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こころの裏側

たとえどんなに愛し合って結婚した二人でも、結局は違う二人の人間であり、それぞれが全く別の思考で日々を生きています。だからその時々で考えることだって違うし、思うことも違うのです。
ある日、アカリとチハヤは喧嘩をしました。二人は結婚前も結婚後もこれと言って取り上げるほどの喧嘩をしたことはありませんでした。強いて言うならば、初めて出会ったときアカリがチハヤの嫌味な態度に腹を立てたことぐらいでした。
これまでチハヤは性格上、人とぶつかることは少なくありませんでした。というのも、彼は他人に関心がないため自分に干渉してくる者がいようものなら容赦無く鋭い言葉で突き放した態度を取るからです。それが原因で彼は今まで何度か揉めたことがありました。
しかし、彼はアカリには決してそのような態度を取りませんでした。チハヤはアカリに恋をして、恋人になって、やがて家族になって、ますますアカリのことを好きになりました。そんな彼女にどうして冷たい態度が取れるでしょう。そしてそれはアカリも同じでチハヤに好かれることはあっても嫌われるような、ましてや喧嘩になるような言動は避けていたのでした。
それでも、自覚があろうとなかろうと、人は誰しも不安や憎悪にも似た嫉妬心など、まるで自分の影のような存在をうちに秘めています。そして心の奥に潜んでるその悪い感情は意思とは関係なく突然現れてしまうのです。
今回、唐突に起こったと思われたチハヤとアカリの喧嘩は、実はその内なる思いが原因であり、それはいつでも起こりうる喧嘩で、たまたま今起こったものなのでした。
喧嘩中の二人は寝る前のベッドの中で、初めての口論をしていました。
アカリはベッドの上でサイドテーブルにのっている目覚まし時計をセットしたり、寝る時用の靴下を履いたりして寝る準備をしていました。一方仕事から帰宅し、お風呂から出たばかりのチハヤはまだ少し濡れた髪を手櫛でとかしながら、アカリの言葉に耳を傾けていました。
「だから、わたしが聞きたいのはどうしてチハヤはみんなと仲良くしてくれないのかっていうことなの」
「どうしてって、それはぼくが仲良くする必要性を感じないからで………。まぁ、きみには関係ないことじゃない?それにみんなって、興味もない他人にまでいちいち構っててもしょうがないと思うんだけど」
疲れるだけじゃない?とチハヤは肩をすくめて言いました。
「たとえそうだとしても、チハヤの態度ってあからさまに感じ悪いでしょ。わざわざ場の雰囲気を悪くする必要はないじゃない。みんな気を使ってるんだから、チハヤも周りに気を使わなくちゃ」
アカリは鼻の下まで布団の中に潜りこんで、「この前もさ」と話を続けました。
「わたしが久しぶりにキルシュ亭にいったときも、チハヤはわたし以外のみんなにすごく感じが悪かった。でもわたしにだけキラキラ〜な笑顔振りまいて、それを見てたキャシーは口笛吹いて冷やかしていたんだよ」
アカリが眉間に皺を寄せてチハヤを睨むと、彼はふんと鼻を鳴らして、いくらか沈黙して枕の位置を確かめるように何度か頭をあげてはぼすんと沈めました。
「チハヤ、聞いてるの?」
「聞いてる。でもそれのどこが悪いのかわからないな。ぼくは妻であるきみを大切に思ってるからいつも一番の笑顔を提供しているだけなのに。なんでわざわざ他人の、ましてやルークなんかに親切にしなくちゃならないのさ」
「なんでそこでルークが代表して出てくるの。マイやキャシーも居たでしょ」
「あの時はルークと二人で食事に来ていたし、マイとキャシーは“友達以前に同僚”だからね。ますます気を使う必要はないよ」
「“同僚以前に友達”の間違いじゃない?それにルークだって友達でしょ!」
アカリが少し怒った口調で言うと、負けじとチハヤの方も「友達なんていなくても生きていけるよ」とため息交じりに言い返しました。その言葉にアカリは少しだけ胸が痛みました。
アカリはチハヤと出会ったときから、彼がもう少しだけ笑顔でいられたら良いのにと思っていました。仕事中、お客に向ける彼の笑顔は明らかな作り物であり、アカリはそれをみたときすぐにこれは本当の笑顔でないと思いました。それは彼の心は孤独を感じているようで、だからチハヤに本当の笑顔を知って幸せになってほしいと祈ったし、一方で彼が真なる笑顔を諦めていて、笑顔を知ろうとする努力を怠っている様子に腹が立ちました。
アカリとチハヤが友達になり、恋人になり家族になると、自分に心を開いたチハヤは少しずつ笑顔を見せるようになりました、しかし一歩家を出ると再び営業スマイルで淡白な笑顔で接客をこなし、一度仕事が終わればすっと表情のない人になってしまうのです。そんなチハヤの人との交流を楽しもうとする意思のなさは自分とは正反対だと、アカリはずっと思っていました。アカリの方は無理にでも笑顔を作っては、毎日を楽しもうとしているのです。それは一見とても前向きなことのように感じますが、いつも笑顔でるというのはときにはとても辛いことでもありました。自分のように笑顔でいる努力を怠り、周りを不快にする人間の神経はアカリには知り難いもので、許せないことでした。そして普段は決して表には出さないこの負の感情こそ、アカリの影なる部分なのでした。
「ぼくは、アカリにだけ笑顔でいたいんだ。それはきみだけが大事だってことだよ。ふたりが幸せで居られたらそれはそれでいいことだと思わない?ぼくは君がいれば生きていけると思うし、だから友達なんていらないんだ」
チハヤは真っ直ぐな眼差しでアカリに訴えました。それはとてもロマンチックな言葉だったのでアカリは少し頬を赤く染めましたが、しばらくすると唇を噛みしめチハヤから目をそらしました。
「人は恋も結婚もしなくても、自分ひとりでも生きていけると思う。でも、それでも人が人と関わっていこうとするのはきっと色んな感情を通して心を豊かにする為なんだと思う………」
アカリはぎゅっと布団を握って、「だからわたしは友達は恋人くらい大事なものだと思う」と言いました。
そしてチハヤは目を伏せました。
「きみは今も出会った頃と変わらないね。本当に良い人だ。マイだったらきっと、そんな難しいことをぼくに言わなかったと思うよ」
「それってどういう意味?」
そっと上半身を起こして自分を見ているアカリにチハヤは寂しそうな笑顔で言いました。
「ぼくはルークみたいに周りを楽しませるようなことはできないってことだよ」
チハヤの言葉にアカリは瞳を揺らし「バカ!」と叫びチハヤの頬に平手打ちをしてベッドに潜りこんでしまうと、その夜はもう口を開かず、翌日もチハヤと言葉を交わすことはしませんでした。