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愛されてるから

「釣れないものですね〜」
ヒカリとタオは二人並んで、のんびりと水車小屋の前で釣りをしていた。
先ほどから魚がかかる様子はないが、じっと向こうに続く水平線を眺めながら、静かに揺れる水面にルアーを浮かべていた。
「それにしても暑いですね」
「今日は陽射しが強いですし、ちょうど正午ですからね」
ヒカリはそっと額の汗を拭った。それに気がついたタオは自分の帽子をそっと彼女に被らせた。
「いいんですか。お借りしちゃって」
「どうぞ、どうせあまり被らないので」
あまり日に当たりすぎるのもよくないですから、タオはいつもの優しい口調で言い、ヒカリは少し頬を赤く染めて笑う。
二人が再び視線を元に戻して釣りを始めてからしばらくすると、二人の上にかかる橋の方から何やら音が聞こえてきた。
ザッザッと足元の砂を蹴飛ばす音。それは人の足音だ。わざとらしく足元の地面を擦り蹴るように歩く音。水車の回る音といっしょに足音はしばらく続いた。
ヒカリはどこかで聞き覚えのあるその音に耳を傾けていたが、やがて、「あ、これはユウキくんの足音だ」と一人納得したように言った。タオも「ああ」と頷く。
「彼らしい歩き方ですもんねぇ」
「ユウキくん、今日は鶏の餌を買い出しに行ってくれたんですよ」
タオは感心したように小さく笑った。
ヒカリの弟ユウキは今まさに鶏の餌を買い、牧場に戻る最中だった。ずっしり大きな麻袋を担ぎ、汗だくになりながら歩いていた。ちょうど橋の真ん中まで来たところでふと気付いた。下の水車小屋で釣りをするヒカリとタオがいる。ユウキは足を止めて、くすくす笑ったり釣り糸を揺らす二人を見た。
「ったく、ヒカリのやつ。にしてもタオは暇なやつだな」
ユウキは少し笑ったと思うと、フンと鼻を鳴らし足下にあった石ころを蹴飛ばした。そして麻袋を担ぎ直すと再び歩き出した。
ヒカリはユウキに声をかけようと顔をあげたが、もう弟の姿はなく、橋の上から小さい石が目の前の川に落ちてきた。
「あらあら、ユウキくんたら。いま上から石を蹴飛ばしました」
「そうでしたか。当たらなくてよかったです」
ユウキの行いヒカリは眉をひそめた。
またユウキの機嫌を損ねてしまったようだ。それもそのはず、一方は働いて、もう一方は釣りをして遊んでいるのだ。
「あの、タオさん。タオさんはユウキくんが悪い人に見えますか?」
タオはうーんと唸ってから、「わたしには悪い人にはみえませんが」と少し濁した回答をした。
ユウキは決して悪い奴ではないが、大柄な態度と大雑把な性格を見て、彼を勘違いする者がいるのは確かだった。しかしタオは違う。タオは人を外見だけで判断したりはしない。
「タオさんはわかってくれてるんですね!」
ヒカリはパッと表情を明るくして、興奮のあまり持っていた釣竿をパッと手から離した。釣竿は一直線に水面に落ちていった。
「そうなんです。ユウキくんはあんな態度だけど、本当はすごくいい子なんです。
あの子は頑張ることがかっこ悪いと思っていて、だからやる気がなさそうにだらりとしてるの。でもそれを認めるのが嫌なんです。
『俺は本当にやる気なんてねぇんだよ』なんて言いながら、わたしたちのために一生懸命働いてくれるんですよ」
タオは話を聞きながら、ヒカリが落とした釣竿がゆっくりと川を流れていくところを見ていた。
「ユウキくんは誤解されやすいんですけど、本当はとてもいい子です。今日だって、本当はわたしが餌の買い出しに行くこともできたんですけど、ユウキくんが行ってくれたんです。『ヒカリが行ったら日が暮れる』なんて意地悪をいうけど、本当はわたしを想ってくれてるんですよね」
ヒカリは途中ユウキの口真似を交えながらここまで一気に身振り手振りで語ったため肩で息をした。
「ヒカリさん、落ち着きましたか?」
タオはにっこり笑う。
「はい。すみません、つい」
「ヒカリさんは弟想いなんですね」
「ちがいます、ユウキくんが兄妹想いなんです!」
ヒカリはすくっと立ち上がり言った。
「多分、こんな風に言われること、ユウキくんは嫌がりますけど。ユウキくんはわたしのために、あんな風な態度で働いてくれてるんです。わたしが最初この土地に来ることを嫌がったりしたから‥‥」
ヒカリは先ほどまでの勢いをなくし、その語尾はだんだんと小さくなり聞こえづらくなってきた。
「わたしは内向的で、思い切ったこととかできなくて。だからタケルくんがこの町への引越しを提案してくれたとき不安で‥‥」
ヒカリはタオの帽子をぎゅっと引っ張り、目深にかぶり直した。
「本当に悪いのはわたしなんです。兄妹たちに気を遣わせて、マイペースに暮らしてるんだもの。がんばりやさんのユウキくんが町の人に勘違いされるのは辛いです」
ヒカリが言い終えると、周囲は川のせせらぎだけの静寂に包まれていった。
タオはしばらく俯いたヒカリのことを見ていたが、再び釣り糸を川に垂らした。
やがて小さい魚が釣れた。
「ヒカリさんはこの町での暮らしが嫌いなんでしょうか?」
突然問いかけられたことに驚くヒカリ。顔を上げてタオの方を見たが、彼は無表情のまま釣れた魚をカゴに入れていて、目が合うことはなかった。
「嫌いじゃないです。楽しいです。自然が美しいし、動物もかわいいし、タオさんと釣りをしたりお喋りするのも楽しいです」
「そうですか。それなら安心しました」
タオはようやくいつもの穏やかな表情に戻り、言葉を続けた。
「わたしはヒカリさんが日々を楽しく過ごしてくれたら嬉しいです。それはきっとユウキくんも同じだと思います。彼の真意は彼しか知らないけれど、彼は自分を騙し騙し毎日の仕事をがんばっているのかもしれません。でもそれはヒカリさんをはじめ、彼の兄妹のためなのかもしれません」
そして「町のみなさんもユウキくんが悪い人だなんて思っていませんよ」と笑った。
「わたしの心配は余計な心配なのでしょうか?」
眉を八の字に下げ訊ねるヒカリに、タオは自分の頭をさすりながら少し考えるふりをした。
「わたしの考えになりますが、ヒカリさんが楽しいならそれでいいのだと思います。あなたの幸せがわたしたちの幸せですから」
タオは発言後、自分が言ったことにだんだんと恥ずかしくなったようでみるみる顔を赤らめた。言われた方のヒカリはタオの気持ちには全く気付かないようで、ただただ笑顔になった。今日まで、ユウキをはじめ兄妹たちを安心させるには一体どうしたらいいのか、ヒカリには皆目見当がつかなかった。
そうなのか、自分の幸せが他人の幸せを導くのか。
ヒカリは今日から、いや今から、みんなのためにも絶対に幸せになると心に決めた。
心でガッツポーズを決めたそのとき、ヒカリは突然あることを思い出し「あっ」と声をあげてその場から走り出した。
「ヒカリさん?」
「タオさん、ごめんなさい!わたしの釣竿、さっき落としちゃって!海に流れてしまう前に捕まえないと〜」
タオに借りた帽子が飛ばないよう、ヒカリは右手で帽子をおさえ、川の流れに沿って走っていく。その姿は慌ててはいたが表情は明るく晴れやかだった。
タオにはそんなヒカリの姿がとても愛おしく、笑顔を我慢せずにはいられはいのだった。