野良さんの事情









何だか僕のいる裏庭まで高揚する空気が髭を擽る。
旧校舎から流れる音はいつにも増して大きいし、長いし、終わるのも遅い。

ピンと立つ僕の耳と一緒に椎名くんの気がざわつき出すのにも直ぐに気が付いた。
無意識のうちに眉間に一本の縦線と、花壇を弄る手がさっきから一向に進まない。土を一摘まみしては裏山の方へ投げていた。まるでいじけた小学生みたいである。





「ニャア。」
椎名くんってば、そんな顔しないで、遊ぼうよ。

「……野良か。耳、痛いな。」

そう言うと椎名くんは泥だらけの手で僕の頭をくしゃっと撫でた。土の匂いがする椎名くんの手が僕は大好きだ。
彼が触れる土は魔法のように綺麗なたくさんの草花を育て上げるんだから。

あ、疑ってる?あの椎名くんがって?
嘘なんて吐いてないよ、本当だよ。
一番傍で見てる僕はそれを自信持って証言出来るよ。もう春夏秋冬を何回一緒に過ごしたかな。





「ニャア。」
ねえねえ、手が進まないなら遊ぼうよ。

僕は身体をくねらせながら椎名くんの背中に擦りついた。全身でアピールをする。

「……何がしたいんだ?」
「ニャア。」

そのまま僕は椎名くんの座り込む膝と膝の間に身体を擦り込ませた。
そして尻尾の先をパタパタわざと揺らしてみる。





「……そのまま詰まりは撫でろと?」
「ニャア!」

待ってましたと言わんばかりに椎名くんに首を上げて首から頭をゆっくりと撫でてもらう。
とても繊細な手先で僕が感じていることはいつもこの指先から彼へと伝わってしまう。

ぞもそも猫自体そこまで繊細に表現や主張は出来ない種ではあるが、椎名くんはそれをこちらから発進しなくてもセンサーで読み取ってくれる。





と、まったりとした二人の時間を過ごしていると突然頭上から少女の声が響いた。

「あ、椎名先生ー、野良ちゃーん。」

旧校舎三階の廊下の窓から佐伯ちゃんが身を乗り出すように手を振っていた。
しかしいつもの佐伯ちゃんとは雰囲気が違っていて、僕の耳もピクリと反応し、大きな瞳で三階の窓を見上げる。

「……あんたのその頭のリボンと着物なに?」
「あ、気が付いてくれました?実は今文化祭での出し物で着る衣装合わせをしてるんです。」

佐伯ちゃんの頬が紅潮している。それは椎名くんと話をしているからか、普段は鈍い椎名くんがいつもと違う自分に気が付いてくれたからか、着物と言うものを着て嬉しいからか。

「ねえ、野良ちゃんどうかな?似合う?」
「ニャア。」
うん、いつもの何倍も可愛いよ。

「ありがとう。」

佐伯ちゃんの笑顔に更に嬉しさが加わった。まるで花弁でも舞って来そう。僕の尻尾も無意識にパタリパタリ動いてしまう。





「ニャア?」
あれ、椎名くん?

三階の窓から見える佐伯ちゃんの溢れて止まらない笑顔から僕を抱え込む椎名くんに視線を移す。
いつもの佐伯ちゃんとの違いに気が付いてから、そう言えば何の反応もない。

するとそこには──。





白を僅かに染める桃色の僕にとても近い肌。
こちらでもいつもの椎名くんとは違う椎名くんを見た。僕を抱え込む腕にぐっと力が入る。

椎名くん、照れている。
そうか、そうだよね。
うん、当たり前の反応だよ、安心した。





「……椎名先生はどうです?この格好?」

佐伯ちゃん、今訊いちゃダメだよ。本人にそんな余裕なんてないんだから。

「椎名先生ってばー。似合ってないですかー?」

佐伯ちゃんの頭に結われたリボンがふわふわと揺れて、着物の袖を摘まみながらお披露目のポーズを取る彼女は些か不安そう。





「……別に良いんじゃない?」

漸く絞り出した椎名くんはプイッと視線を横に背けてしまった。
相変わらず肌は桃色のままだ。

「……わかりました。」

佐伯ちゃんの顔からは笑顔は消えていて代わりに唇が突き出されていた。
嬉しさからすっかり不満気な表情に塗り替えされてしまった。

ああ、二人とも不器用さんなんだから。





「……ニャア?」
椎名くん、後一歩頑張ってみようよ?ヒロくんが教えてくれたでしょ?

ぺろっと僕は桃色の頬を舐めると先を促す。





「……じゃあ、またね。先生、野良ちゃん。」

佐伯ちゃんが淋しそうに三階の窓を閉めようとした瞬間だった。ザワッと周りの木々が騒いでからその一言が佐伯ちゃんのいる三階へ真っ直ぐ、確かに進んで行った。

「……似合ってる。……可愛い。」

佐伯ちゃんの窓を閉める手が止まる。二人の間に流れる時間も止まる。

僕は彼の腕の中から飛び出した。





裏庭には肌を桃色から紅色に変化させた恋人同士。





野良さんの事情

(頑張れ、頑張れ。)
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