◎05
どのくらいそうされていただろう。
掴まれた手首はしびれて力が入らない。
細くてすらりとしているその身体にこんな力があったなんて知らなかった。
『手首、痛いです・・』
「ゆず、お前が足りないんだ」
『蓮二さん、シャワー浴びてきたらどうですか』
それからお話しましょう。
そう言うと、観念したように手を離してわたしの上から退いてくれた。
『わたしも顔洗って着替えてきますから』
「わかった」
バスルームに向かった蓮二さんを見送って、わたしも着替えに自室へ向かう。
お湯も沸かして蓮二さんのコーヒーと自分の紅茶の準備をしていたら濡れた髪のままの蓮二さんに後ろから抱きしめられた。
『風邪ひいちゃいますよ』
「すまなかった」
『それは何に対しての謝罪ですか?』
少しトゲのある言い方だったかもしれない。
でもこれくらいはしょうがないと思う。
頭のいい蓮二さんのことだからわかっているだろう。
「まず昨日のことだ。早めに切り上げて帰るつもりだった」
蓮二さんはノンアルコールで過ごしていたが、渡辺さんはけっこう飲んでいたらしい。
駅まで送る途中でハイヒールで足をくじいて歩けなくなった渡辺さんを仕方なく駅ではなく家まで送り届けた。
送ってくれたお礼にあがって、と言う渡辺さんを断ろうとしたらしいが立場上あまり冷たくあしらう事ができず強引に部屋まで連れていかれたらしい。
そこでいいワインがあるから、とお酒を勧められて1杯だけならと飲んでからの記憶がないとか。
気付いたら渡辺さんに押し倒されてキスをされていたらしい。
少しふらつく身体で渡辺さんを振り切ってタクシー拾って2時間かけて帰ってきた、というのが蓮二さんが言ったきのうの出来事だ。
くみちゃんも言ってたけど、渡辺さんは見かけによらず超肉食女子だ。
『キス、したんだ・・』
「すまない」
『わたしはまだ、蓮二さんとしてないのに』
「俺が愛しているのはゆずだけだ」
『うれしくないです』
不可抗力とはいえ、違う女とキスをした唇でわたしへの愛を囁かないでほしい。
わたしは不安な夜を過ごして、すごく傷ついたのだ。
『わたしはすごく不安でした。心配もしました。蓮二さんのおうちだけど、このまま帰ってこなかったらどうしようとか、やっぱり渡辺さんの方がいいって思われたらとか、わたしはもうこんなにも蓮二さんのことが好きなのに、結婚したいって言ってくれた蓮二さんは好きとは言ってくれないし』
いつも余裕たっぷりで、必死になるのはいつもわたしだけ。
たった3つしか変わらないのにその差はわたしには埋められないほどに大きくて。
『いつの間にか、気付いたら蓮二さんのことがすごく好きで、いつもいつも考えるのは蓮二さんのことばかりで。でも、好きでいることがつらいと思ってしまいました』
ぽたり、止まっていた涙が蓮二さんの腕に落ちる。
好きすぎて胸が苦しくてこの気持ちをどうすればいいのかわからない。
「全て俺のせいだ。でもこれだけは聞いてほしい」
抱き締められていた蓮二さんの腕が緩み、向かい合うようにして見つめられる。
「俺は今でもゆずと結婚したいと思っている。好きなんだ、愛しくてたまらないんだ。俺にはゆずしかいない」
真っ直ぐこちらを見るその目は初めて結婚したいと言われたときと同じく綺麗だった。
「俺はゆずのことを幸せにしたいと思っている。こんな風に泣かせることや喧嘩をすることもあるだろう。でもゆずを嫌いになることは絶対にないと言い切れる。だから俺と結婚してほしい」
真剣な目。
わたしは最初、この目に惹かれたんだ。
『・・・わたし流されやすいんです。さっきまで嫌で嫌でたまらなかったのに、もうすごく嬉しい』
ぎゅう、とわたしから抱きつけば右手で優しく頭を撫でられる。
「初めての喧嘩だな」
『これって喧嘩になるんですか?』
「喧嘩のあとは仲直りのキスだ」
それってただキスしたいだけじゃないですか、そう言って笑えば噛みつくようにキスをされた。
「ゆずとキスするのは2回目だ」
『えっ』
「訂正しよう。初めて泊まったとき手は出していないと言ったが、堪えきれずキスをした」
にやりと笑う蓮二さんはまるでいたずらが成功した子供のようだ。
「来週末はゆずのご両親に会いに行こう」
『え?』
「結婚の挨拶がしたい。早くゆずを俺のものにしたいんだ」
『わかりました。連絡しておきます』
「さ、ゆずもあまり寝ていないだろう。たまにはだらだらするのも悪くない」
コーヒーも紅茶も飲まれることなくすっかり冷めてしまった。
部屋着姿の蓮二さんに腕を引かれて蓮二さんのベッドにふたり並んで潜り込む。
腕枕をしてもらい、さっきとは違う蓮二さんのにおいに包まれればすぐに眠気が襲ってくる。
『わたしけっこう嫉妬深いんです』
「奇遇だな、俺もだ」
『それは初耳です』
「中村はゆずに近づきすぎだ」
『よく見てますね』
「ゆずのことは、入社したときからずっと見ていたからな」
それも初耳だ、なんて笑いながらわたしは完全に夢の中へ意識を手放した。
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