本当は◯◯なCoideko童話 -美女と野獣変F- |
「遅いな……」 小さな呟きが、独りきりの部屋にこだましました。 ──そう、彼は未だ独りでした。彼女が家に帰ってから幾星霜、待てど暮らせど帰ってくる気配はありません。 愛想を尽かされたのだろうか、そんな弱気なことを考えて、すぐに野獣はその考えを打ち消しました。 彼女は……かんなはそんな女性ではない。共に過ごした時間は僅かなれど、野獣はそのことを身を以て感じていたからです。 となれば、彼女が帰ってこない理由はきっと── 野獣は庭の片隅を眺めやりました。彼女が立ってから何度となく見ている『それ』は、確実な異変を見せていました。 それを今一度確認して、野獣は再び、ぽつりと呟きました。 「動くか……」 はあ。誰にも聞かれないように小さく溶かしたため息を、しかし彼女は耳聡く拾っていました。 「どうしたの、かんなちゃん」 「志乃ちゃん……ううん、なんでもないわ」 「なのちゃんの気持ちもわかるのよ、アタシだってかんなちゃん帰ってきてくれて嬉しいしさ。けど──」 「かんな、ちゃ〜ん!」 バタバタと賑やかな足音に、志乃が口をつぐみました。そしてその直後、文字通り飛んできたなのが、かんなを押し倒したのでした。 「かんなちゃんかんなちゃんかんなちゃん!」 「はいはい。どうしたのなのちゃん」 「押し倒されといて許容範囲広すぎだよかんなちゃん……」 苦笑しながら志乃がなのを掴み起こします。猫のように首根っこを掴まれながら、なのは尚もゴロニャンとかんなに甘えたな声で言いました。 「母さんがクッキーを焼いてくれたのです! だからなのはかんなちゃんのお茶が飲みたいです!」 「だから、の間にもう一文挟もうか、なのちゃん。リテイクできないとお茶ナシよ」 「いや〜!」 「まあまあ、志乃ちゃん。良いのよ、ちゃんとなのちゃん語は解読できるから」 「かんなちゃんマジ愛してる〜!」 「甘すぎだよ、かんなちゃん……」 もう一度、苦笑した志乃はなのを離してやりました。今度は押し倒さずに飛びつくなのをまとわりつかせながら、かんなはこっそりと、小さなため息を吐いたのでした── 【一方その頃──】 「すまない。かんな嬢の家は此方か?」 「……君は?」 「俺はさるお方の使いでやって来た者。かんな嬢に言伝を預かってきた。是非とも彼女にお会い……したいの……だが……。 ……取り敢えず、どうしてそんなにじっくりまじまじと検分されるのか、その理由を聞いても良いだろうか」 「……ふーん……さすがだね、またとないタイミングで、またとない布石を敷いてくるなんて……」 「人の話を聞け!」 「うん、構わないよ。ただしここは家じゃなくて僕の仕事場だから」 「そ……そうか、それは失礼をした」 「構わないよ、僕もそろそろ帰ろうと思ってたところだから。じゃ、一緒に行こうか……君、名前は?」 「俺は──」 【またまた家】 「かんな。どうした?」 「え?」 思わぬ問いかけにかんなは目を瞬かせました。真向かいの席に座った母親が、じっと自分を見ています。 「別に、何も……」 「そうか。ならいいんだが」 そう言って母親は紅茶に口をつけました。そしてそのまま落ちる沈黙。静かで、でも心地の良い時間がゆっくりと過ぎていきます。 そして次に口を開いたのもまた、母親でした。 「かんな、今の君は、満たされているのか?」 ──何気なさを装った鋭い問いかけに、かんなは思わず俯きました。 ここはいつだって賑やかで、居心地の良いとても幸せな場所でした。でもかんなは知ってしまったのです。ここよりずっと静かだけれど、もっと落ちつける、もっと安らげる場所を── 『……この花が咲くときを、貴女と一緒に見ていたい』 不意に、野獣の声が脳裏に蘇りました。 館の花園、その際奥にひっそりと生えた小さな植物の苗。 その前で、旅支度を終えたかんなに野獣は言いました。 『この花は館にある花の中でもとりわけ希少なものだが、滅多に花を咲かせることはなく……そうして顧みられることもなく枯れようとしていた。かんな、貴女がその花に惜しみなく愛情を注ぎ、慈しんでくれたおかげで、花は再び蘇り、再び花芽をつけるに至った……だから』 野獣はかんなの手をそっと握ると、まっすぐに見つめながら言いました。 『この花が咲くまでに、ここへ戻ってきてほしい』 ──あれからどのくらい経ったのでしょう。花は今、どうなっているのでしょう。……自分は一体、どうすれば良いのでしょう。 彼も、家族も、選びきれない自分は── ポン。頭に触れた手に、かんなは顔を上げました。見上げると、優しい笑顔の母親が、すぐそばに立っています。 「かんな、君の優しさは得難く尊い、かけがえのないものだ。私たちはいつも、その優しさに助けられてきた。だから……たとえその優しさを自分に向けたとしても、私たちは誰も君を責めたりはしないよ」 「お母様……?」 「君は、君の思う通りに生きればいい」 何も言ってはいないのに、すべてお見通し、と言った風に母親は笑いました。どうして、かんなが尋ねるより早く声をあげたのは。 「お母さん……お母さんまでどーしてそんな、かんなちゃんを追い出そうとするんですか!?」 「人聞きの悪いことを言うな、なの。私はかんなに選べと言っている」 「だってだってそうしたら、かんなちゃんは野獣のところに戻っちゃいそうなんですもん! かんなちゃんは……なののお姉ちゃんなのに!」 叫ぶなのに、そうだな、母親は宥めるように同意しました。 「かんなはなのの姉で、私の娘で、……そして一人の人間だ。かんなの主はかんなであって他の誰でもない。何を選ぶのも決めるのもかんな自身だ」 「だったら! お姉ちゃんと一緒にいたいってなののお願いを聞いてくれたって……」 「なの……それはお願いじゃないよ、束縛だ。なのは聡い子だから、ちゃんとわかっているじゃないか。かんなの気持ちを。だから……」 「でも、だって、わかりたくないんですもんっ!」 「ただいまー」 叫んだなのの声に、場違いなほど呑気な声が被さりました。長身を折るようにして扉をくぐった父親に、呆れたような声で母親が言いました。 「おかえり、大海。もうちょっとこう、空気を読むとかできないのか?」 「ただいま、紫サン。ちゃんと読んでましたよ、あなたの素敵な口上を遮らないように、絶妙のタイミングでただいまって言ったじゃないですか」 「お前なあ……」 ため息を吐く母親の頬にただいまのキスを(一方的に)してから、父親はかんなに向かって言いました。 「……かんな。君に、お客だよ」 そして── 初めて会うはずなのに、何故だかよく知っているような『彼』から告げられた言伝に、かんなは大きな目を更に大きく見開いたのでした── |