怖いものはなんですか?



 


 文芸部部室から轟いた悲鳴に、聖は迷わず駆け出していた。

 目的地から聞こえた、目的の人物の悲鳴。挨拶も無しに部室に駆け込んだ彼が見たものは、

 机の上を遠巻きに眺めるかんな、志乃、なのの三人と、
 机の上に鎮座すました大きな蜘蛛と、
 それを今まさに、素手で塵取りの上に移動させようとしている紫と、
 彼女を見ながら苦笑いしている大海の姿だった。

 さあ何と言おうか。聖は考えた。とりあえず――



「鷹月先輩……クモ、平気なんですか?」
「コイツは別に咬まないぞ?」

 誰もそんなことは聞いてないし問うてない。部室にいた全員がそう思った。

「それより下野。他部の部室に挨拶も無しに飛び込んでくるとは、それこそご挨拶だな」
「失礼しました。悲鳴が聞こえたので何事かと思って……」
「構わない。ちょっと言ってみただけだ。なのが悲鳴を上げたから気になったんだろう?」

 悪戯っぽく問いかける紫には何も答えず、聖は開け放した扉を閉めようとした。

「ああ、良い。開けておいてくれ」

 その言葉に聖は動きを止める。紫がちょんとクモの腹をつつくと、クモはわさわさと緩慢な動きで塵取りの上に移動した。そっと塵取りを持ち上げた紫は、それをそのまま聖に差し出した。

「……何ですかコレは」
「クモだ」
「それはわかります。どうしろと言うんですか」
「外に逃がしてやれ」
「どうして俺が?」
「そこにいるからだな」
「嫌です」
「仕方ないな……じゃあ北条」

 紫は肩を竦めて、今度は塵取りを大海に突きつけた。さすがに大海の笑顔が引きつる。

「ええと……窓からポイ、とかじゃダメですか?」
「駄目だ。クモは益虫だぞ。大切に扱え。……仕方ないな、私が行ってくる」

 まるでどこかの生物教師が言いそうなセリフを残して、紫は開けっ放しの扉をくぐると、廊下をゆっくり歩いていった。いつものように駆け足でないのは、風圧でクモが飛ばないようにという心配りのようだ。

 なのが大きな息を吐いた。



「あー……怖かった」
「部室に入るなりあんなのがいたら、さすがにビックリするね」
「いつも紫ちゃんが片付けてくれるから、助かるわ」

 志乃とかんなが重ねて言った。どうやら日常茶飯事な事件らしい。そしてこんな時誰も大海に頼ろうとしないあたり、大海の立つ瀬がない。
 苦笑しながら台拭きを濡らしてきた大海が机を拭く。それを見ながら考えたことを、聖はそのまま口にした。

「……鷹月先輩に『怖いもの』ってあるんですか?」






怖いものはなんですか?



 聖のその言葉に、皆それぞれに考え込む。

「そう言えば……聞いたことないかも」
「前にゴキブリが出たときも、ムカデが出たときも、あっさり片づけてくれましたもんね……」
「基本的に『怖いもの知らず』って感じだものね、紫ちゃん」

 かんなの言葉に、一同は一様に頷いた。

「さすがに、虫が出て悲鳴を上げる紫サンを想像してた訳じゃないですけど……あの対応はちょっと……予想外でした」

 大海が本当はちょっとクモが苦手なことを、聖は知っている。よく耐えたなと思う。きっと想い人の前で情けない姿を晒したくなかったのだろう。

「あの分だとヘビやカエルでも平気そうですね」
「紫ちゃん、前美化活動中にカエル見つけてじっと観察してたよ。可愛いって言ってたけど」
「……どういう感性してるんですか」
「本人に聞いてみるのが早そうね。ね、紫ちゃん?」



 律動的な足音に、開け放した扉に目を遣りながらかんなは言う。呼ばれた名前に反応して、彼女は問い返した。

「何が?」
「紫ちゃんに怖いものってあるのかな、って話をしてたの」
「……悪趣味だな。弱みになりそうなことを広言すると思うか?」
「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの。紫ちゃんって、虫とか両生類爬虫類とか、所謂『ゲテモノ』系も平気じゃない? そんな強い紫ちゃんに怖いものはあるのかなって……ただ純然たる興味よ」
「そうか、すまない。そうだな……『何か』は言わないけど、あるかないかと聞かれたらあるよ」
「え!? あるんですか? 何が?」
「……特にお前には絶対に言いたくない」

 問い返した大海には渋面を返して、紫はちりとりを片づけながら言う。



「所謂ゲテモノも、相手をきちんと知って、きちんとした対処をすれば何も怖くないだろう? だから知識は必要なんだ」
「生理的嫌悪感にはどう対処すればいいの?」
「根性でどうにかする!」



 ――きっぱりと言い切った紫を、部屋にいた誰もが格好良いと思ったのは言うまでもない。
 だが結局、彼女の怖いものがなんなのか、明かされることは無かったのである。


 
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