傷付かない恋を教えてください |
キーボードを指で叩いてはデリートキーを必要以上に押す。 画面は白紙へと戻り、そしてアタシは再びキーボードを叩いた。 画面には『石岡』の二文字……。 【傷付かない恋を教えてください】 今回の部紙のテーマはズバリ『恋』。 恋か、とアタシこと佐伯志乃は窓の外を眺めながら溜息を吐いた。空はアタシの悩み事なんか関係ない程、澄んだ青い視界を広げる。 それが益々自分を情けなくさせる。 横では綺麗な髪を振り乱しながら紫ちゃんが発叫していた。 「うわー、書けねー!」 椅子でも蹴り倒したのだろうか、ガタンと音が机を伝わった。 『書けない』、その紫ちゃんの気持ちにとても共感した。 アタシも正に部紙を全く書けないでいたのだ。 そして同時に今回のテーマである『恋』と言うものに苦い思いを馳せていた。 胸が小さく縮むような痛みを覚えてアタシは上唇を噛む。 パソコンの中にある『石岡』の二文字の苗字。点滅するカーソルは無機質にその先を書くように促して来る。 そしてアタシは今日何度目か分からないデリートキーを押した。 中々進まない紫ちゃんとアタシ、既に原稿を上げたかんなちゃん、完成させた原稿を全消去してしまったなのちゃんはお茶にすることにした。 そこで繰り広げられる各々の恋愛論。 そこでかんなちゃんは恋は人を成長させるものだと語った。 そうか、成る程とかんなちゃんを見て納得させられる。 成長……。 その言葉を聴いてアタシの視界は過去へとフェードアウトしていった。 アタシには後悔した恋があった。 あれから一年以上も経つけれども喉に魚の骨が刺さったかのように偶にじわりじわりと疼くのだ。 なのちゃんは恋をときめいて、ドキドキして、胸がギューッとしてと身振り手振りを加えて力説してくれた。 確かにいつかはあった、アタシにもそんな感覚。とても毎日が眩しくて堪らない、恋愛小説にもあるようなベタな表現。 でも……。 アタシは自らそれを粉々に壊したのである。 理由なんてシンプルだ。傷付くのが怖くて堪らなかったからだ。 恋をしている時とは違う関係へ変わる瞬間が酷く恐ろしくてアタシはにげたのだ。デリートキーで消した『石岡』から……。 それは中学三年生。アタシ、15歳。 石岡、15歳。 アタシはいつからだっただろうか、意識をしたことはなかったが、いつも同級生に“やられキャラ”として扱われるクラスメイトの石岡のことを自然と目で追うようになった。 この気持ちを自覚する前は、みんなと一緒にすぐむきに反応する石岡をからかっては笑って楽しい仲間の一人でしかなかった。 一言で言い表わせば『良い奴』だ。 『良い奴』のポジションというのはアタシの中で恋愛対象には決してならなくてとても安心して、また油断をしていた。この心地いい友達関係に。 やられるばかりなのに人のことを決して悪く言わない。それが自分のキャラだって、それがみんなに愛されてるんだって、真っ赤な陽の射す放課後の教室で石岡は伸びをしてアタシに照れ臭そうに言った。 頭をクシャッと掻き上げながら、Tシャツの裾を弄る。それが彼の癖だった。 いつの間にか刻み込まれていたアタシの中に、あなたの痕跡。 その瞬間、そこにいたのはアタシが知っているいつもの“やられキャラ”の石岡ではなく、れっきとした男の子の横顔をした彼だった。 あなたの横顔も白かったTシャツも一瞬で真っ赤に染まった。そしてアタシの頬も、夕陽を浴びて熱を帯びてゆく……。 それからだった。石岡のことを直視できなくなっていた。今までは隣に座っても、体の一部分が触れても、大丈夫だったのに今は視界に入れることさえ耐え難くて不自然になってしまう。 でも隣にいたくて、あなたの視界に入っていたくて、アタシの中で沸騰する熱と心音を必死で押さえつけていつものように振舞う。 あなたと目が合うたび、あなたと肩が触れるたび、あなたが私を呼ぶたび、あなたと同じ空気を吸うたびにアタシはあなたに悟られまいとこの気持ちを隠しては、ますますあなたのことを好きになっていった。 なのちゃんが言っていた感覚そのままである。 昨日までは友達。今日からは好きな人。自然から不自然に変化する。 そしてこれが恋だと気がついた……。 石岡を好きになってからは毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。まるでキラキラが詰まった宝石箱を開けるような日々。恋の楽しみ方も見つけていった。いつの間にか学校に行くのも石岡に逢いたいからと理由が変わってゆき、アタシの中心にアタシ以外の誰かがいる幸せな感覚を覚えた。 でもそれでよかった。 それだけでよかった。 徐々に気付き始める、石岡が向けてくれるのアタシへの想い……。 両想いだと言うことはお互いに暗黙の了解だっただろう。 しかし……。 3月20日、中学校卒業式。 アタシはどこか期待していた。でも期待していたからこそ逆に怖くて全身が震えていた。上手く呼吸が出来ずに頭から血の気が引いて冷たくなってゆく。 告白をするために石岡を呼び出した校舎の裏、一世一代の勇気を振り絞って気持ちを伝えよう、そう決めていたのに。 この手で気持ちを壊す瞬間でもあった。 怖かった。気持ちを素直に伝えるよりも自分が傷付くことがアタシには怖かった。 もし付き合うことになって、上手くいったとしてもその先は?この気持ちが、石岡の気持ちが不変だと言い切れるか? 傷付かず、ずっと幸せのままでいられるのか?恋だけをしていた頃のように。 だから、だからアタシは……。 「… …石岡のこと、好きだけど……返事は言わないで。怖いから……。」 逃げた。 その場から石岡独りを置いてアタシは逃げた。 予防線張って自分が傷付かないように、自分から遠ざけた。関係を作る前に壊した。 期待がここまで怖いだなんて知らなかった。この恋を失うことがここまで怖いだなんて知りたくなかった。 縺れる足を必死に耐えながら、アタシは桜並木を走り抜けた。散る桜に交ざって涙も散ってゆく。 走って走って、もうこれ以上走れないってときに躓いて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。 逃げた涙。失うことへの恐怖の涙。後悔の涙。壊した己への怒りの涙。 思い出すと涙の味は今でも口の中に広がる。あのときの後悔とともに。 あれから一年以上も経つ。 石岡はどうしているだろうか。もう思い出すことも少なくなって来たけれども、恋はあれ以来していない。 もしくはしないようにしているのかもしれない。その方がしっくり来るような気がした。 恋は人を成長させるものだとアタシもいつかかんなちゃんのように答えることが出来るのだろうか。 今のアタシにはまだ無理のようである。 「ニャー……。」 開け放った窓から微かに猫の鳴き声が風に乗って聞こえて気がした。 アタシの神経はいつの間にかその外へと向けられる。 そして体の中から泡立つ何かを無視してアタシは立ち上がる。 「ごめん!ちょっとお手洗い!」 みんなの見送りの声を聞き終える前には部室をあとにし、相変わらず埃っぽい廊下の窓から裏庭を覗いた。 ああ、やっぱり思った通り、今日も貴方はそこにいる。 「……先生!」 アタシは誰もいない寂れた裏庭にしゃがみ込むよれよれの白衣を着た人影に声を掛ける。 その人影は一旦アタシを見上げるものの、そのまま目の前にいる野良猫に視線を戻した。 クスクスとアタシは笑っていた。 無意識に。 タンタンと階段を降りる足が軽いのは今日がきっと澄み切った青空のせいだろう。 「志乃ちゃんのトイレ最近長いよねぇ。」 肘をつきながら紫ちゃんは不思議そうに首を傾げる。さらりと髪が流れた。 「どこかに行ってるんですかね?後追ってみます?」 どこか期待に満ちたなのちゃんをやんわり諭すようにかんなちゃんは紅茶に口をつけながら言った。 「詮索は止めておきましょう。志乃ちゃんから近いうちにわたしたちに話をしてくれる時が来るわ。」 「見守るって何を見守るんですかー?あたしは志乃先輩のこと知りたーい!」 「なの、部長の言うことは絶対。いいか?」 「はーい……。」 そんな会話がアタシの居なくなった部室でされていたとは梅雨知らず。 アタシは土の香りを肺いっぱいに吸い込んで、裏庭へと足を踏み入れる。 まだ傷付かない恋なんてないことを知らないまま……。 |