『Hero,me.』 -下-



 


 先を行く彼の背を追って、少し歩くと公園があった。遊具がいくつかあるだけの小さな公園だが、夕暮れ時なので遊ぶ子どもはもう居ない。
 そこで北条は足を止めた。私も立ち止まる。

「それで、話って何ですか」

 振り返ろうともしない北条の声は、あまりにも他人行儀で私の心を抉った。でも仕方がない。あれだけ怒ってくれたのに、その理由を理解しようとしなかった私が悪かったのだから。
 でもこのままは嫌だ。だから私は一息に言って頭を下げた。

「北条……心配かけてごめん!」



 ……暫し落ちる沈黙。

 それから、下げた視線の端っこで、北条の靴が動くのが見えた。ため息をつきながらベンチに腰掛けた北条の、その前に立った私はいつもと逆の目線に戸惑った。
 私を見上げる北条の、眼鏡の向こう側の瞳が揺れている。



「……ねえ紫サン。あの時、僕、本当に怖かったんです」
「怖い……?」

 私は言葉の意味が理解できなかった。吐き出すように気持ちをぶつけてくる北条の言葉を黙って聞く。

「アイツが……紫サンに手をかけていたから。間に合わなかったのかもって、あなたが傷つけられたのかもって……あなたを守れなかったのかもって。
あなたは守るなって言ったけど、それでも僕はあなたを守りたいんです。弱いからとか、女の子だからとかじゃない、誰よりも大好きで、誰よりも大切なあなただから!」



 北条の言葉が、私に刺さった。

 刺さった場所は、私の矜持。
 『女だから』ということに、拘っていたのは私だけだ。北条はただ私だけを見てくれていたのに、自分はそれに気づかず、あまつさえ否定した。

 ――私だから守りたい。刺さった言葉が私に沁みて、頑なな矜持を柔らかく溶かしていった。



「それなのに守れなかった、あなたに怖い思いをさせた。そう思ったら、不甲斐ない自分に腹が立って仕方なかった。
……だからあなたに当たったんです。あなたが勝手に突っ走ったから、僕を頼ってくれないから。そう理由づけて」

 ごめんなさい。全部僕の我が儘です。
 北条はポツリと呟いた。

「でも、頼ってほしいのは本当です。いつも僕ばっかりあなたに依存してるから、ピンチの時くらい、頼って欲しかった。……僕の名前を、呼んで欲しかった……」
「……言いたいことは、それだけか?」

 静かに問うた私の声に北条は力無く頷いて、そしてそのままうなだれた。



 ズキン。ズキン。心が痛い。でもきっと北条はもっと痛かった。傷つけたのは、私。





 ――体が動いたのは、無意識だった。



 私は一歩、前に出ると、そっと北条の頭をかき抱く。
 こんなことで傷を癒せるとは思えない。だけどそうせずにはいられなかった。



「……紫サン……?」
「お前は何も悪くない。間違っていたのは、私だ、北条……」



 自分一人では何もできないのだと、知っている癖に解っていなかった。
 だから一人で突っ走って――結果、皆に心配をかけて、北条を傷つけた。



「……前にもお前に怒られたことがあったよな。自分を大切にしないのに他人を大切にできないって。
結局私はわかってなかったんだ。自分を大切にできてなかったから、一番大切なお前も、大切にできなかったんだ……」



 ぎゅっと。北条を抱きしめる腕に力を込めると、北条が身じろいだ。顔を上げ、私を見る。

 ――私はうまく笑えているだろうか。






「お前が好きだよ、北条」






 あの時。
 守られてしまった戸惑いより、北条が助けに来てくれた嬉しさの方が大きかった。
 ――守られて嬉しいと、そう思ったのは初めてだった。






「紫サン……本当に?」

 すがりつくような北条の手に力が籠もる。

「私が冗談でそんなことを言うと思うか?」
「いえ……でも、本気だったらもっと言ってもらえないかもって思ってたから……」
「あのな……お前が告白してくれた時に約束しただろう? 答えを見つけたその時に、返事を聞かせてくれって。
……ようやく、見つけた。待たせてすまなかっ……」



 言葉途中で立ち上がった北条が、私を抱きしめた。痛いくらいに、息が詰まるくらいに、きつく、きつく。



「僕も紫サンが好きです」
「ああ」
「大好きです」
「ああ……私もだ」



 私もそっと北条の背中に手を回す。
 初めてそうした北条の背中は、予想していたよりずっと広かった。






 どれくらいそうしていただろうか。北条が腕の力を緩めた。私は彼の胸を押して離れようとしたが――それは北条に阻まれた。離してくれる気はないらしい。

「紫サン……お願いがあります」

 真剣な声で言われて、私は彼を仰ぎ見る。いつもの角度に何故か安心した。そして、いつもの彼の優しい笑顔にも。

「これからあなたがピンチの時は、ちゃんと僕を呼んでくださいね。僕の、名前を」
「北条を?」
「いえ。名前の方です」
「どうして?」
「言ってみてたら、わかります」

 私は怪訝な顔をしつつ、彼の名前を口の中で転がしてみた。ひろみ。そしてそれを何度か繰り返す。……あ……



「……Hero,me……」
「ええ。誰かのヒーローになってほしいって、母さんが付けてくれた名前です。……でも僕は誰かじゃなくてあなたがいい」

 そう言って、北条がまっすぐに私を見た。――初めて会ったときから変わらない、真摯な瞳。






「あなたの隣を、僕にください。あなたのヒーローになる権利を。……僕と、つき合ってください」






 ――私は俯いた。
 ゆっくりと、ゆっくりと。北条の言葉が私に沁みていく。



「……北条。私は可愛くないし、女らしくないし、口も悪いし、無鉄砲だしガサツだし、きっと後悔するぞ?」
「しませんよ。あなたの全部を好きになったんだから」
「お前も物好きだな……なら、」



 私は顔を上げた。見下ろす北条と視線がぶつかる。逃げるな。逸らすな。ちゃんと伝えろ。






「……お前が私を嫌になるまでは、私の隣にいればいい」



 ちっとも可愛くない、それでも精一杯の私の返事に、北条はくしゃっと満面の笑みを浮かべた。――私の好きな、彼の顔。



「嫌になんてならないから、ずっと隣にいます」



 北条はそう言って、大きな両手で私の両頬をそっと包む。
 壊れ物を扱うかのように優しく触れる、その温かな感触が心地良くて私は目を閉じた。僅かに顔が上向けられる。

 ――そして、唇が重なった。


 
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