彼のラスト・ミッション



 


「タカナシ先生。紫サンに何を言ったんですか?」
「んー? 何が?」



彼のラスト・ミッション



 紫の様子がおかしい。その日大海が最初に感じた疑念はすぐに確信に変わった。
 自分と目を合わせようとしないし、会話を試みても上の空。それで大海は彼なら何か知っているだろうとすぐさま小鳥遊に詰め寄ったのだ。
 問いかけはフェイク、だがそらっとぼける彼を見て、何か仕出かしたのだと感づいた。笑顔のまま机の足を蹴っ飛ばす。ガタン。衝撃で机の上に積んであった本がバサバサと崩れた。
 あーあ。ため息をついて本を元に戻しながら、小鳥遊は答えた。

「本は大事に扱えよな」
「……質問に答えてください」

 あくまで笑顔の大海だが、その声は切れそうな程に鋭い。それでも小鳥遊はニヤリと笑って応じる。

「ちょっとな、引っ掻き回した」

 ……やっぱりか。大海はため息をついた。
 本当に、彼が来てから色んなものが乱される。自分の心も、彼女の心も。

「僕、紫サンに何か仕出かしたら……って言いましたよね?」
「聞いたよ。だが止められんのさ、性分だからな」

 軽い口調とは裏腹に、その表情は少し苦々しげだ。それに気づいた大海は眉をひそめた。



「……何か、あったんですか?」

 改まった口調で問いかけると、小鳥遊は虚を突かれたような表情になった。頭をがしがしと掻いて、お前ホントに鋭いよな、そう呟いてから真顔になる。

「ちょっとな、紫のトラウマをほじくり返したんだ」
「……何のために?」
「紫のために。アイツがいつまでも昔の約束に縛られてるから、そろそろ解放してやらなきゃならんと思って」
「事情を、教えてもらえませんか?」

 問いかけると、小鳥遊は目を細めて、

「お前なら……そう言ってくれると思った」

 嬉しそうに言った。






「お前さ、紫を守ろうとして、拒否されたことってない?」
「……つい先日、ありました」

 最初に聞かれたのはそれだった。渋い顔をして頷いた大海に、やっぱりか、と小鳥遊は肩を竦める。

「紫はな、人を守るために強く在りたいんだ。だから自分が守られることは弱さだと考えてる。
守ることに固執する理由は、昔の約束だ。……真雪の心を今でも捕らえてるアイツと交わした、姉を守ってくれという、約束」

 ――遠い空を鋭く見遣る小鳥遊は、空の上にいるという『彼』を睨みつけているかのようだ。

「『守って』と言われたから守る。それだけっちゃそれだけだが、単純な分根が深いんだ。
紫は、人は守るが自分は守ろうとしない。それなのに他人にも自分を守らせない。自分を大事にしないんだ。……真雪が危惧してたよ、紫は『守る』ためには危地にも飛び込んでいきかねないって。そうなったら誰が紫を守る?」

 僕が、言いかけて大海は口を噤んだ。僕だっていつでもあなたを守れる訳じゃない。紫本人にそう言ったのはついこの間だ。

「いい加減、約束という呪縛から解き放たれて、自分を大事にするってことを理解しなきゃいけないんだ、アイツは。
だからトラウマをほじくり返した。……お前がいたら大丈夫だと思ったから」



 ――自分がいたら、大丈夫。
 最後の一言に目を見張る大海に、オレ今日で教育実習オシマイなんだわ、今更のように小鳥遊は告げた。

「久しぶりに会った紫は見違えてた。女らしくなって雰囲気も柔らかくなった。
アイツを変えたのは、間違いなくお前だ。紫を頼むな、北条」



 言われなくても、それは大海にとって自分からでも引き受けたい事柄だ。それより、



「……すごい良いことを言ってるように聞こえますけど、結局は教育実習最終日に紫サンの心を引っ掻き回した挙げ句、肝心要のところを僕に押しつけて逃げるってことですよね?」
「そうとも言うな!」

 あっけらかんと笑う小鳥遊に、毒気を抜かれて大海も笑った。彼にはさんざんひっかき回されたけれど、なんだかんだで憎めないのは邪気がないからかも知れないと今更ながら思う。

「まあ、アイツにかかる心配が無くなれば、真雪も心が軽くなるしな」
「真雪サンが……ですか?」
「ああ。……真雪は、自分が紫の人格形成に影響を与えちまったことを後悔してた。でも自分じゃどうにもできなかったから、ずっと紫を変えられる相手を待ってた。
お前が紫を変えて、それで紫が幸せになって真雪が笑えるなら、それは回り回ってオレのためにもなるしな」
「……結局、そこですか」
「ああ。だってオレは真雪の心が欲しいんだからな。そのためだったらなりふり構わんさ」



 笑う小鳥遊はだが、なりふり構わないという癖に、ものすごい遠回りをしていると大海は思う。
 真雪を一番に考えて、彼女の大切な妹のことまで大事に扱って、いつたどり着くかわからない彼女の心を目指している。

 ――自分なんかよりずっと、先の見えない恋をしている彼を、初めて、すごいと感じた。


 
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