![]() | 荒れて、凪いで、まるで海のように |
隣を歩いていた北条が、あ、と声を漏らした。そのあとに続く、うわ……、と言うぼやき声。 訝しく思って彼を見上げると、厄介だとか面倒くさいだとか、そういう感情をまぜこぜにしたような顔をして、雑踏を――正確にはその中にいる人を見ていた。 北条の視線の先にいるのは、大学生だか社会人だかわからないが、バッチリメイクをした若い女の人。向こうも彼の姿を見つけて、手を振りながら近づいてくる。――満面の笑顔で。 ……ざわり。心が波立つ。 だがこの際、自分の感情は置いておかなければ。知り合いなら邪魔をしない方がいいし、それを妨げる権利なんて私は持っていない。 そう思いその場を離れようとした私の腰に、北条の腕が回された。 「ちょっ……北条!?」 「……紫サン。ちょっとだけ、何も言わずにつき合ってください」 「え?」 「訳はあとで話します。――お願い、します」 真剣な眼差しに思わず頷く。すると彼は少し笑って私を自分の胸に引き寄せた。広い胸の中に居ることに、ドキリ、心臓が跳ねる。 ――頭が働かない。なんで白昼堂々こんなことを? 普段なら怒るところだが、何も言わずにつき合ってくれと彼は言った。怒れないなら……ドキドキするしかないじゃないか。 カツリというヒールの音とともに、甘ったるい、キツく感じられるほどの香水の匂いが辺りに漂った。そして香水と同じような甘ったるい声。 「あらヒロ君。こんなことで会うなんて、奇遇ねー」 「……こんにちは葛城サン。店以外で会うのは初めてですね。お仕事帰りですか?」 「そうよ。今日は早番だったから。ヒロ君は今帰り?」 「いえ。デート中なんです……彼女と」 『彼女』という部分に力を込めて言った北条は、ことさらに私を抱く腕に力を込めて見せた。 北条との距離がもっと近くなって、ほとんど密着している状態になる。ドキドキ、ドキドキ。早まる心臓の音が北条に伝わるんじゃないかと気が気でない。 「あら可愛い彼女。良いわねー初々しくて」 女の人の甘い声はだが、何故だかチクチク、刺々しい。その理由は彼女の次の言葉で明らかになった。 「……でも彼女に飽きたらいつでも言ってね? おねーさんが遊んであげるから」 彼女は北条に気がある、らしい。 ざわりざわり。心の海が荒れる。……嵐の到来を予感している。 「僕、彼女に夢中なんです。だから遠慮しておきますね」 「今じゃなくていいわよー。あなたのためだったらいつでも時間取ってあげる」 北条の笑顔は完全に営業用のそれだ。話から察するに、彼の家の美容院の客なのだろう。 だが女の人はちらとも怯まない。作り笑顔の裏側の、迷惑顔の北条に気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。……きっと後者だろう。仮にも『彼女』の目の前で、失礼千万な言動を繰り返す人だ。 ――ざわざわざわざわ。海が荒れる。不快感がいや増していく。嵐は彼女か、それとも私の心が見せる何かか。……いずれにせよ焦れったい。 耐えかねた私は北条の裾を引いた。私に注意が移った彼の胸に、自ら、甘えるようにすり寄ってみせる。 北条が目を見開いた。 「ね、大海。早く行こ?」 「…………え?」 「だって時間……間に合わなくなっちゃう」 「あ、ホントだ」 完全なアドリブだが北条は上手く乗ってきた。私を見つめ柔らかく微笑む。……それだけで心が凪いだ。 そして彼は女の人には完璧な営業スマイルを返した。 「ごめんなさい、葛城サン。用事があるのでこれで失礼します。また店でお会いしましょうね」 それから北条は、私の腰に手を回したまま、女の人に会釈をして歩き出した。 歩きながらチラッと振り返ると、鋭く刺さるような視線が私に向けられる。だがすっかり凪いでしまった海は、彼女の嫉視も私の不快感もすべて穏やかに飲み込んでしまった。 「……ビックリ、しました」 角を曲がって女の人の視線がなくなってから、足を止めた北条は私に向き直るとそう言った。 私は腰に回された彼の腕を引き剥がすと、再び歩き出しながら振り返ることなく答える。 「余計な世話だったか?」 「いえ。美容院のお客さんなんですが……正直、苦手な相手で。だから、ありがとうございます。助かりました」 「そうか。要らない世話を焼いたのでなければそれでいい」 過分にぶっきらぼうな言い口は、照れを隠したいからだ。 顔を見られたくなくて早足で歩いても、リーチの違いですぐに追いつき隣に並んだ北条が、紫サン、と名前を呼んだ。 「でもまさか、あんな甘えた声で、甘えたこと言われるなんて……」 ああもう。恥ずかしいから蒸し返すな。 「……忘れろ。演技でなければあんな真似できるか」 「じゃあ……名前を呼んでくれたのは?」 私はピタリと足を止めた。……あれ……? 「……呼んだ、か?」 「ええ」 覚えがない。だが首肯した北条の顔を見て、それから私はすぐにそっぽを向いた。 顔が一気に赤くなる。なんでそんなに……嬉しそうなんだ。 「ねえ紫サン。そろそろ僕のこと、名前で呼んでくださいよ」 「……嫌だ」 「だって自己紹介したときにも言ったじゃないですか。名前で呼んでくださいって」 「良く知りもしない男を名前呼びする習慣はないからな」 「じゃあ……今は?」 言われて返す言葉に迷う。 今は良く知った相手だ。だが。 「……今更呼べるか」 恥ずかしいから。言葉の後半部分は心の内で言うに留めた。 彼女が飲み込んだ言葉はわかっている。『恥ずかしいから』、だ。 だが甘く自分の名を呼んだ紫の声を、大海ははっきりと思い出せる。一度呼ばれたら、……欲が出る。 でもこの分だと、つき合うようになっても名前で呼んでもらうまでには時間がかかるだろうな。大海はそう思った。 それでも、 (また、呼んで欲しいな) ――『大海』。自分の名を呼ぶ彼女の声を心の中でなぞりながら、大海は先へ先へと進む彼女の背中を追いかけた。 |