日々感思流汗之行3



 


「お疲れ様でしたー」

 一年生達の声が遠くから聞こえる。モカと二人、格技場を出たのは最後だった。
 入口で待っていた安藤が鍵をかける。彼の荷物に竹刀と防具を見つけて私は問うた。

「この後、また稽古に行くのか?」
「ああ」
「真面目だよなあ。さすが主将」

 混ぜっ返す穂高に、安藤は少しだけ笑って応じた。

「トラだって明日は稽古に行くだろう?」
「おう。せっかく自分の道場に上段の先生がいるんだ、教わらなきゃウソだろ」
「アンタもなんだかんだで剣道バカよね、トラ」
「褒め言葉だな。次の大会は、和正に勝ってオレが個人戦優勝する!」
「二本勝ちできたらジュース奢ってあげるわよ」
「よっしゃその言葉マジだな!?」
「ええ。その代わり負けたらあたしたち全員にジュース奢ってね?」
「……なんか理不尽じゃね?」
「気の所為よ」

 笑う私を、鷹月、と安藤が呼んだ。

「何?」
「お前も来るか? 一純も来るのだろう」

 どこへ、とは聞かずとも解る。私がかつて剣道を学んだ道場。今でも弟の一純は通っているが、私の足は暫く遠のいていた。
 久しぶりに恩師に会いたい気持ちはある。でも──
 私は彼方をちらりと見上げて、そして言った。

「……今日は止めておくよ。さすがに疲れた」
「そうだな。また機会があれば」
「ああ」

 薄く笑って、安藤は足早に去っていった。帰るぞー、言って別方向に歩き出す穂高をモカが追い……かけて私の方に振り向くか。

「紫は? 帰らないの?」
「部室を覗いてから帰るよ。まだ誰か残ってるみたいだから」

 もう一度、ちらりと旧校舎を見上げてから私はそう言った。



 部室に居たのは、……思った通りの顔だった。

「北条」
「紫サン。お疲れ様でした」

 ハードカバーから顔を上げた彼はニコリと笑った。そして読みかけのページに栞を挟むと、閉じた本を鞄にしまいながら立ち上がる。

「もうこんな時間なんですか。本に集中してたら、すっかり遅くなっちゃいました」

 その言動に、私が口を差し挟む余地はない。彼はきっと私を待っていたのだろうけれども、そんなことはおくびにも出さないし、言わせてもくれないのだ。……私に気を遣わせないために。

「北条」
「何ですか?」
「……ありがとう」

 北条は、私を見て、それからまたニコリと笑ってくれた。

「一緒に、帰りましょうか」






 久しぶりの剣道は──正直、楽しかった。
 錆びついた身体は、いきなりの過重労働に悲鳴を上げていたけれど。
 それでも、何か無くしていたものが埋まっていくような感じがした。気のおけない仲間と、互いを高め合う時間。それによって満たされる気持ち。

──どうして私は剣道から離れたんだろう。

 思考がそこにたどり着くと、心が一瞬、ヒヤッとした。
 ……臆してちゃ駄目だ。『それ』を払拭するため、そしてあの時の大きな借りを返すために、モカの頼みを引き受けたというのに。
 知らず、こぼしていたため息を、耳聡く拾った北条が問うてきた。

「どうかしたんですか?」
「いや……うん。ちょっと疲れた」

 気遣う声音に、私はそう返した。
 それも嘘ではない。でもため息の本当の理由は、北条に話すつもりはなかった。
 ──私が、剣道から離れた理由は。

「無理はしないでくださいね?」
「はいはい」
「信用ならない返事ですね……」
「はいはい」
「無理したら僕、怒りますよ?」
「……それは嫌だな」

 笑った北条が私の頭をポンポンと叩く。私も笑顔を返しながら、明日も頑張ろう、と心に誓った。


 


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