適正対価



 


「なあ北条。ハサミ、持ってないか?」
「ありますけど……何に使うんですか?」
「前髪が鬱陶しいから、ちょっと切ろうと思って」



 大海は目をぱちくりさせて、それから大きなため息をついた。全くもう、この人は。



「紫サン……思いつきで行動したら、後悔することになりますよ?」
「え?」
「思いつきで切って、……それで失敗したことってありません?」

 沈黙。顔が引きつっているところをみるとやはりあるらしい。
 苦笑した大海はふと妙案を思いついた。

「……そうだ紫サン。今から家に来ませんか?」
「は?」

 唐突な話題の転換に、全力で怪訝になった紫を見ながら、大海はゆっくり言葉を重ねる。



「今日は月曜日で店も休みだし、気兼ねはいらないですから。
前髪、鬱陶しいんでしょう? ……家で、僕に、切らせてください」
「…………え?」






適正対価



 定休日の店には誰もいない。父も兄も留守。仕方ないので事後承諾を得ることにして灯りを付けた。
 物珍しそうに店内を見回す紫を促して椅子に座らせ、ケープを羽織らせる。ハサミと櫛と髪を留めるクリップをキャスターの上に並べ、自分も椅子に腰掛けた。

「髪、とかしますね」
「……うん」

 手触りのいい髪をとかしていく。長い後ろ髪を梳き、目にかかる長さの前髪を丁寧に櫛削る。
 目を閉じていた紫が息を漏らした。

「……ずいぶん、手際がいいな」
「そうですか? そう言ってもらえると嬉しいです。僕一応美容師志望なんで、時間があれば父や兄に教わってるんです」
「家を継ぐのか?」
「いえ。同じ道に進みたいだけです」
「そうか。すごいな、身近な人の背中を追おうと思えるのは」
「そうでしょうか?」
「ああ。私の親や姉は好きなことを仕事にしているけど、私は好きなものが多すぎて、まだ将来を決められない」
「いいんじゃないですか? 僕はたまたま早くやりたいことが見つかっただけですから」

 前髪と横髪を丁寧に分け、落ちてこないようクリップで留める。それから紫に問いかけた。

「どのくらいにします?」
「鬱陶しくないくらい」
「……またアバウトな……」
「お前の方が私に何が似合うか知っている気がするからな。だからお前に任せるよ」



 そう言って紫は目を閉じてしまった。
 任せる。信頼してくれている一言が嬉しい。大海は少しずつ切ってみることに決めて、椅子を動かし紫に向かう。そうしてハサミを手に取った。






 シャキシャキ。軽いハサミの音だけが響く。
 紫の前髪にハサミを入れながら、大海は別のことで頭がいっぱいになっていた。



 目を閉じた彼女の顔が、目の前にある。

 ……キスしたい。キスしたい。キスしたい。

 これ何て言う拷問なんだろう。衝動と戦うのがこれほど大変だとは思わなかった。
 刃物を持っているんだから。危ないから! 自分を叱責してそちらに意識を集中させる。シャキシャキ、シャキ。
 程なく髪を切り終わった。ブラシで顔に付いた髪を払い、もう一度櫛でとかして仕上がりに満足する。もう目を開けて良いですよ、かけた声にゆっくりと紫が目を開いた。



「……可愛く、なりました」

 ケープをはずしながら大海が言うと、鏡を見つめていた紫が嬉しそうに彼を見上げた。

「さすがだな。今度からお前に頼もうか」
「それは嬉しいですね」

 頑張っていることを認められたようで素直に嬉しい。だが少し悪戯心が蠢いた。こっそりと耳打ちしてみる。



「……でも高いですよ?」
「高いのか?」
「ええ、」






 首を傾げる彼女の唇に、大海は自分のそれを重ねた。目を見開く彼女が可愛くて、目を閉じるのが惜しくなる。一度唇を離しセルフレームを跳ね上げて、文句が出る前に再度深く口づけた。
 やがて苦しくなったのか、紫が弱々しく大海の胸を叩いた。それでようやく大海は唇を離した。……本当はまだまだ満足していないけれど。



「……この位です」

 ニッコリ笑ってそう言うと、紫が真っ赤な顔で大海の胸をもう一度叩いた。

「高すぎだ、バカ!」
「じゃあ適正な対価ならもらっていいんですか?」
「時と場合と、場所による!」



 勢いで飛び出した紫の言葉が、否定でなかったことに大海は笑顔になった。言いすぎたと気づいて焦った顔の彼女に、蠱惑的に囁いてみる。



「……じゃあ今から、僕の部屋で、適正な対価を僕にください」
「これ以上はぼったくりだ!」



 紫の返答に、大海は思わず吹き出した。


 
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