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ふたりの恋

二人が口を聞かなくなって一晩が経ちました。
この日もチハヤは日付が変わるまで仕事でした。チハヤは料理をつくるときも、デザートを運ぶ時もアカリはまだ自分のことを怒っているだろうか、そしてもう寝てしまっただろうかと考えました。そのたびに、アカリに叩かれた頬が少し痛み、それ以上に胸が痛みました。

ようやく仕事を終えたチハヤがそっと家の扉を開けると寝室の灯りがぼんやりと光り、アカリがまだ起きているのが分かりました。
彼は右手の人差指で頬をぽりぽりと掻いて顔をしかめました。そして小さく「ただいま」と言ってお風呂に向かいました。

チハヤがお風呂から上がってもアカリはまだ起きているようでした。それでもアカリはチハヤに「おかえり」も言わなければ、目を合わせようともしません。チハヤは髪の毛をタオルで拭きながら、じっと寝室を見ていましたが、やがてキッチンに向かいました。アカリはそんなチハヤの行動を音で感じながらベッドの中でじっとしていました。

小一時間立つとキッチンから家中に甘い良い匂いが漂いはじめました。
「アチチ……。暗くてよく見えないな、でもまぁ…大丈夫か」
チハヤの小さな独り言とカチャカチャと食器がぶつかる音、そしてカップにお茶が注がれる音が聞こえ、アカリはチハヤが何かを作ったことに気が付きました。そして彼女が体を起こすと同時にチハヤが木のトレーに焼き上がったばかりのクッキーと熱いお茶の入ったカップを二つのせて寝室にやってきました。
「クッキー焼いたよ」
チハヤは大して楽しそうな様子もなく、淡白な態度で言いました。
「こんな時間に食べたら太る」
アカリは小さな声で言いました。それでもチハヤはアカリがくるまっているベッドの脇までトレーを運ぶとそこに腰掛けました。
「むしろ太るべきでしょ。きみは棒みたいに足が細いじゃない。というか太るのはぼくのほうさ。ただでさえ太りやすいのに…」
チハヤはぶつぶつ言うと「さぁ、食べようよ」と言ってお皿をアカリに差しだしました。そこには出来たてでほんのり甘い匂いを漂わす、バニラとココア市松模様のクッキーと、オレンジジャムが挟んであるクッキー、砕いた木の実が散らばった円いショコラのクッキーがのっていました。
チハヤはそこから一枚クッキーを摘まむと一口かじり、おいしそうにゆっくりと噛んで風味を味わうように鼻で息をつきました。
「今夜は無性にお菓子を焼きたくなったんだよ。ときどき、急に作りたくなるんだ。今までにも何度かこういうことがあったんだけど、」
アカリはベッドの中でじっとして、チハヤの言動を見守っていました。しかしチハヤの言葉がつまってしまったので、「なぁに?」と声掛けました。チハヤはアカリが口を開いたことに一瞬目を丸くしましたが、「うん」と頷きました。
「お菓子を焼きたくなるときは、決まってきみと話がしたいときだった気がする。結婚する前も、きみのところにお菓子を持っていけば、休憩にしようって言っていつだって一緒に話をしてくれたよね」
アカリはそうだっけ、と白々しい態度をとると、素早くクッキーを一枚とって一口にクッキー頬張りました。そして「おいしいね」と言って、二人で顔を見て穏やかに笑い合いました。
チハヤは赤や黄色の大きな花をあしらったアカリ専用のカップを手にしてミルクを少しだけ入れるとそれを渡しました。そして同時に口を開きました。アカリはカップを両手で包んでいました。
「昨日はごめん。ぼく嫉妬したんだよ」
「嫉妬?」
「きみはあの日ルークと二人で店に来たでしょ。別にいいんだよ、きみたちが一緒に食事をすることに嫉妬したんじゃないんだ。きみがルークにぼくに見せるのと同じ笑顔を見せることに嫉妬したんだよ。昨日も言ったけれど、ぼくはきみの笑顔を独り占めしたくて、ぼくの笑顔もきみだけのものだったらって思ってる」
「でもぼくときみの見解の相違があまりにも大きかったから少し驚いたけれど」とチハヤは大きな菫色の瞳を伏せて苦々しく笑ってみせました。
「けどさ、それは仕方がないことなんだよね。だってぼくらは同じ人間じゃないし、考えることが違って当たり前なんだよね。それに昨日のぼくたち、あれはそれぞれの裏の気持ちだったに違いない。ぼくはぼくの影の部分が嫌いじゃないけど、好きでもないから、たまにあんな勝手な発言をしてしまうんだ」
「チハヤ……」
アカリはチハヤの言葉に対して自分自身にも心当たりがあったので、少し顔を赤らめました。
「きみと出会う前はぼくの影の部分に口出しするひとなんていなかった。キルシュ亭面々はもちろん、先生だって料理以外のことではあまり干渉してこなかった。ぼくはそれくらい刺々しい人間だったんだ。何も言われないのは楽だったけれど、その分少し寂しかった。余計に孤独を感じてたんだよ」
チハヤはハハハと乾いた声で笑いました。
「きみは出会ったばかりのぼくに素敵な笑顔で叱ってくれたよね。嬉しかったから、すぐに好きになった」
チハヤはそこまで話すと、もう一枚クッキーを頬張りました。そしてアカリはカップの中のミルクティーを一口含むとジャムサンドクッキーを手に取りました。
「チハヤ、昨日はごめんね。叩いたりして、それにわたしの気持ちを押しつけたりして。チハヤもちゃんと考えていたのに、わたし気がつかなかったのよ」
「ううん。ぼくの方が悪かった。いつも明るく楽しそうなルークとマイを自分たちに重ねたりしてさ。ぼくはあの二人が羨ましかったんだ。昨日のぼくらは、あの二人とは対照的だった」
二人は「根暗な夫婦だ」と自分たちのことを自嘲したけれど、とても楽しそうでした。
「ぼくはアカリが好きだよ。自分たちの影を放っておいてはだめだね。努力するよ。嫉妬なんてしなくなるように。今回ばかりはぼくってちょっと卑屈だな〜って思った」
「え、ちょっとどころじゃないでしょ!でもわたしだってチハヤを一番に思っているからね。もっともっと卑屈なあなたも笑顔も大切にするね。それにしても今晩のチハヤは随分と雄弁なこと!」
チハヤをからかうアカリは、喧嘩をするまえの明るいアカリに戻っていました。そしてこれまで冷静だったチハヤもようやくいつものアカリに振り回される彼に戻り、真っ赤な顔をして、「今晩のことは忘れてよ」と言いました。
こうしてどうにか仲直りをした二人は、ベッドの上でクッキーをすべて平らげ、ミルクティーも飲み干しました。時計の針が夜中の三時を回る頃、二人は並んで歯磨きをしました。
「午前三時がこんなに楽しいのは初めて!眠れないときは楽しくないときだもん」
「ぼくもだよ。ただちょっと冷えるね」
ベッドに戻ると、二人はいつも以上にぎゅっと寄り添って寝ました。
こうして二人はお互いの光と影を理解し、以前よりさらに愛を深め、二人の間の恋はもう完全に愛に変わったのでした。
翌朝少し寝坊した二人の朝ごはんは、夜中に焼いたクッキーのあまりでしたが、チハヤは午後にまたお菓子を焼いてアカリをお喋りに誘いました。