かの花の名は、 |
「お疲れさま〜」 「お疲れ様……あら、どうしたのそれ?」 部室に入ってきた佐伯センパイに、書類を整理していた相澤センパイが尋ねたので、僕もパソコンの画面から顔を上げた。 パチクリ。途端に鮮やかな黄色が目にとまって、思わず瞬きをひとつした。細い右腕いっぱいに、佐伯センパイが花の束を抱えていたので。 「切っていけって言われたの。これが生えてるところ、もうすぐ草刈りされるからって。……盛りを過ぎる前に踏みにじられるくらいなら、せっかくだから持って帰って愛でたらどうだって」 佐伯センパイは主語を省略していたけど、言葉の主が誰だか僕にはすぐに分かった。もちろん紫サンも相澤センパイもわかってる。 でもどうせなら、先生が手ずから切ってあげた方が良かったのに、と僕は思う。……その方が好感度上がるのに。 ソファから立ち上がった紫サンが壁際へと足を向けた。 「確かあっちの棚の上に、手頃な瓶があった気が……」 「紫ちゃん、届くの?」 「ああ、大丈夫だ……っと、あれ?」 棚の上に一生懸命手を伸ばす紫サン。……到底届きそうにない。いつものこととはいえ、少し淋しい。ああもう、紫サン。どうして僕を頼ってくれないんですか。 仕方ないので、手を伸ばす紫サンのその上から、僕は手を伸ばして瓶を取った。そのままさり気なく彼女を抱きしめようとしたら、瓶を落とさない程度の肘鉄が返ってきた。……痛い。 「ついでだ、北条。瓶を洗って、水を入れてこい」 「紫サン冷たい……」 僕はがっくりうなだれたまま、とぼとぼと部室を出て行った。 かの花の名は、 春、という季節をそのまま具現化したような、鮮やかな黄色。程々に大きな瓶から溢れそうな位たくさんの菜の花が、今日の文芸部の部室を彩っていた。 紅茶をすすりながら、相澤センパイがほうっとため息を漏らす。 「やっぱり部屋に花があると良いわねえ」 「うん。比喩表現抜きで部屋が明るくなった気がするもん」 「色も色だからな、余計にそんな気がするよ」 三者三様、口々に言いながら花に見惚れる女性陣の傍で、僕は不満いっぱいな顔をしたまま、うち一人の袖を引っ張った。 「紫サン……僕もねぎらってくださいよ……」 「…………はいはいお疲れ」 「そんなんじゃ駄目です、身体でねぎらってください!」 「お前はどこの変態オヤジだ!」 今日二発目の肘鉄が、僕のわき腹に突き刺さる。……さっきより痛い。紫サンは本当に容赦ない。 と。 よく聞こえる僕の耳が、遥か彼方で廊下をバタバタと走る足音を聞き取った。その音が近づくにつれ、みんな音源の方に意識をむけるら。ほどなく、バッタン。盛大に扉を開け放つ音── 「お疲れ様ですっ! 吉野なの、ただいま華麗に遅刻しました!」 「威張って言うな。そして廊下は走るな扉はもっと静かに開けろ」 紫サンが形通りに叱ったところで、聴いていないのが吉野クオリティ。鮮やかな黄色に目を輝かせ、うわあ、と感嘆の声を上げる。 ……どうでもいいけど、紫サンを無視しないでよね。 「きっれーい! コレ菜の花ですよね!」 「そうよ。椎名先生からの頂き物」 「う……なんか複雑」 吉野が顔をしかめる理由が、椎名先生を苦手にしているからだと僕は知っている。その上で聞き返したのは、もちろん紫サンを無視したことへの報復だ。 「なんで?」 「お……乙女には色々あるんですっ!」 「どうして?」 「それに菜の花は好きなの!」 「だからなんで複雑なの?」 「……もう! 北条くんの意地悪!」 露骨な話逸らしに失敗し、吉野がヘソを曲げたところで僕は混ぜっ返すのを止めた。まあ多少溜飲は下げられたかな。 代わりに口を開いたのは佐伯センパイ、彼女がうんうん頷きながら食いついたのは、僕とは別のところだった。 「まあわかんないでもないけどねー」 「そうね」 「だな」 三人が三人、頷いて、それで僕もピンと来た。ああ、成る程。 「ですね」 「……何がですか?」 唯一わかってないのはやっぱり吉野だ。 首を傾げて問い返す。その疑問に答えたのは相澤センパイだった。 「なのちゃん。気がつかない?」 「えーと……何にでしょうか?」 「この花の名前は?」 「菜の花ですよね?」 「もう一回」 「菜の花……」 「……じゃあ、ゆっくりもう一回」 「…………菜の……」 言いかけて吉野はハッとした。あ、ようやく気づいたんだ。 「そ……そういうことだったのね?」 「……今更?」 「だからこんなに、わけわかんないのになんとなく大好きだったのね!?」 「『なんとなく大好き』って……」 吉野は衝撃の事実に愕然としている。それにみんなが笑った。いろんな意味で吉野らしいなあ。 その笑いが収まったところで、ドスドスドス、廊下から荒々しい足音が聞こえてきた。そしてその音は、着実に部室に近づいてきている。文芸部員ではないが部員には馴染みのこの足音は── 「こんにちは失礼します吉野なのはここに居ますね!?」 部室の扉を叩きながら開け放ち、そこまでを一息に言ってのけたのは、案の定、弓道着姿の下野だった。 断定の質問をしながらその答えを誰に求めるでもなく、自ら答えを見つけてずいずいと室内に踏み入ってくる。 「今日こそは弓道部に出てもらうからな!」 「いやーん、ひーくんご指名ですか?」 「調子に乗るな、このクルクルパー!」 お決まりのやり取りののち拳骨が降った。これもまたいつも通りだ。……下野はもう、半ば文芸部員と化してるんじゃないかと僕は思う。だって一日一回は部室で顔を見るし。 そのまま吉野を引きずって連行しようとする下野に、まあ待て、と紫サンが声をかけた。 「……なんですか、鷹月先輩」 警戒の色をあらわにする下野。紫サンがいつも下野で遊ぶから、身構えているらしい。気持ちはわかるけど。 す、とさり気ない動きで紫サンは立ち上がった。そしてそのまま瓶から菜の花を一本抜き取ると、それを眉間に皺を寄せた下野に差し出した。 「……なんですか、これは」 「悪いが今日はなのっちをくれてやることはできない。代わりにこれをやるから、おとなしく帰れ」 「はいそうですか、って納得できる筈ないでしょう!」 「そう言うな。下野、その花の名を知っているか?」 「……? 菜の花、でしょう?」 下野の表情に困惑の色が混じる。苦笑する相澤センパイと佐伯センパイ、笑みを深くする紫サン。そして、 あーあ。なんて顔してんの、吉野……。 「ん? よく聞こえなかったなあ」 「だから、菜の花でしょう?」 「……もう一回」 「菜の花ですっ! もう、一体なんなんですか!?」 「じゃあ、『花』を取って、もう一回」 「……なの…………っ!?」 そこまで言って下野も気づいたらしい。そして自分の右手に視線を落とす。 「ひーくんが……ひーくんが、なのの名前を……名前を連呼して……!」 「…………!? ち、違う! 断じて違う!」 デレデレととろけた表情の吉野を突き放し、下野は部室を飛び出していった。来た時と同じかそれ以上の荒々しい足音がすぐに遠ざかる。 「紫ちゃん……」 「相変わらずアイツは面白いな」 「悪い人ねえ……」 ちっともそんなこと思ってなげな口ぶりで、相澤センパイはそう言った。 ナノハナ 紫サンが下野で遊ぶのは面白くないけれど、 下野で遊ぶのは確かに、面白いのだ。 |