『ダイジナモノ13』
-バイバイ、初恋-



 


 綺麗で、凛として、格好良くて。
 誰にも媚びず靡かず咲く高嶺の花のような、そんなユカリ先輩が好きだった。

 だけど。






「……ひろ、みぃっ!!」



 人に頼ることを潔しとしなかった先輩が、北条の名を呼ぶことを……助けを請うことを躊躇わなかった。
 ――その事実が、オレを打ちのめした。



「……先輩は……もう……オレの知ってた先輩じゃなくなったんだな……」



 思わず呟くと、ユカリ先輩が目を見張った。
 ハッキリしない意識が急にクリアになった気がした。嫉妬に染められて、室津にそそのかされて……オレは一体、何をしていたんだろう。

 足音が近づいて、鍵がかかっていた筈の扉が開く。
 北条に引き剥がされて、オレの手はあんなに執着していたユカリ先輩を呆気なく放した。抵抗する気はなかったけど、そんな間もなく殴られる。――頭が揺れるくらい重い拳だった。
 そしてユカリ先輩を抱きしめる北条と、彼に迷いなく縋る先輩を見て、オレはオレの恋が確かに終わったことを知った。






「……お前も馬鹿な真似をしたな」

 北条と一緒にやってきた相手は、まだ数回しか受けていない生物の、読めない名前の教師だった。
 彼の部屋に連れてこられ、一番に投げかけられた言葉に唇を噛んだ。――冷静に考えたらわかる。いくら自分が好きだからって、合意もなしに相手を抱くのは犯罪だ。

「オレは……停学ですか? それとも退学?」

 教師の耳に入っているんだから、少なくとも停学は免れないだろうな。他人事のようにそう尋ねたオレを見て、先生は呆れたように笑った。

「判断を下すのは生活指導の奴らだろう。……だがオレは今回の件、奴らに報告するつもりはない」



 ――耳を疑った。それをするのが、教師の役割じゃないのか。

「……もみ消す、つもりですか?」
「いや。前に言ったろ。着任早々、面倒事を背負いこみたくねーんだよ。……それに」

 飲みかけだったらしいコーヒーを啜りながら彼は言った。



「アイツが……紫が、それを望まねーから」



 オレは目を見開いた。ユカリ先輩の『名前』を呼び捨てた。……この人は何者なんだろう。
 その疑問に答えるように、彼は続けた。

「オレは、ずっと昔からアイツのことを知ってる。多分お前より前からな。十年近くつき合ってりゃ、そのくらいはわかるさ。
アイツは優しいから、お前が制裁を受けることを望まない。どんな形であれ、守りたいんだよ、内っ側の人間を。……だからオレは何も言わない。あそこにいたのはただの小鳥遊陽だ、小出高校の教師じゃない」

 そう言って彼は空になったカップを持って流しに向かう。じゃあじゃあと流れる水の音を聞きながら、ぼんやりと考えた。
 確かに、ユカリ先輩はそう言う人だ。だけど先輩を裏切ったオレにまで、先輩はそんな思いを向けてくれるのだろうか――?



「……先生」
「何だ?」
「先輩は……オレを、赦してくれるでしょうか?」
「さあな。それは紫が決めることだ。いくらアイツが強くても、今回はコトがコトだけに、どれだけ傷ついたかわからん」

 突き放したような彼の言葉は、真実だからより自分に刺さった。



「だが……それでも赦そうとするだろうさ、それがオレの知る紫だ」



 彼はそう言って濡らしたタオルを差し出してくれた。
 受け取ったそれを頬にあてがう。腫れた頬に冷たいタオルの刺激は強すぎて、涙が出たのはその所為だと思いたかった。

「……痛ぇ……」
「ああ。痛いな。痛いなら泣いとけ」



 頬を押さえたまま、オレはガキみたいに泣いた。
 感情がごちゃ混ぜになって、痛みまでごちゃ混ぜになって、訳がわからなくなって、涙がとまらなかった。






 週末は部屋に引きこもって過ごした。
 北条に殴られた頬が熱を持って痛んだ。ズキズキ、ズキズキ。痛みを抱えたまま、ずっと考えた。オレは一体どうすればいいのか。
 ……だけど結論は出なかった。

 そして、月曜日。



「和臣ー。ゆか姉から伝言。『向き合うつもりがあるなら、昼休憩に文芸部の部室に来い』だってさ」

 朝イチでイズミが伝言を届けに来た。オレは迷った。謝りたい、でも――
 迷っている間に昼が来て……オレは結局、文芸部の扉を開いていた。



「……向き合うつもりはあったようだな」

 呟くように言ったユカリ先輩の、真っ直ぐな視線が痛くて目を逸らす。彼女の後ろには――仏頂面で腕組みをした北条。



「先輩、オレ……」

 言いかけて言葉が出なくなった。何を言えばいいのか、何から言ったらいいのかわからない。ただ――



「ごめん、なさい」



 つっかえながら謝ると、思いの丈が溢れてきた。



「謝って済むとは思わないけど……謝らないと始まらないから……ごめんなさい、オレが間違ってた。何もかも。先輩……どうすればオレは償える?」
「安藤」

 立ち上がったユカリ先輩がオレの傍に歩み寄ってきた。顔を上げたオレの頬に、容赦のない一撃が炸裂する。――北条が殴ったのと同じ場所に。
 口の中に鉄の味が広がった。口内を切ったらしい。頬を押さえて呻くオレに、殴った手を振りながら先輩は言った。



「初めて本気で人を殴ったが、ちっとも良いものではないな。自分の手も痛いし相手も痛い。……殴っておいて何だが、やはり話し合いで解決するに越したことはないと、良くわかった」
「だから僕が殴るって言ったのに……」
「お前が痛い思いをするのも私は嫌だ」

 北条が眉をしかめながら彼女の手を取り検分している。大丈夫だから、と北条に言ってから、ユカリ先輩はオレに向けて笑った。



「安藤。これでもう昨日のことはナシにする。お前も忘れろ、私たちも忘れるから」

 言葉の意味を頭が理解するまでにしばらくかかった。そのくらい、予想だにしない言葉だった。

「ユカリ先輩……でも」
「お前はちゃんと間違いに気づいて踏みとどまった。そして償いたいと言った。……だからもういい」
「……忘れろって言われたんだから、素直に忘れれば?」

 ものすごい不服そうな顔の北条がオレを睨む。それなのにユカリ先輩の言葉に異論を挟もうとしない。
 ……勝てっこない。そう思った。

 オレは二人に頭を下げて、部屋を出て行こうと背を向ける。その背中に、ユカリ先輩の声がかけられた。



「安藤……傷つけて、すまなかった」



 ――オレは振り返らずにそのまま扉を閉めた。






 廊下に出て、数歩進んだところでオレは滲んだ涙を拳で拭った。

 ……確かにオレに傷つけられたのに、咎めるどころかオレを傷つけたことを謝るなんて。

 本当に、どこまでも優しくて。
 そう言うところも、大好きで、大好きで、仕方なかった。けど――






『ダイジナモノ13』
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 ――オレの初恋は、涙と血の味がする、しょっぱいものになった。
 だけど、それでもオレは、彼女を好きになって良かったと、確かにそう思ったんだ。


 
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