日々感思流汗之行6 |
「紫サン。今日は一緒に帰れますか?」 「すまない……部活の後、道場でもう少し稽古をして行きたいんだ」 「……わかりました。じゃあ、また明日」 いつも通りの笑顔で送り出してくれる北条が、 いつも通りじゃないことに、私は気づいていなかった。 「え? 北条が?」 渋い顔をしたかんなちゃんに呼び出されたのは、朝、学校に着いてすぐのことだった。 そうなの、頷く彼女の声は、顔と同様に渋い。 「特に今週になってから酷いわ。部室が毎日お通夜なのよ。空気重いの。ムードメーカーのなのちゃんも居ないし、北条君はあなたがいなきゃ、モチベーションを保てないみたいだし」 わたしたちが引退したらどうするのかしらね、ため息を吐くかんなちゃんに、私の眉間にも皺が寄った。……本当、どうするんだ。あの馬鹿は。 ただ──わかってはいるのだ。確かに最近、北条との時間が減っている。 さりとて自分の時間はもういっぱいいっぱいだ。昼こそ一緒にいるけれど、放課後は剣道部、稽古が終わるのは文芸部よりずっと遅い。その上時には安藤と、かつて通っていた道場に顔を出す。帰ったら宿題も何もかも放り投げてしまいたい勢いなのだ。 詰め込み過ぎなのはわかっている。だけどやるからには自分のできる限りを尽くしたいし、そうしなければいけない。自分のやっていることは無理ではないが、……きっと北条には、無理を強いている。 私の、我儘で。 「……ごめん、かんなちゃん」 そしてそれを、わざわざかんなちゃんが言いに来るというのは、余程のことだと思う。 「良いのよ、紫ちゃん。あなたは別に北条君を蔑ろにしている訳では無いんだもの。その上で不満を漏らしてるのは、北条君の方が悪いわ」 そう言ってくれたかんなちゃんは、でも、と続けた。 「北条君の気持ちもわかるのよね。やっと想いの通じた相手と、もっと一緒にいたい、って欲張りになる気持ち。せっかく夏休みが明けて、ようやく……っていう時の肩すかしだもの。 それに紫ちゃんには目的があるし、その過程で離れている時間に没頭できるものがあるけれど、北条君にはそれがないわ。……だから余計、腐っちゃってるんだと思うの」 「……私は、どうしてやればいいんだと思う?」 「そうねえ……毎日キスでもしてあげたらどうかしら」 「そっ……」 そんなの出来る訳ないだろ、言おうとしたけれど、ニコニコ笑顔のかんなちゃんを前に私は押し黙る。彼女がこんな顔をしている時は、何を言っても無駄なのだ。 北条が、かんなちゃんや志乃ちゃんに迷惑をかけているのは、そもそも私の我儘が原因な訳で。 つまりこれは、その位の覚悟で対応して欲しいと、暗に言っている訳で。 「…………なんとかしてみる」 私はようやく、それだけを言った。 「やっぱ無理!」 「……何がですか?」 「い……や、あの、なんでもない!」 聞き返してきた北条の言葉を、私は全力で否定した。 今は昼休み。でも頭の中は、今朝のかんなちゃんとのやり取りで埋め尽くされている。 『毎日キスでもしてあげたら』なんて、無理難題にも程がある。それでも北条の気分を上げるには、それは安直だけど手っ取り早く思えてしまうから困る。……困るのだ。 悶々としていると、北条がもう一度訊ねてきた。 「紫サン……どうかしたんですか?」 改めて問われても、答えなんて無かった。その筈だった。 だけど、口は勝手に、言葉を紡いでいた。 「……すまない」 「え……?」 「私の所為で、お前にも、かんなちゃんたちにも迷惑かけてるから」 「なんで……別に、迷惑だなんて」 「じゃなきゃなんで、お前はいつも通りじゃないんだ?」 ──ピクリ。初めて北条の笑顔が固まった。滅多に見ることができない顔だ。 重ねて私は問うた。 「いつも通りに見せかけてるのがそもおかしいんだ。だってお前はちゃんと自分を律することができるから。だから、いつも通りに『見せかけてる』のはお前じゃないよ。らしくない」 「……本当、かないませんね、紫サンには」 長い前髪をクシャッとして、北条は笑った。だけど瞳が笑っていたかどうかは、髪と手に隠れて見えない。 「違う。私は……かんなちゃんに聞いたんだ。だからそれまで気づきもしないで……ごめん。でも私には何もできなくて……謝るしかできなくて、ごめん」 「謝らないでください、紫サン」 項垂れた私の頭に、優しい声が降ってくる。顔を上げると──間近の距離に、無理矢理笑みを浮かべたような顔。いつも通りに『見せかけてる』顔。 「僕が……僕も、どうすればいいのかわからないんです」 「……北条?」 「あなたが、楽しそうだから。剣道をやってるあなたが、昔の仲間とワイワイやってるあなたが楽しそうだから。だから、淋しくて……紫サンが帰ってこないんじゃないかって、不安になるんです」 「そんなこと……!」 「無いって言えますか? 断言できますか? 僕があなたと一緒にいた時間なんて、彼らとの時間に比べたらちっぽけなものでしかなくて……だから不安で不安で仕方がないのに。 子どもっぽい、ただの我儘ですよ。でもこのまま、紫サンが剣道部に取られちゃうんじゃないかって……そうしたら、……なきゃいけないから。そんなの、嫌だから」 強いトーンがだんだん尻すぼみになって、少し聞き取れない部分すらあった。 だけど北条の気持ちは良くわかった。不安でいっぱいの、彼の気持ちは。 「……本当に、ごめんな」 彼の胸に顔を埋め、私はもう一度謝った。 そして、 彼が本音をさらけ出してくれたから、私も本心を……隠しておきたかったものを、明かすことにした。 「私が剣道部の助っ人を引き受けたのは、本当は、友人を助けたかったからじゃないんだ」 「…………え?」 困惑の声が降ってくる。彼は今一体、どんな顔をしてるんだろう。顔を上げたくないから、わからない。 「……違うんですか?」 「いや、それも理由の一つではあるんだけど……それ以上に、彼女に中学時代の借りを返したかったからなんだ。 そんなことしたって、過去を無かったことにはできないんだけど……それに今更なんだけど、けじめをつけるために、話を受けた」 北条は黙って、私の言葉を聞いている。 だから私は、ひとつ小さく深呼吸をしてから、続けた。 「私が、彼女の……大野とも佳の『最後』を奪ってしまったから」 |