怒りの代償



 


『お前以外見る余裕あるか、バカ!』



 思っても見なかった言葉が、彼女の口から聞けた。

 照れ隠しで蹴られた臑の痛みなんて気にならない。緩む顔が抑えられない。どうしよう。意識されてる、よね?
 小鳥遊先生の言葉でささくれ立っていた気分はすっかり落ち着いた。やっぱり僕を動かせるのは紫サンだけだ。どうしよう。どうしよう――嬉しい。

 今なら何も怖くない。大海は機嫌良く部室に戻った。



 出て行った時とはまるで違う上機嫌な顔の大海を見て、嫌な顔をしたのはなのである。

「ちょっと。紫センパイに何したの!?」
「吉野……どうしてそうなるの?」
「確率の問題よ!」

 即ち、紫が大海に何かするよりは、大海が紫に何かする方が可能性があると言うことらしい。あながち間違ってはいない。間違ってはいないが――

「今回は紫サンに言われんだもん」
「何を!?」
「内緒ー」
「もう! かんなセンパイと志乃センパイが帰ってきたら言いつけてやるんだから!」

 プリプリ怒るなのも意に介さない大海の上機嫌っぷりを見て、小鳥遊は大仰なため息を吐いた。

「……おもしろくねーな。紫のヤツ、一体何をバラしたんだか」
「特に何も。ただあなたが万年フられ男だと言うのは聞きましたけど」
「紫……あの野郎……」

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた小鳥遊に、大海はにっこりと笑ってみせる。



「もし、百万が一にも、あなたが紫サンに何か仕出かすようなことがあれば、僕は全力であなたを排除しますからそのおつもりで」
「…………。かわいくねーガキの相手するのもたりぃから、一服してくるわ」

 大海の笑顔の裏側に、小鳥遊はちゃんと気づいたらしい。言い訳しながら逃亡した彼を見て、大海はようやく溜飲を下げた。
 とりあえず自分の気も済んだし牽制もできた。あとは紫が帰ってくるのを待つだけだ。……はてさて、どんな顔をして帰ってくることやら。それを考えるとまた顔が緩んだ。



「ねね、北条くん。……どゆこと?」

 なのが興味津々に聞いてきたので、大海はどこまで返していいか考える。
 彼女に話せばある程度の情報は漏れる、と言うのは経験から知っている。紫の言葉は誰にも教えないとして、……小鳥遊の話は少ししてもいいだろう。うん。

「内緒にしててね? 実は小鳥遊先生は、紫サンのお姉さんに……」






 しばらくして、『教育実習生はフられストーカーである』という噂が校内で流布した。
 噂の内容が内容なだけに、教員たちは事態の沈静化と真相の究明に躍起になったが、真実を知るものが皆口を噤んだので、噂は噂のままあっさり立ち消えた。






怒りの代償



 大海はひとり、ほくそ笑む。
 自分を怒らせ、あまつさえ紫に気のある素振りを見せたのだ。このくらいは甘んじて受けてもらおう。

「北条……てめぇ……」
「人で遊ぶからですよ、センセイ?」
「くぁー! どいつもこいつもかわいくねー!」


 
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