壊す勇気 |
「かんなちゃん、ゴメン。ちょっとだけ椎名先生のラボに寄って行くから、部活出るの遅れるね」 自分では気づいていないのだろうけど、頬を薄く染めながら志乃ちゃんはそう言った。 「よーしーのー! 今日は逃がさないからな!」 「きゃーん! かんなセンパイすみませーん、吉野なの、今日はひーくんにラチられますー」 「誰が拉致だ! 人聞きの悪いことを言うな!」 いつものゲンコツをひとつもらって、なのちゃんは下野君に連行されていった。 「紫サン! 昨日の約束……」 「わかってる。……かんなちゃん、すまない。今日は図書室にこもるから」 心底すまなさそうに紫ちゃんはそう言って、北条君と一緒に部室を出ていった。 そして、……部室には誰も居なくなった。 壊す勇気 志乃ちゃんは最近、椎名先生となんか良い感じだ。それが志乃ちゃんの言葉の端々から窺える。何より、二人でいる時の空気が柔らかい。椎名先生は他の誰といる時も、そんな空気は纏わない。 なのちゃんは下野君と相変わらず、だけど下野君は最近、なのちゃんに振り回されるのに慣れてしまった感がある。あーあ、すっかり毒されちゃって。と、つい昨日言っていたのは志乃ちゃんだ。 そして……北条君に正面から告白されて、返事を保留中の紫ちゃん。まあこれも紫ちゃんの折れどころ次第で、まとまるのは時間の問題だと思う。 「わたしだけ……変わらない、な」 誰も居ない部室で、わたしは一人、呟いた。 わたしの好きな相手は昔から一人だけ。だけどこの恋が実る可能性は、一ミクロンも無いこともちゃんとわかってる。 だからわたしだけ、変わらない。 それが……淋しい。 はあ。ため息をひとつ。いつもとは全然違う静かな部室に、小さな吐息はやけに響いた。 そしてすぐにまた、部屋は静かになった。 「淋しい、な……」 「……そりゃひとりぼっちなら淋しかろうな」 静寂を切り裂いて入ってきた相手は、教育実習生の小鳥遊先生だった。 独り言を聞かれていたことに赤面したわたしに、珍しいな、と先生は声をかけてきた。 「今日は一人か?」 「あ、ハイ。……でも多分、そのうちみんな戻ってくるとは思いますけど」 「そっか。いや、別に何の用事がある訳でもねーし、いいんだけどさ」 言って小鳥遊先生は本棚から最新の部誌を取り出した。そのままペラペラとめくり出す。 わたしは先生が文字に没頭してしまう前に、ふと思い出したことをそのまま尋ねてみた。 「……小鳥遊先生」 「んー?」 「先生って、片想い歴何年なんですか?」 ガッタン。派手な音を立てて、先生が椅子からずっこけた。 それから頭を抱えながら椅子に座り直した先生は、大きな大きなため息を吐いた、 「……相澤も知ってんのか……」 紫の所為でプライバシーゼロだよな、なんてブツブツ言う先生は、だけどきちんと答えてくれた。 「あー……中学からだから、十年になるかな」 「そうなんですか……」 十年想い続けるのは並大抵のことではない。それはもっと長く一人だけを思い続けてるわたしにはよくわかる。 でも先生、わたしの方が片想い歴はもっと長いんです。 とりあえず、それは言わずに黙っておいた。のだけど。 「そう言う相澤はどうなんだ?」 言わなかったことを、逆に聞き返されてしまった。 わたしは少し戸惑った。だってこれはプライベートなことだし、多分言わなくても責められたりなんてしない。 だけど、きちんと答えてくれた先生に倣って、わたしはきちんと答えることにした。 「ええと……多分、十六年です」 その返答に、先生は微妙な顔をした。 「十六年……って、相澤はまだ十六歳だろ?」 「ええ。生まれた時から知っていて、昔からずっと大好きなひとがいるんです」 ──いつから恋をしていたかなんて忘れてしまった。 ただ、気づいた時にはわたしはもう彼が好きだった。 「向こうは妹だと思ってるだろうけど……わたしにとって彼は、一人の男の人です。昔も、今も」 「そっか。それもツライよな」 先生はちょっとだけ頷いて、それから何気ない調子でまた訊いてきた。 「で。その恋は、どうするんだ?」 ──叶わないと知って尚、諦められない、手放せない恋。 わたしはどうするんだろう。どうしたいんだろう── 「先生は?」 「質問に質問で返すなよな……まあ良いけど」 苦笑した先生は、少しだけ遠い目をした。窓の外の青い青い空を見上げる。そうして、 「……オレの好きな相手には、オレじゃない別の好きなヤツが居てな」 独り言のように口を開いた。 「でもソイツはもう居ない。居ないのに、彼女はその恋を手放すことができない。だから彼女は誰のものにもならないけど、オレと彼女の関係も、カケラも変わらない。 彼女にとってオレは、ただ一番近くにいる男、ってだけの存在だ。友だちじゃねーし、恋愛対象でもない。これ以上前にも後ろにも進まない」 ──それはわたしの置かれている状況に極めて似ていた。想う相手と、理想とは違う関係で固定されてしまっている、先生と、わたし。 「だけどオレの中のどっかで、『ああもうこのままでいっかな』なんて思いがあるんだよな。ほんのちょっとだけ」 先生は淡々と続ける。……ドキッと、した。だってわたしの中にもちょっと、同じ想いがあったから。 「壊す勇気が必要なんだろうなと思うよ。……ただ結果は得るか失うかだ。失うのが怖いから、現状から踏み出せねーでいるんだよ」 紫に言わせりゃオレはヘタレらしいからな。そう言って小鳥遊先生は自嘲した。 ……ああ。同じだ。 わたしと先生は同じだ。 壊す勇気なんてわたしには持てない。隣人で幼馴染みという今の関係を壊さなければ、恋人という新たな関係は築けないのに。 変えたくないのに変わってほしいなんて、 なんて他力本願で自分勝手なんだろう。 「……先生はヘタレじゃないと思いますよ」 「そうか?」 「だって……わたしも同じだから。わたしだって怖いです。だから壊したくないし、だからきっとずっとこのままなんです。 でも紫ちゃんは、わたしのことはヘタレだなんて言うはず無いですもん。だから先生も、ヘタレなんかじゃないですよ」 「そっか。……ありかとな、フォローしてくれて」 先生は照れ臭そうに笑って、それからまた部誌に目を落とした。そろそろわたしも原稿を書こうかしら、そう思ってパソコンの電源を点けたわたしに、先生の静かな声が届いた。 「──自分の心に嘘は吐くなよ、相澤」 わたしは顔を上げたけど、小鳥遊先生の顔は下を向いたままだった。 だから、その時先生がどんな表情をしていたのかはわからなかった。 だけど、その重みのある短い言葉だけは、確かにわたしの胸に刻まれたのだった── |