![]() | とある土砂降りの日の景色 |
今朝は雨は降っていなかったが、午後からの降水確率は70パーセントでまず雨が降るのはわかっていた。 だから当然傘を持って登校した。その筈だった。 ……それなのに。 「どうして傘が無いんだ……」 俺は眉間に皺を寄せた。 俺は傘を持ってきた時、いつも同じ場所に置くようにしている。だが朝そこに置いた筈の傘がない。念の為、その近辺を探すがやはりない。となれば、考えられるのは── 「誰かが間違えて持っていったか、無断で持っていったか、だな」 前者は兎も角、後者は窃盗だ。もし本当に後者なら由々しき事態なので、せめて前者であって欲しいと思うのは、トラブルは少ないに越したことはないという生徒会長的思考によるものだが。 しかし。 「どうするかな……」 ざあざあざあ。土砂降りの外を見ながら、俺は誰にともなく呟いた。 「何を、どうするの?」 独り言に答えが返ってくるとは思っていなかったので、少なからず俺は驚いた。 だがその声が、良く耳に馴染んだものであったから、さほど動じた姿を見せることなく振り返ることができた。それは最早習い性のようなものだ。 「かんな。今帰りか?」 「うん。部活で遅くなっちゃって。……こう兄は? まだ帰らないの?」 「傘が行方不明なんだ」 「え? 朝持って来てたわよね」 「ああ。だから行方不明と言ったんだ」 「そうなの……でもちょうど良かったわ」 ニコリと笑うかんなに、俺は僅かに眉をしかめた。……何が良かったんだ? 「私が部活で遅くなったから、こう兄が雨に濡れて帰らなくっても良くなったんだもの」 「……どういうことだ?」 「えっと、その……だから、一緒に帰ろ?」 そう言って彼女は顔を赤らめながら目を伏せた。……不覚。ドキリと跳ねた心臓を無理やり押さえつけて、俺は視線をかんなの手元にずらした。 さり気なくレースをあしらった薄い黄色の傘は、俺と一緒に買い物に行った時にかんなが一目惚れして買ったものだ。彼女にはこれ以上もなく似合うが、つまり、 「……この傘に、二人で入って帰るってことか?」 「うん。……駄目?」 首を傾げながら見上げてくる、無意識のおねだりポーズに俺はすこぶる弱い。だがかんなはそれを知らない。 「いや……ありがとう。助かる」 言って俺はかんなから傘を受け取った。女物の小さめなそれを開き、二人で入って早足で雨の中に飛び出した。 (これは……思った以上に、近いな) 駅への道を急ぎながら、俺はそんなことを考えた。 定員一人の小さな傘は、二人を納めるには難がある。濡れないようにするにはかなりくっつかないと厳しい。 (俺はいいが、かんなを濡らす訳にはいかないし) もともとかんなの傘だし、俺がこんな羽目に陥ってなければかんなは濡れることはなかった筈だ。 俺は心持ちかんなに近寄った。当然のように体が触れる。そして少しでもかんなが濡れないよう、だけどそれを彼女に気づかれないよう、僅かに彼女の側に傘を傾けた。 ざあざあざあ。沢山の雨粒が絶え間なく傘を叩く。 「…… ……な」 「え?」 かんなの声は雨の音にかき消されて聞こえなかった。聞き返した俺にかんなが返した言葉は、『何でもない』。 「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えよ?」 「うん……良かったな、って思って」 「何がだ?」 「うふふ。内緒ー」 「生意気だぞ、かんなの癖に」 「こう兄、ひどーい!」 怒りながら嬉しそうなかんなの顔に、こちらも顔が綻んだ。 良かったな、と言うのは俺の方かも知れない。 たまたま傘が行方不明で、 たまたまそこにかんなが居合わせて。 たまたま、のおかげでかんなと相合い傘が出来て。 (……傘を無くした代償としては、十分過ぎる見返りかもな) ようやく見えた駅に着くのが惜しいなと、俺はそんなことを考えた。 とある土砂降りの日の景色 まさかこう兄と相合い傘ができるなんて、思ってもみなかった。 だってこう兄が傘を忘れることなんてないし、わたしも雨が降りそうな時はこう兄が指摘してくれるから、急の雨に傘が無くて困ったことはない。 だから一緒に傘に入って帰る、なんてこと、今までになかった。 (不謹慎だけど、こう兄の傘が無くて良かった、って思っちゃった) でも、相合い傘って、思った以上にドキドキする。 ──こう兄が近くって。 触れる、どころかくっついているのが当たり前、みたいな距離感で。 ちょっとでも離れたらすぐに濡れちゃいそうだから、ドキドキが聞こえないか心配なくらいで。 そしてわたしが濡れないように、こう兄が少しだけわたしの方に傘を張り出してくれてることに気がついて。 (……こう兄、優しい) いつもより高い位置の傘にちらと目を遣って、わたしはふふっと微笑んだ。 |