![]() | 学園祭、初日 -渋くて、甘い- |
控えめだがはっきりと聞こえるノックの音がした。 俺は首を傾げた。この叩き方は彼女だが、今は昼休憩には遅いが放課後には早い半端な時間だ。 どうしてこんな時間に、思い至って俺はひとりで頷いた。そうだ今日は学園祭で、俺を追い立てるチャイムの音がしない。だから存分に自分の部屋に引き隠ることができるのだ。 もう一度扉を叩く音がして、それから僅かに隙間が出来る。外界と自分の世界を遮断する扉を、開くことを赦しているのはごく少数で――そして隙間から流れ込んで来た声は、その最たる人物のものだった。 「あの……、先生?」 「空いてる。入って」 扉の内に滑り込んで来たのは志乃だった。レトロな着物姿の彼女は新鮮に見える。そしてそれは確かに彼女に似合っていた。 「……どうしたの?」 「ようやく時間が取れたから、お昼ご飯を食べに来たんですけど、いいですか?」 「いいけど……今頃?」 「ええ。ちょっとトラブルがあって、朝からずっとバタバタで。あー、お腹空いた!」 俺の許可を得た彼女は、大ぶりな手提げ袋から小さな弁当箱を取り出した。華奢な彼女は食も細い。 「……相変わらず、少ないね」 「アタシは良いんです。むしろ紫ちゃんですよ、あれだけエネルギッシュなのに食細いんですもん。どれだけ燃費良いんだか」 言いながら、猛然と弁当を片づけていく。口は喋る方と食べる方、両方に忙しそうだ。 「……紫サンも、食べないの?」 「食べませんねー。意外でしょ? でも途中途中で糖分採ってるみたいです。キャラメルとかチョコとかキャンディとか」 「そうじゃなきゃ、保たないよね」 「多分胃がちっちゃいんですよ。食べられないけど、すぐお腹空いちゃう」 「……それはアンタも同じでしょ?」 「うっ。良くご存知で」 小さな口が小さなおにぎりを頬張る。さっきご飯を食べたばかりだけど、なんだかお腹が空いた気がした。何故だろう。 間もなく志乃は小さな弁当を空にした。そして弁当箱を手提げ袋に戻すと、ガサゴソと袋の中身を漁る。そして中から違うタッパーを取り出した。……まだ食べるのだろうか。 それから小さな魔法瓶と、プラスチックのカップを二つ。魔法瓶の中身をカップに注ぐと、良い香りがした。 「先生。お茶しましょう!」 「……お茶?」 「だって先生、店には来てくれないでしょ? だからちょっとでも、気分を味わって欲しくって……お茶と、お菓子と、それからアタシと」 最初の威勢がだんだん小さくなる。ボショボショと言う志乃は、俯いているのでつむじの上のリボンだけがはっきり見える。……可愛い。 「……ありがとう。貰うよ」 俺はコップに口をつけた。……渋い。 「あっ、先生。お茶、渋いですよ?」 眉をしかめた俺を見た志乃が、慌てて俺の口にタッパーから出した焼き菓子を摘んで放り込む。むしゃむしゃと噛み砕いて、甘さにホッとした。 「……美味しい」 「でしょう? で、これにお茶を合わせたら、お茶がとびきり美味しくいただけるんです」 俺は眉をしかめてからお茶を飲んだ。……あれ、今度はそんなに苦くない。むしろ―― 「うん、美味しい」 「良かった!」 嬉しそうに、ホッとしたように彼女は笑う。俺も釣られて口角を上げた。 「これね、紫ちゃんが作ってくれたんです。で、甘いから渋いくらいのお茶が合うんだって。先生、甘いの好きだから、どうかなって思ったんだけど……口に合ったなら良かった」 「ふーん……」 もう一度、お茶に口をつけた。今度はまた渋い。 そう言えば、今日は志乃の口から紫サンの話しか聞いていない。彼女は志乃の友人で、ヒロくんの彼女で、とても良い子で……だけどなんだか、面白くない。 「……志乃」 「何ですか?」 「お茶、渋かった。お菓子頂戴」 「もう……はい、どうぞ」 志乃はタッパーを差し出してくれた。だけど、 「……違う」 「何がです?」 「志乃が食べさせて」 「……え!?」 「さっきみたいに」 「ええっ!?」 「味わわせて、くれるんでしょ?」 目を細めて言う俺と、目を見開く志乃。 白い肌が一気に赤く染まる。自分が何をしたか、今になって気づいたらしい。 「食べさせて」 もう一度言うと、志乃は躊躇った後、菓子をひとつ摘んで俺の口の前に差し出した。俺は遠慮なくそれを食べた。……彼女の指ごと。 ――さっきより、ずっと甘い味がした。 学園祭、初日 -渋くて、甘い- (せ……先生! 指……!) (ああ、うん。美味しかった) (なっ……!) (ねえ志乃……まだ時間はあるんだよね?) (え!? え……と、ありますけど……) (じゃあ残り全部、今みたいに食べさせて) (そ……そんなサービスはしてませんっ) (じゃあ俺だけに、特別サービスで) (もう……っ!) |