日々感思流汗之行7



 


 ──夏風邪は馬鹿がひく、なんて言葉があるが、
 その時の私は、確かに馬鹿だった。

 普段の自分の頑強さにかまけて、ひいた風邪を何の対処もせずにこじらせたのは、中学三年の県大会の地区予選、その前日のこと。
 その段になって慌てて薬を飲んだところで時既に遅し。負けたら終わりの試合当日を、私は熱を出したまま迎えることになった──



 普段通りを装って、試合前の練習をこなす。大丈夫、動ける。ひとつひとつ確認をしながら、体をほぐしていく。
 開会式も無事に終わった。出番はまだ少し先だ。物陰で熱い息を吐き出していると、横合いから声をかけられた。

「調子でも悪いのか?」

 ──和正だった。
 意識していなかったから、びくんと身体が竦む。……しまった。これじゃ彼の言葉を肯定してるみたいじゃないか。
 勘の良い彼を、誤魔化し切れるだろうか。

「……別に。いつも通りだ」
「いつも通りでないから、訊いている」
「何でもないって」

 伸びてきた彼の手を、私は軽く払った。──触れられたら、きっと気づかれる。
 でもその刹那の接触だけで、和正はすべてを悟っったらしい。

「お前、熱……」
「……大したことない」
「嘘だ」

 再び伸びる彼の手を、今度は払えなかった。額に直に大きな手が触れる。稽古で上気したのとは違う、確かな熱。
 すぐに和正が顔をしかめた。

「やはりな。結構あるだろう」
「さあな。それに、私は大丈夫だから」
「 紫……だがその熱では」
「大丈夫だから。……今日を最後にしたくないんだ。絶対に無理はしないから」

 和正は珍しくため息を吐いた。私が無理をすることくらい、彼はちゃんと知っている。それでも彼は、こう言ってくれるのだ。

「……無理なら無理と言え。言わないなら、無理矢理にでも俺が止める」
「わかった。約束する」



 ──幸い、他の誰も、モカも穂高も先生でさえも、私の不調に気づくことはなかった。だから大丈夫、半ば自分に言い聞かせる。
 そして、試合が始まった。






 ……気がついたら、医務室のベッドの上だった。
 目覚めと熱で頭がはっきりしない。それでも徐々に記憶が蘇る。
 午前中の個人戦、和正もモカも穂高も県大会への出場を決めて、私が最後だった。あと一回勝つだけでよかった、その試合。
 先に一本を取られて苦しい展開だった。押されながらも僅かな隙を見つけて、なんとか一本取り返す。だけどはずみで転倒して、
 ……その後の記憶がない。

「……起きたか」

 低い声に、視線だけを動かす。険しい顔の和正が、そこにいた。
 怒っている。無理もない。無理なら無理と言う、その約束を破ったのは自分だ。
 私は慌てて起き上がろうとした。

「和正……ごめん」
「起きなくていい。寝てろ」

 軽く遮られただけで、私は起き上がることができなかった。熱のせいで身体が言うことをきかないのだ。
 起きることを諦めて、私は尋ねた。

「どうなった?」
「……棄権した。個人戦も団体戦も」

 解っていたことをはっきりと告げられて、私は腕で目を覆った。

 ──終わった。何もかも。
 私が、終わらせた──

 事実がゆるゆると、ぼうっとした頭に浸透していく。こんな不完全燃焼のまま、中学での剣道が終わってしまった。私、だけ。
 済まない、予想外の謝罪が聞こえてきて、私は腕の隙間から視線だけで見上げた。垣間見えた和正の顔は──何故だか辛そうで、だから私は困惑した。

「どうして、和正が謝るんだ……?」
「俺があの時、無理矢理にでも止めていたら……」
「いや……止められてたって結果は同じだった」
「だが……」
「謝るのは私の方だ……和正、私は……皆に……モカに合わせる顔が無い。私の所為で、団体戦は」
「お前の所為じゃない。それにまだ終わった訳でもない。まだ、次があるだろう?」

 それに是とは答えられなかった。和正はきっとこの先、高校のことを言っているのだろう。だけど今、私は。

「すまない……帰ってくれ」
「紫……」
「皆に、……大丈夫だって、伝えてくれ」
「……わかった」

 ──一人にしてくれ。
 その意を汲んでくれた和正は、淋しそうに少しだけ笑って、そして医務室を出て行った。
 先のことなんて考えられない。
 今はただ、自らの不甲斐なさに涙が滲んだ──






「鷹月は試合でベストを尽くせなかった。それが全てだ」

 何よりも勝利を重んじていた、顧問の先生はそう言った。

「泣いても笑っても同じ試合は一つとしてない。そこに合わせて自らを高め、調子を整えなければ意味がない。……鷹月、お前は三年間、何をやってきたんだ?」

 期待されていたのは知っていた。期待を裏切ったことも知っていた。
 だから、手のひらを返したかのような、冷たい声が心に刺さった。

「こんなつまらない形で、鷹月は自分の三年間を終わらせたんだ」

 それに対して何も言い返せなかった。
 そして、その全てを、『そんなことはどうでも良いが』と言う一言で片づけられてしまった。

「それより問題は団体戦だ。大野の三年間を、戦いもせずに終わらせる権利は、鷹月には無かったはずだ」

 ──そう。
 私の所為で、人数がギリギリだった女子の団体戦は棄権せざるを得なくなった。
 自分が軽率だったがために、皆に迷惑をかけた。落ち込んでいた自分の気持ち。それは掬い上げられるどころか、さらに奈落の底に落とされた。

「それはずっと心に刻んでおけ」

 言われなくたって、消えるはずもない。
 私は取り返しのつかないことをしてしまったのだから。



 ……それなのに。



「紫が稽古に付き合ってくれるから、あたしも嬉しいし、助かってるのよ」

 モカはそう言って、私の肩を叩いてくれるのだ 。

 ……いっそ責めてくれたら良いのに。

 だけど和正も穂高も他の部員も、そして他ならないモカも、誰一人として私を責めなかった。

(私、は……私は、どうやってモカに詫びたら良いんだ?)

 わからない詫び方。先のない剣道。落ちて、落とされて、浮上することができなくなった自分の気持ち。
 迷い、悩みながら振る竹刀に冴えは無くなって。

 ──楽しかった筈の剣道が、ちっとも楽しく無くなった。



「和正……私、剣道から離れたい……」

 悩んだ末の決断に、小学校からの剣友は、そうか、と淋しそうに呟いた。










「剣道から離れたこと、後悔はしていない。
離れなかったら、今の私は無いからな。文芸部の皆とも……きっとお前とも、出会えてなかっただろうし」

 少し頬を染めながらそう告白する彼女の、まっすぐな言葉が嬉しい。
 彼女は、本当はこんな話をしたくなかったに違いない。だってきっと、恥ずかしくて悔しい過去の話なんて、口にしたくもない筈だから。強がりで、カッコよくて、自分をそう見せたい、そんなひとだから。
 それでも……話してくれたのだ。僕のために。

「だから今回のことは、悔いても悔いきれない過去を清算したい私の我儘だ。モカにはもう、あんな思いを味わわせたくない」
「わかりました。話してくれて、ありがとう。ちゃんと、紫サンの帰りを待ってます」
「うん……私こそ、わかってくれて、ありがとう」



 彼女が辿ってきた道があって、今の彼女がある。
 そして僕は、今の彼女が好きなのだ。
 だから。






「あなたは……剣道をやめた、とは言わないんですね」

 ──その一言は、大野先輩の戦線布告とともに、胸の奥にしまい込んだ。



 
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