『ダイジナモノ15』 -本当に、大事なもの- |
「む……無理!」 「どうして?」 「だって……やっぱり恥ずかしい……」 「慣れですよ。ほら……恥ずかしくなくなるまでつき合いますから」 「……やっぱり無理!」 -本当に、大事なもの- あの忌々しい事件からひと月が経った。 室津ミオはあの後すぐに転校していった。 安藤和臣は何かに憑かれたように剣道に打ち込んでいるらしい。これはイズミ君情報だ。きっと紫サンへの思いを振り切ろうと、がむしゃらに頑張っているんだろう。 紫サンは――すっかり元通りだ。 ただ以前より、甘えてくる頻度が増えた気がする。もちろん二人っきりの時限定だけど。 あれから、名前を呼ばれることはない。それでもたまに聞きたくなって、おねだりしてみるのだけど――やっぱり、駄目。 今日も結局断られてしまった。 何となく、沈黙が落ちた。 紫サンの自転車を押して僕は歩く。その隣を紫サンが歩く。学校から徒歩五分の僕の家までの、短い距離を二人で帰る。もう馴染んだ下校風景だ。 てくてくと歩くことしばし。家までもう少しになったところで、紫サンが口を開いた。 「……その……北条、あのな」 「はい?」 「……何でもない」 何か言いかけて、口を噤んでしまった。何なんだろう。首を傾げながら、また歩く。 彼女の長い髪が、歩く度に揺れる。たまにチラリと覗くうなじを見ると、あの時の赤い花を思い出す。 シルシを付けたい程切羽詰まる気持ちになることはなくなった。でもまたいつそんな相手が現れないとも限らない。……何せ魅力的な人だから。 ………………。 「紫サン」 呼び止めると、彼女は立ち止まった。振り返る間に距離を詰め、身を屈める。 ――不意打ちのキスに、彼女の顔が瞬時に朱くなった。 「お前……ここ、外……!」 「ごめんなさい。キスしたくなったので、しちゃいました」 「したくなったからって勝手にするな! ちゃんと聞け!」 「じゃあ聞いたらOKしてくれるんですか?」 「…………考える」 そっぽを向いて、彼女はスタスタと歩いていく。家までの残りわずかな距離がさらに短くなる。 ……ああもう家が見えてきた。明日までまたしばしのお別れだ。 家の前で自転車のハンドルを紫サンに渡した。名残惜しくてそのまま彼女の手に自分の手を重ねる。彼女は重なった手を見て、それから僕の顔を見て、ため息をついた。 「これじゃ、帰れないんだけど」 「……ごめんなさい」 そうは言うものの、なかなか手を離しがたい。あの夜は良かったな、とつい不謹慎なことを思ってしまう。――彼女を抱きしめて眠った、あの夜。 ベッドは窮屈で、そこに彼女がいることにドキドキして、僕は本当は眠るどころじゃなかった。 でも彼女は僕の腕の中で穏やかな寝息を立てていて。時折ぎゅっと眉根を寄せ、無意識に縋ってくる彼女を、僕は優しく撫でて、抱きしめて、名前を呼んで、キスをして。彼女が悪い夢を見ないように、一晩中守った。 朝起きた彼女は、僕の腕の中にいることに気がついて真っ赤になった。そんな彼女に僕はおはようのキスをした―― まだ早いとわかっているけれど。 同じ家に帰って、一緒に眠って、一緒に起きて、そんな日が早く来ればいいのにと、そう思ってしまった。 ――でも今日は、ここでお別れ。 僕はしぶしぶ彼女の手を離した。 「じゃあ、また明日」 「また明日な、――大海」 …………え。 その響きに顔を上げた時にはもう、紫サンは自転車に跨って走り出しているところだった。 「……言い逃げ……」 僕は顔を押さえた。不意打ちをするのは慣れているけど、不意打ちをされるのは、慣れてないからかなりヤバい。 しかも彼女は自覚なくそれをやってのけるから――タチが悪い。 「紫サンてば……」 嬉しいことしないでくださいよ、もう。 僕は上機嫌で家のドアをくぐった。 |