よかった。普段から体温が高めな蒙武だが、それにしても今の体温は高すぎる。恐らく傷が熱を持ったのだろう。なるほど身体の重さはそれのせいか、と蒙武は内心で納得した。

「もう遅いですから、とりあえず今日はこのままお休みください。明日もう一度医者を呼びますので」
「あぁ」

周は蒙武の右手を丁寧に上掛けの中へと入れ、寝具を軽く整える。

「周」
「はい?」
「......恬はどうしている」

蒙武の問いかけに周はぴたりと動きを止めると、ギュッと眉間にシワを寄せ、自分を見つめる夫と目線を合わせた。

「まだ起き上がることは、できませんが」

声を震わせた周は、必死に堪えている様子だが、その瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを蒙武は目は逃さなかった。瞬きと同時にはらりと妻の頬を涙が走る。

「しばらく安静にしていれば、もう、大丈夫だと、医者が、」

ひくりと嗚咽を漏らし、零れ出た涙を必死で拭う。子供のように泣きじゃくる妻に、蒙武はたまらぬ気持ちを堪えきれず、細腕を引き寄せる。華奢な身体は勢いよく蒙武の胸に飛び込み、驚く周に構わず抱きしめた。

「殿......?」
「すまない」
「!」

周は蒙武の謝罪に、目を見開く。
戦場にあってはいくら息子といえどひとりの兵士。生きるも死ぬも蒙恬の裁量次第。蒙武も蒙恬も承知の事だが、蒙武とて父として息子を愛していないわけではない。
自分がもっと強ければ、もっとはやく汗明を討てていれば、蒙恬があんなことにはならなかったのではないか。そう思ってしまうのは妻の前だからなのか。
らしくもなく悲観的な自身に蒙武はふっと苦笑する。

「武様」
「なんだ」

珍しく名を呼ばれ、蒙武は腕の中の妻へと視線を落とす。夫の腕に包まれ、周その温もりを感じなが口を開く。

「私とあなたの子ですよ」
「!」
「そう簡単に死ぬわけがありません」

だから、大丈夫。
夫の心音に耳を傾けながら言う妻に、蒙武は頼もしさを感じ、ニヤリと口角をあげた。
先程まで泣きじゃくっていたのに強がりなことだ。
内心でそう思いながらも、しかしこれぐらいでなければ中華最強の男の妻は務まらぬか、と納得する。
腕の中の温かさと心地いい重みに、蒙武は眠気が戻ってきたことを感じる。徐々に重たくなる瞼にもういっそこのまま眠ってしまいたくなり、周の触り心地のいい髪を撫でながらゆっくりと瞼を落とす。

「そうだ、武様?」
「、なんだ」

夫が微睡みかけているのを察知し、周は囁くように声をかける。今に至るまで、あまりにも大騒ぎでまだ言えてないことがあることを周はしっかりと覚えていた。
そっと蒙武の身体に負担をかけぬよう、身を起こすと、瞼を閉じたたままの蒙武の頬を優しく撫でる。

「おかえりなさい」

耳心地のいい声を聞きながら、蒙武は僅かに頷くと、完全に意識を手放した。
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