生徒と教師の非日常…弐の巻 |
今日も彼が来る。 この人気のない侘しい旧校舎最奥の研究室に。 コン、コン、コン。 決まりきったリズムのノック音が静かなラボの隅々に響き渡った。 「……ヒロくん、ここ……、」 「失礼しまーす。」 清々しく入ってきたのは文芸部黒一点のヒロくんこと、北条大海であった。大海が部屋の隅にこのラボの主の姿を見付けると忠犬よろしく真っ直ぐに駆け寄る。 「椎名先生、お土産で……、って一体何をするつもりだったんですか!?」 笑顔で覗かせた先にはガラクタ(のようなもの)と段ボール数箱に埋もれた椎名が引っくり返っていた。 「……ヒロくん、いらっしゃい。」 「お邪魔します。ってまた棚の上の物を取ろうとしてこの有り様ですか。」 大海の質問に椎名は逆さまになった顔を大海の頭上方向へコクンと動かした。 辺りには埃も舞っていて、大海の手土産は早々遠い机の上に避難させられる。 「で、先生。何時からこのような状況に?」 「……んー?さっきチャイムが鳴って……から?」 さっきのチャイムがどのチャイムに当たるのかは大海は椎名の答えから最早判ったものではない。ただ判るのはそれが1時間以上前だと言うこと。 「僕が来なかったらどうしてたんですか?」 「……ヒロくん待ってたから大丈夫。」 「全くもう。さあ手を貸してください。」 「……抱っこ?」 「それは佐伯センパイにお願いしてくださいね?僕は先生の体を起こしますから、足を山から引き抜いてください。」 大海はそう言うとテキパキと椎名の上半身を起こして、そのまま後ろへと引き摺った。 漸くガラクタ(のようなもの)の山から解放された椎名は空かさず、脇に差し込まれた大海の片腕に抱き着いた。大海はそれをいとも気にせず、手土産を置いた机まで引っ張る。 「もう、先生の白衣、埃まみれですよ。」 椎名の目線とは逆に大海は白衣に着いた埃をパンパンと叩く。これが教師と生徒の関係だ。いつものことながら立場は逆である。 「……サクランボ。」 「そう、先生にお土産に……って白衣の埃を落としてからにしてくださいね。」 「……うん。」 サクランボは国産品でプリッと丸みを帯びて身が詰まっている。艶々しく、また瑞々しいその色合いは椎名の目の虜にした。 勿論、食するという意味合いではなく、どうすればあれだけ立派な実がなるのかと言う観点である。 大海に埃を払って貰ったところで椎名はサクランボの形状の観察に没頭を始める。 下から、上から、真横から。繰り返し、繰り返し、それは止まらない。 しかしそんな椎名は許容範囲内の大海はサクランボの経緯を話し出した。 「実はこれクラスの中上が昼に持ってきたものを貰ったんですよ。先生にもお裾分け。」 「……へえ。」 「先生はやったことあります?」 「……何を?」 「サクランボの軸を口の中でリボン結びが出来るかどうか。」 サクランボから大海に視線を移すと椎名はフルッと首を横に振った。 そんな芸当が口の中で出来るものか。 「……ヒロくんは出来るの?」 「一緒に試してみません?」 「……ヒロくんと一緒なら。」 ムグムグ。まず甘いサクランボを美味しく頂く。 いつもは何とも思わないサクランボも今日は椎名に甘味を伝えるのはやはり大海と一緒にいるからだろうか。 そして大海のニッコリ笑顔を合図にサクランボの軸を口中で弄る。 そして約30秒後、二人の出した舌の上には綺麗にリボン結びがされたサクランボの軸がお目見えした。 しかも椎名の方は軸が二本あり、可愛いリボン結びも二倍である。 「椎名先生はやっぱり天才だ!蝶々結びも、アレも!」 「…………?」 手を叩いて椎名を称賛している大海の言っていることが椎名には理解が出来ず、思わず訝しげに首を捻る。 「椎名先生〜、その首の稼動域は梟ですよ。」 「……意味が判らないんだもん。」 そんな椎名に大海はクスクスと笑うと、この蝶々結びの意味を続けた。 「サクランボの軸を口の中で蝶々結びが出来る人ってキスが巧いらしいんです。だから先生は上手ってことですよ。」 「……ヒロくんだって出来たじゃん。」 「僕も、みたいですね。紫サンを満足させられていたら嬉しいけど。」 大海の頬が目一杯綻んだ。椎名にとっては若干面白くない話題だ。 大海が紫のことを満面の笑みで語るから。 『ヒロくん』を独占される瞬間だから。 「……じゃあその巧いキスとやらを教えて。」 「えっ?先生はもう経験済みでしょう。」 「……それが巧いか判らない。ヒロくんが教えて。」 「それは佐伯センパイにも失礼ですよ。」 「……実体験、必要。」 「必要はありません。」 顔を差し攻める椎名に大海が笑顔できっぱりと返した次の瞬間であった。 ドサドサドサドサ。 ラボの扉の方から何かが崩れ落ちる音。呆けた顔で固まった人影が二つ。 良く見ればそれは各々の彼女である、紫と志乃だった。 二人は椎名から借りた資料を丁度返しに来たところだったらしい。 目の前で男同士が。 しかも自分達の彼氏が今にもキスをしようかとするこの距離と光景に、紫は大海の鳩尾を、志乃は椎名の顔に本を投げ付けると大きな音を立てて扉を閉め、去って行った。 「あたたた、なんで僕まで鳩尾パンチ……。」 「……ヒロくん、実験。」 「……続きは佐伯センパイとしてください。」 大海の手が掴んだ椎名の顔は大海のリーチの長さのお陰で、そこから先には辿り着けたとか、着けなかったとか。 生徒と教師の非日常 弐 (……僕がやってみせなければ一番良かったのかも。) |