日々感思流汗之行4



 


 九月に入ったというのに、残暑が厳しい。連日の猛暑に、止まない蝉時雨。殊に、旧校舎の三階という高い位置にある文芸部の部室は、いつだってうだる様な暑さである。

「あっつーい……」

 一番乗りの弊害は、この暑さへの対処。思わず口に出るほどの暑さにげんなりとしたアタシは、すぐに立て付けの悪い窓を全開にしていく。途端に入ってきた風も心地良いものではなく、アタシの眉をしかめるのに一役買っただけだった。
 それでもすべての窓を開け放ち、ついでに部屋の扉も全開にすると、風の通り道ができたことでこもった空気が入れ替わっていく。ふう、一息ついたのを見計らったようなかのタイミングで北条君が、少し遅れてかんなちゃんがやってきた。
 ……今日の文芸部は、これで全員である。

「どうしたの、志乃ちゃん」
「……なんか、静かだなあって」
「そうね。なのちゃん今日は弓道部だし、紫ちゃんはいないし、ね。……北条君はあんなだし」

 ちらりと遣った視線の先には、いつものスマイルは何処へやら、不景気な顔の北条君。理由は……聞くまでもない。

「ねえ北条君。面白くない気持ちはわからないでもないんだけど、せめていつも通りを装って頂戴」
「何がですか?」
「そんな不景気な顔してたら、紫ちゃんが心配するわよ」

 言われて初めて、彼はハッとした顔をした。

「……そんな不景気な顔してますか?」
「そうね、ご主人様を取られてふて寝しているワンコみたいな顔してるもの」

 かんなちゃんの的確な表現に、アタシは思わず吹き出した。事実その通りなんだけど。
 だけどその言葉にムッとしたワンコが、アタシたちに噛みついてきた。

「だって紫サンがいないんですもん」
「はいはい。アタシたちも淋しいよ。だから待て!」
「犬扱いしないでください。ああ、紫サン早く帰ってきてくれないかなあ……」
「そうね、紫ちゃんがお休みしてからまだせいぜい一週間で、残りはあと三週間だったかしら。でも、そこを勝ち上がったらまだ先があるのよね、確か。せっかくだから勝ってる姿も見たいわねぇ……」
「相澤センパイ……意地悪です」

 不景気を通り越して不機嫌になってしまった北条君を見て、かんなちゃんが苦笑した。いじめ過ぎた自覚はあるようだ。

「仕方ないわね。今日は校内を散策して、話のネタを探してくることにしましょうか。……その間にたまたま格技場の傍を通って、ちょっとくらい紫ちゃんの凛々しい姿を見てたって、誰も文句は言わないでしょうから」



 部室のある旧校舎三階から、いつも使っているのと反対側の階段を下りる。すると短い渡り廊下からは弓道部の的場が見える。矢が的に中る音が、時折聞こえてくる。
 そしてその傍らに、剣道部が練習している格技場はあった。柔道部の乱取りの音をかき消すような、剣道部の声が聞こえていた。

「紫ちゃんの声って、よく通るよね」

 それが彼女の声であることはすぐにわかった。でも防具一式を身につけた彼女がどこにいるのかは、一瞥しただけではわからない。やがて、防具の下に付いている名前を見つけて、ようやく紫ちゃんの存在を認識した。
 真っ直ぐに相手を見据え、一心不乱に相手に立ち向かっていく、その姿。
 それが大柄な相手だとしても──きっと男子なのだろう──臆することなくぶつかっていっている。らしいなあ、思わずそう声が漏れた。

「紫ちゃん、カッコいいわねえ……」
「うん。すっごく」

 かんなちゃんの漏らした吐息に、アタシは迷わず同意する。ちらりと傍らの背の高い彼を見遣ると、……何故だかとても不機嫌な顔をしていた。

「どしたの北条君。焦がれてた紫ちゃんがいるよ?」
「……知らない」

 彼が零した、返事とも言えない独り言は、アタシの予想だにしないものだった。

「……え?」
「あんな紫サン、僕、知らない……」
「アタシだって見たことないけど?」
「知らない……」

 険しい瞳で、だけど紫ちゃんから目を離すことなく、北条君はそう言った。

 ──アタシたちの知らない紫ちゃんが、そこにいる。
 使い込まれた防具が過ごした時間は、アタシたちの知らないもので。

 今、剣道をやっている人たちと分かち合っている時間は、アタシたちとは決して共有することのできない時間でもある。だからアタシは僅かに、彼と同じ感情を抱くのだ。──嫉妬と言う名の感情を。
 紫ちゃんが背の高い男子らしき人と何やら話し込んでいる。ハア、大きな息を吐き捨てて、北条君は踵を返した。

「逆効果だったかしらね……」

 その姿を見送ったかんなちゃんが、そう零した。



 
日常 かんな 志乃 なの 紫1 
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